第3話 初めてのレース
雨だというのに、扇山競龍場には大勢の人が押し掛けていた。
普段はガラガラな山腹は傘を差した観戦客に覆い尽くされ、県外のテレビ局の取材班までもが大挙して集まっている。そのあまりの人の集まり様に山の麓には何台ものパトカーが停まり、数十人の警官が辺りを巡回していた。
騒動の中心にいたのは勿論、今日が初騎乗の戸次親次だ。
杖こそ使っていないのものの、まだ右半身は思うように動かず右足を引きづっている。それでも表情は平静そのもので、散歩に行くような調子で龍に乗り、本龍場に姿を現した。
山が、どよめいた。
辺りの人間が次々に親次を指さし、手を振ったり名前を呼んだり盛り上がる。
親次は自分の知っている親次ではない。葵はその事実を思い知らされたが、悪い気分ではなかった。幼馴染の人気ぶりが素直に喜ばしい。
「三砂さん、チカって凄い人気ですね」
隣に立つ三砂に話しかける。しかし三砂は、傘の影のせいか暗い顔で本龍場を見つめていた。
「どうしたんですか?」
「……私、この時だけは苦手で。自分が飛ぶわけじゃないのに凄く緊張するんだよね」
そう言われると、葵も少し緊張してきた。
親次が騎乗する赤龍のレッドマーモセットは赤は赤でもかなり濃く、雨に打たれて黒龍のようになっている。しかし歓声に当てられたのか数騎が暴れている中でも、親次もレッドマーモセットも堂々としていた。
「うん……調子は上々。後は騎手の、親次君の腕だけかな」
「大丈夫……ですよね?」
「どうかなあ。勝負は時の運だって言うし」
「そうじゃなくて……その」
三砂が声を漏らし、葵の肩を抱いて自分の傘の下に引き寄せる。そこで始めて、葵は自分の肩の震えに気付いた。
「大丈夫。親次君は落ちないって」
動画で見た親次の墜落シーンが蘇る。一歩間違えれば幼馴染が死んでいた。今までどこか遠くの事に思えていたのが、レースを前にして急に現実感を伴ってくる。
「ほら、親次君の鞍を見て」
三砂から双眼鏡を渡される。それを覗いて雨の向こうの親次を見ると、レッドマーモセットの背中の鞍からロープが伸び、親次の躰に繋がっているのが確認できた。
「競龍はね、コーナーで曲がる時に凄い荷重が掛かるんだよ。特に下りから水平旋回する時は騎手がブラックアウトする事もあって、その時に龍から落ちないようにああして命綱で固定してるんだ」
だからと言って、安心はできなかった。
「落ちたじゃないですか」
三砂の表情が沈んだ。
「かなり激しく回転したから、そのせいで外れたんだと思う。でもあんな事滅多にないから大丈夫。それに装鞍したのはお爺ちゃんなんだから、絶対に大丈夫だよ」
言って、三砂は白い歯を見せて笑う。これ以上心配を掛けるのも悪いと思い、葵は愛想笑いを返して口をつぐんだ。
競龍は危険だ。
龍が墜落してしまえば命綱は関係ない。墜落したが最後、祈るしかない。それが競龍だ。
親次がそんな危険な事をする理由は、まだ厩務員のアルバイトを始めてすらない葵にはよく分からない。しかし今日、親次のレースを直接この眼で見れば、また変わってくるのではないか。不安と期待の入り混じった感情が、葵の胸の中でぐるぐる回っていた。
そして、その時が来た。
地元の交響楽団が雨の中でも高らかにファンファーレを鳴らし、扇山競龍場が歓声に沸き立った。競翔龍たちは山頂に陣取る長い長い発龍機に入っていき、最後の八騎目の龍が収まった。
スタートする。龍が一斉に飛び立った。
早々、凄まじい速さで斜面を下っていく。内枠の龍は真っすぐ、外枠の龍は斜めにコーナーを目指しつつ、理想のポジションを目指して細かな位置争いが起こる。親次の乗るレッドマーモセットは、大型の青龍の後ろに着いた。
「良い位置に着いた!」
三砂が叫ぶ。それから葵を見やった。
「競龍はね、前目の良い位置に着くのと風が大事になるの。好きに動ける前目の良い位置を取るのが一番、それが出来なかったら風の抵抗を抑える為に他の龍の後ろに付く。葵ちゃん、やっぱり親次君は上手いよ」
自分の事でもないのに、褒められると嬉しくなった。
龍群は次第に縦長になりコーナーに差し掛かった。最短距離を飛んでいた内枠の龍たちが先に旋回し、後から外枠の龍が旋回する。そこで、龍群が大きくばらけた。
小型龍は上昇旋回し、大型龍は下降旋回する。さらに内枠の龍は急激な方向転換で外に膨れ、緩やかな角度でコーナーに入った外枠の龍がロスなく旋回して一気に距離を詰める。
「上手い!」
また三砂が叫ぶ。内枠の龍の中で唯一、レッドマーモセットだけが水平に急旋回し、最短距離でコーナーを回って一番前に飛び出した。
騎手たちが一斉に鞭を振るう。龍たちは力強く羽ばたいて斜面を登り、下降よりも速度が落ちた分、乱れるように激しいポジション争いが始まった。
その中で、取り残されるように離れる龍がいた。
レッドマーモセットだ。鞍上の親次は鞭を振るっていない。気合が入らないのかレッドマーモセットの羽ばたきは弱弱しく、雨に追い落とされるように龍群からどんどん置いていかれる。
考えてみれば当たり前だった。親次の右手は動かない。左手が手綱を掴んでいれば、鞭の振るいようがない。先頭の龍が早くも山を登り終える。後は下るだけでゴールだ。龍群からやや遅れて、レッドマーモセットが山頂を超えた。
だが、レッドマーモセットは下降しなかった。
下降を始める他龍を他所に、レッドマーモセットは高度を上げていく。他龍からさらに遅れを取り、場内から落胆の声が上がった。
「……来る」
三砂が呟いた。途端、レッドマーモセットが落下した。
背筋が凍えた。
いや、レッドマーモセットは墜落していない。鎖骨の間に頭を窄め、脚を羽毛の下に畳んで、親次は龍の背中に張り付いて、両者が極限まで抵抗を減らしてゴール目指して突っ込んでいく。
音が聞こえた。
異音。分厚い布を力任せに引き千切るような暴力的な異音が、競龍場に響き渡った。それを発しているのはレッドマーモセットだ。他龍とは次元の違う速さで滑空し、一騎、また一騎とあっという間に抜き去っていく。
葵の胸が熱くなる。斜面の草が飛び散っていく。龍場から離れている山腹の観客の髪や服がはためいている。親次の駆るレッドマーモセットが、雨空を切り裂いていく。
いける。葵がそう思った時には、レッドマーモセットはゴール板を過ぎ去っていた。
三着。
「……登りでのロスが大きかったね」
盛り上がる競龍場とは反対に、三砂の声は冷徹だった。
「鞭が使えないのは、騎手としては致命的かな」
現実に興奮が冷やされる。雨音が耳に入ってくる。これが、大怪我を負った親次の現状なのか。
それを痛感しているのは親次自身だろう。なんと声を掛けて良いのか分からず、葵は三砂と別れてスタンドを後にし、望みのレースが見れて満足する観客に交じってふらふら下山する。
「競龍反対!」
競龍場の入り口で、シュプレヒコールが聞こえた。
「危険な龍を遠ざけろ!」
老人や子供も交じって雨合羽にプラカードを掲げ、帰り客に見せつけるように大声を上げている。親次目当てで集まる大勢の人や報道陣を目当てにデモを行っているのだろう。
そういうデモが行わているのは葵も知っていた。
今でこそまずないが、昔は龍による被害が相次いでいたらしい。銃が発明されるまで人間に勝ち目はなく、人の手に銃が行き渡ってもしばらくは圧倒的に龍が強かった。人間はモンスターである龍に勝てない。襲われれば成す術もなく殺される。その龍が、市街地の直ぐ傍で数百騎と暮らしているのだ。排斥活動が行われるのも無理はない。
近寄って絡まれるのも面倒だ。多くの人と同じように、葵も団体から距離を取って競龍場を出ようとする。
「葵?」
土砂崩れのように競龍場から出てくる群衆に逆らって、雨合羽の下で額に汗を浮かべた女が近づいてきた。
「お母さん?」
思わず二度見する。それは間違いなく、葵の母だった。
何故、母がここにいる。今日は平日の昼前、いつもなら市役所で仕事にかかり切りになっている時間だ。葵にしても大学を休んでいる手前、母の眼を直視できなかった。
「葵、学校はどうしたの?」
早速聞かれてしまった。どう答えようかと悩んでいると、母は納得したような顔をした。
「チカ君の応援?」
「そ、そう。お母さんこそなんでここに? 仕事は?」
追及は避けられた。心の中で息を吐くと、不意に雇用契約書の件を思い出した。初出勤の日までに保護者のサインを貰って重連に提出する必要がある。父が単身赴任で家にいない以上、母に頼むしかない。葵はバッグに手を入れる。
「ちょっとだけ仕事して、有給取って急いで抜けてきたの」
それで汗を掻いていたのか。葵は納得しつつ雇用契約書を探してバッグを漁る。
「それより葵、いくらチカ君の応援だからって言ってこんなところに来ちゃ駄目よ。女の子が来る場所じゃないし、危険なところなんだから」
聞き覚えのある言い回し、胸騒ぎが葵の手を止めた。
「じゃあ葵、チカ君の特別な日だから今日ぐらいは学校休んでも良いけど、葵の為に一人で頑張ってるお父さんを裏切らないよう、明日からはちゃんと行きなさいよ」
母はそう言って、シュプレヒコールを口にしている雨合羽のデモ隊に混ざっていった。親しそうに言葉を交わし、同年代の人からプラカードを貰う。そして、それを掲げて声を張る。
「競龍反対! 危険な龍を遠ざけろ!」
葵は、自分の目が信じられなかった。
母は市役所で働くごく普通の公務員だ。デモはおろか何かを習ったりする事なく、真面目に家事と仕事をこなす人だった筈だ。
「子供が龍に教われたらどうするつもりだ!」
衝撃が、葵の足を動かした。足早に競龍場を後にする。
どうしたら良い。
母が競龍に反対している事に文句を言うつもりはない。母も人間なのだから色々な思想を持っているだろう。法に反していないのだから何をしようが自由だ。
でも、雇用契約書のサインはどうする。
母に頼めば間違いなく反対される。親のサインがなければ厩務員のアルバイトは始められない。
「……そうだ!」
葵はスマホを取り出し、父にメッセージを送った。単身赴任中の父に雇用契約書のサインを頼めば郵送で返ってくるまで何日も掛かるが仕方ない。
郵便局に行く道すがら、父から電話が掛かってきた。葵は手早く事情を説明する。
「……分かった。躰は大事にな」
母の事も含めて、父はそれ以上言わなかった。葵は心配になったが、父はほとんど会えない分、約束は必ず守ってくれる。深く聞こうとしないのも色々と気を使っての結果だろう。葵はもう一度念を押して電話を切った。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように言う。問題は乗り越えたが、根本的な部分は何一つ解決していない。葵が競龍の厩務員をしていると知れば、母は絶対に止めようとする。
隠し通すのだ。
競龍との関わりを、母に知られてはいけない。
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