第5話 龍のトレーニングセンター
岐阜県北部は飛騨地方に、競翔龍の調教を行う飛騨トレーニングセンターはあった。
そこは全国唯一の競翔龍調教施設で、中央競龍に所属する全ての競翔龍たちはここに集まり、その関係者たちも揃って暮らしている。
まだ陽も明けぬ早朝から、雨に打たれながらも競翔龍の調教は始まっていた。斜面を登って強い負荷をかけ、あるいは悠々と真っすぐ飛んで調整に努め、あるいは下降からの旋回を訓練し、あるいは場所に慣れさせる為にただただ散歩をし、それぞれがそれぞれの調教を行っている。
その光景を、蒲池友治は山頂に陣取る調教スタンドから眺めつつ、周囲の競龍記者の顔触れに眼を向ける。目的の人物は直ぐに見つかった。
取材許可証を首から下げた競龍雑誌「ダイブ」の記者である友治の同僚がストップウォッチ片手に双眼鏡を覗いている。友治は同僚が双眼鏡を下ろすのを見計らって、さりげなく横に並んで声を掛けた。
「良い龍、いましたか?」
同僚が視線を向けてくる。途端、その表情が歪んだ。
「何企んでる?」
鋭い。思ったが、友治はおくびにも出さずに笑みを浮かべた。
「企むって、あいさつ代わりの世間話じゃないですか。ほら、今ちょうど飛んでるあの龍はどうですか」
「ミラクルキャリアーなら今日は軽めの日だ。特別言う事もねえよ」
「あー……そうなんですか。なら龍券の調子はどうです?」
「金は貸さねえぞ」
素っ気なく言って、同僚はまた双眼鏡を覗いた。またまた鋭い勘だ。
「嫌だなあ、そんな事言いませんって」
「お前がトレセンに来るのなんて、金を無心する時だけだろうが。借金塗れの新人に金貸す奴なんていねえよ。仕事しねえなら帰れ」
同僚は片足で追い払うような仕草をする。望み薄なのは分かっていた。しかし頼れるのはもう借金に理解のある同僚たちしかいない。最低でも利子分は返さないと遠藤に命すら取られかねないのだ。
「借金が多いほど競龍記者の格は高くなる、そう言ったのは先輩じゃないですか」
「お前の借金は競龍以外がほとんどだろ。そんな将来性のない奴に貸す金はねえな」
取り付く島もない。これ以上は時間の無駄か。
その時、知人の競龍記者の姿を見かけた。ウォッチマンと呼ばれる競翔龍の調教タイムを取るのが仕事の同僚とは違い、想定班と呼ばれる競翔龍の関係者への取材を仕事にしている男だ。さらに所属する会社も違い、この春入社したばかりの友治の悪名は知らない。頑固な同僚と違って何倍も期待できる。知人は調教スタンドを出ようとしていた。これからどこかの厩舎で取材をするのだろう。
友治は急いで知人を追おうとする。瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
「あ! ……クソ」
思わず声が出る。この間の少年たちに殴られた傷は服の下で青い全身タイツを着ているみたいな痣になっている。普段はともかく走った途端に無視できない鈍痛が全身を襲い、しかし痛みに負ければもっと酷い事になると自分を奮い立たせ、友治は痛みを我慢して知人を追いかけた。
「どの厩舎の取材ですか!?」
声を掛けると、傘を差して外に行こうとしていた知人は朗らかな表情で迎えてくれた。
「こんにちは蒲池君。山本厩舎だよ。バンダイマーチって龍が、厩舎のG1初出翔でね。
その取材をする予定なんだ」
良い感触だ、切っ掛けは掴んだ。山本厩舎の場所は知らないが、少なくとも到着するまで交渉できる。知人も競龍記者の端くれ、大なり小なり借金への理解はある。十分にチャンスはある筈だ。
「面白そうですね。挨拶だけでも着いていって良いですか」
「良いけど」
そこで、知人の顔色が曇った。
「いや、来るのは良いんだけど、君、仕事良いの? 確かこの前会った時、今日か明日締め切りの記事があるとか言ってなかったっけ?」
そういえば、そんな仕事があったような気がする。
「あっ……」
「ダイブ」の編集長に言われて龍でも騎手でも厩舎でも良いから一つを挙げて徹底的に調べて来い。そんな事を言われた気がする。仕事なんてバカ真面目にこなしている場合ではない。でも、首になるのは困る。ただでさえ首の皮一枚で助かるかどうかの瀬戸際なのに、記事の締め切りまで迫っているとは最悪だ。
「……ご愁傷様」
知人は合掌してお辞儀し、友治を残して雨に進んでいった。
時間がなかった。記事の締め切りも、借金の取り立ても期限が迫っている。いや、友治は頭を振る。どう考えてもやばいのは借金の取り立てだ。
とにかく金が要る。全額返せなくても良い。しかし遠藤が納得するだけのそれなりに纏まった金が欲しい。
一人の調教師が眼に入った。過去にリーディングも取った一流どころの調教師だ。金もかなり持っているだろう。面識は一切ないが、最早なりふり構っていられない。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるの精神だ。とにかく大勢の人に声を掛けよう。運が良ければ金の使い道に困った奇特な龍主に出会うかもしれない。
友治は会う人会う人に声を掛け、遠回しに金を求めた。しかし早朝のトレーニングセンターは忙しく、雨も災いしてほとんどが足も止めずに離れていく。それでも強引に進路を塞いでみると、当然のように睨まれ所属を尋ねられた。最初は引き下がるしかなかったが徐々に覚悟も決まり、ついには「ダイブ」の名前を出して金の話題を口にする。
「蒲池ぃ!」
怒声が響いた。競龍雑誌「ダイブ」の編集長、田北義久の声だ。見ると、その大柄な体躯もあってラグビー選手のようにぐちゃぐちゃの地面を跳ね飛ばして迫ってくる。
そして、走ってきた勢いのまま胸倉を掴まれた。
「お前何やってんだよ!」
胸の痣が痛む。それ以上にばつが悪い。だが、これを好機と思わなくては未来はない。友治は田北の手を払い落して背筋を伸ばし、田北の眼を正面から見据えた。
「編集長! 金を貸してください!」
田北が舌打ちした。
「あ!? またスったのか。勉強にはなったんだろうな?」
「……はい!」
田北の眼が細くなる。
「船か?」
答えない。間違ってはいるが、世の中には言わなくて良い事が沢山ある。何を察したのか、田北は重苦しい溜息をついた。
「ああ……もう良い。で、取材の方はどうなってる。明日が期限だぞ」
「明日中にはなんとかします!」
「途中までで良いから見せろ。今見せられないなら、ぐだぐだで良いからここで言え」
必死に頭を回転させる。最近遊んだのは競馬、その前は競輪、その前は海外のドッグレース。競龍を見たのは一か月も前だ。
「そう……そう! 山本厩舎です」
そこまでは思いついたが、それ以上は出てこなかった。言葉を纏めるふりをしてええとええとと何度も言って時間を稼ぐ。
それで全てを察したらしく、田北は片手で顔を覆って吐息を漏らした。
「お前さ、自分の首が危ないって分かってるのか。入社してほとんど仕事はしてない。ギャンブルはするにはするけど競龍以外がほとんど。で、借金塗れだ。これじゃニート以下だぞ。また会社の方に借金の催促の電話が掛かってきてるし、返す当てあるのか?」
あるわけないから頼んでるんだろ。逆上じみた理不尽な怒りが湧いてくる。自分が絶望的な状況に置かれているのは言われなくても分かっている。もういっそのこと海外に逃げてしまうか。
いや。懐の寒さで我に返る。週末の種銭すらない惨憺たる有様、渡航費なんてあるわけがない。
「……最後通牒だ」
田北が、何度目か分からないため息交じりに言った。
「取材費込みで金貸してやる」
「……編集長!」
田北の分厚い躰に、後光が差して見えた。
「聞け。取材対象は戸次親次、墜ちた怪物だ」
墜ちた怪物、戸次親次。
その名前は、さして競翔龍や騎手の名前に興味のない友治でも知っていた。どんなに人気薄でも力の足りない龍でも龍券圏内に持ってる化け物騎手だ。
「一年目は同期に天才がいて新人騎手賞は逃したが、それでもクリーンな騎乗で新人としては抜群の成績を残した。問題は二年目、人が変わったようにダーティな騎乗を繰り返し、たった三か月で年間最多勝利数の半分に迫るほどの成績を残して、案の定墜落した。そして今、中央の騎手免許を持ちながら地方に所属を移し、ぼろぼろの躰に鞭打って龍に乗ろうとしている。分かるな? 今の競龍界に、こいつ以上に注目が集まってる人間はいない」
田北の言いたい事は分かった。
「二年目に激変した理由ですか」
「そうだ。本人は適当に誤魔化してはいるが、あそこまで騎乗スタイルが激変したんだ。何か確とした理由があるに決まってる。それを調べて来い。逐一報告しろよ。報告した分だけ金を出してやる」
他に手はなかった。今はとにかく金が欲しい。
「手段は?」
「好きにしろ。「ダイブ」は競龍ファンにとことん寄り添う雑誌だ」
田北はヤニで黄色くなって歯を見せて笑う。友治は先が少し見えた安堵から微笑した。
「ほら、まずは最初の金だ。旅費までスるなよ」
渡された金は、五万円だった。
これで、遠藤は猶予をくれるのか。有り得ない。たった五万で遠藤が引き下がるわけがない。
「もう一声!」
「俺を怒らせる前に……早く行け!」
駄目だ。友治は全身の痛みを無視して駆け足でその場を離れた。
遠藤の借金取り立ては六日後。それまでの取材でいくら貯められる。それは果たして、遠藤が納得して引き下がるほどの金額なのか。
無理だ。どう考えても遠藤が納得する金額には届かない。取材なんて時間の無駄だ。取材以外でどうにかして金を稼ぐしかない。でも、どうやって。
ギャンブルか。
ふと浮かぶが直ぐに否定する。ギャンブルは興奮を味わう為にするものであって、金を稼ぐ為にするものではない。それにどれだけ上手くやったとしても、寺銭という勝っても負けても胴元に取られる金がある以上、儲けを考える事自体が非現実的だ。
なら、どうやって大金を稼ぐ。それも短時間でだ。
そんな方法あるわけがない。
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