雨天の薬屋

 草木や石の湿った匂いと、かすかな薬の匂いが混ざり合った空気が漂う屋敷の廊下。雨天のために昼でも薄暗く、若干の肌寒さもある中を、三人の客が家人に連れられて進んでいた。


「いつ来ても雨音しかしない屋敷だねぇ。こんなに静かだと、頭がおかしくなりそう」

「ふふふ。確かに、初枝様の気質には合わないでしょうね」


 客の一人である短髪の女性、初枝の言葉に、木蓮が描かれた着物をまとった案内役の女が笑んで答える。切れ長の目が初枝とその隣に並ぶ弟、眼鏡の奥に目つきの悪い目を持っている幹次みきつぐを通り越し、最後尾で視線をあちこちに飛ばしている若者に向けられた。


「志乃様、でしたか。住人の私が言うのも何ですが、面白みのないお屋敷でしょう。見るようなものも無いかと思いますが」

「へ?」


 名を呼ばれた少女は家人へと視線を向ける。裏返った彼女の声は、髪を結い上げ、着物と袴を男装に着こなした外見に似合わない音をしていた。


「見るようなものがないだろうと言われたんだ。お前がきょろきょろしているから」


 呆れ顔で言う幹次に、「あー、そうでしたかぁ」と志乃は暢気な口調で言う。


「見るようなものはありますよ。こちらを見ていらっしゃる方々が、たくさんいらっしゃいますから。表に出てくる様子はないですが……照れ屋、というやつなのでしょうかねぇ」


 のほほんと笑いながら言われた言葉に、初枝と幹次の津田姉弟は目を見開いた。こちらを見ている誰かなど、周囲に誰一人として見当たらない。


「あらあら、見えていらっしゃるのですね。雨天とはいえ真っ昼間ですのに」


 袖で口元を覆い、女が上品に笑う。


「照れ屋なのは否定いたしませんが、単に昼では姿を表せないのですよ。それほど小さいのです、私たちと同居しているモノたちは」


 艶と笑いを含んだ美声がゆったりと落ち、余韻のように空いた間を皐月雨さつきあめの音が埋めた。




 三人が訪れた屋敷は夜蝶街やちょうがいの西方、ややひなびた場所に建っている。立地と様相が合っていないため、否が応でも目立つように思われるが、実際は噂の一つも立てられていない。ある条件を満たした者にしか見えず、入れないからだ。

 満たさなければならない条件は二つ。雨天時に訪問すること、家主の招待状を所持していること。前者はともかく、後者の条件はよほどのことが無い限り満たせない。というのも、出不精の家主に出会えることなどそうそう無いからだ。

 しかし、津田姉弟は招待状を持っている。何回も使えるため、失くしさえしなければ、そして雨天であれば、いつでも来ることができた。


「旦那様。白灯堂はくとうどうのお二人がいらっしゃいましたよ」


 屋敷の奥へやって来ると、家人の女は既に開けられていた戸から声を掛ける。「ああ」と静かな応答があったかと思うと、部屋から妙齢の男が顔を出した。津田姉弟と同様に作務衣をまとった長身痩躯は頼りなく、青白く見える肌も、その印象に拍車をかけている。


「やあ、初枝に幹次……と、そちらの少年は初めましてだね」

「はい、初めまして。今年から見回り番に加わりました、花居志乃と申します」


 言葉ではなく声で、少年ではないことを否定する志乃。男は目を丸くしたが、「これは失礼」とすぐに謝った。


「改めて。初枝に幹次、そして志乃、ようこそいらっしゃいました。どうぞ入ってくれ」


 引っ込む男に続いて、三人も部屋に入る。かすかに漂っていた雨の匂いが、薬の濃い匂いにかき消されてしまった。

 左右の壁に薬棚を備えた部屋には物が多い。大小さまざまな壺が棚上にも床上にも置かれ、天井や窓辺には、乾燥した草花や果実らしきものなどが吊り下げられている。が、最低限の整頓はされているようで、雑多ではあるが散乱はしていなかった。


「今日は買い物の他にも用があるんだ。志乃にあんたを紹介するのと、幹次の眼鏡の調整。この二つだね」

「ああ、今年から見回り番になったと言っていたものね。ということは、志乃は十五なのか」

「えぇ、そうです」


 出された座布団に座る面々に遅れて、男は道具箱を出してから座る。掃除もしっかり行き届いているのか、棚上にあった道具箱はほこりを被っていなかった。


「じゃあ、まずは僕が名乗るべきだね。僕は『薬屋』と呼ばれているモノだ。呼び名の通り、薬とかその材料になるものを取り扱っている」

「呼び名、ですか? 本名ではなく?」

「そっちの方で呼ばれ続けているせいで、本名より馴染みがあるんだ」


 頬を指先で掻きながら、男は困ったように笑う。


「では、薬屋の旦那とお呼びしても?」

「うん、好きなように呼んでくれて構わないよ。……ところで、志乃はもしや、妖雛ようすうだったりするのかい?」

「そうだよ。九年前に辻川が拾ってきた。拾われ者の一人さ」


 代わりに答えた初枝に、そうなのかと頷く薬屋。ところが彼とは反対に、紹介された側の志乃は首を傾げている。


「姐さん、拾われ者の一人というのは? 俺の他にも拾われてきた方がいらっしゃるのですか」

「え。知らなかったのかい? あたしたち姉弟も、あんたの兄貴分二人も、それぞれ拾われてきたんだよ」

「珍しくはないし、話すこととも思っていないから、お前が知らなくても当然だ。それに、中谷と山内は昔の話をされるのを嫌うから、訊いたとしても答えなかっただろうよ」


 眼鏡を外して薬屋に渡しながら、幹次が話に加わってきた。


「訳ありの奴なんて、花柳界にはやまほどいる。むしろ、事情を抱えていない奴の方が少ねぇさ。親父もそうだったからな」

いつきか。彼は今、どうしているんだろうね」


 薬屋が呟くように言う。細い棒状の道具を代わる代わる手にし、眼鏡の手入れをし始めていたため、彼の目は下に落ちていた。

 ――津田樹。屯所に併設された医療施設、白灯堂はくとうどうの前任者であり、津田姉弟を拾った育て親の男。

 この場で、彼のことを名前だけしか知らないのは志乃だけ。というのも、樹は志乃が来る数か月前に姿を消してしまったのだ。


「どうしているかって、もう九年も経ったんだよ? さすがにどこかで野垂れ死にやがったと思うんだけど」

「姉貴に同意だ。人を苛立たせて呪い殺されたかもしれねぇ」

「君たち、仮にも親に対して酷薄すぎやしないかい?」


 まだ作業中だった薬屋が顔を上げる。苦笑を浮かべた彼に、声の揃った「そうなっても不思議じゃない」という返答が送られた。……二人の表情も声音も、何ら気に留めていない平然としたものである。


「ま、でも。人の身で異界に行って、がらくたを蒐集しゅうしゅうしてくるような変人……いや、変態だもの。しぶとく生きてる可能性も捨てきれないね。それか、別の国で遊び惚けてるかも」

「異界に行くといいますと、津田の親父殿は、異人さんとか稀人まれびとさんだったのですか?」


 丸くなった目を瞬いた志乃に、「似たようなものかなぁ」と初枝は曖昧に答えた。

 異界というのは、幽世かくりよ常世とこよでもない別の世界、別の国を指す。そこから来た者を異人もしくは稀人と呼んだ。異人は貿易などの商業目的でやって来た者、稀人は異界を渡り歩く旅人を言う。


「親父はそもそも稀人で、別の国から彩鱗国さいりんこくに居着いたんだ。その後も何度か異界に行っては、よく分からんものを持って帰ってきた。……俺の眼鏡もその中の一つだが、正直言って、役立つようなものはこれと照明くらいだな」

「では、白灯堂に異国の品々が置かれているのは、親父殿が集めていらしたからなのですねぇ」

「樹は珍品を入手するために、手間もお金もかける人間だったからね。僕も何度か、薬以外の異国の品を彼に売ったよ。僕も元は異人だから、そういう品――たいてい用途が分からないものばかりだから、ほとんど鑑賞用だけど――が流れてくるんだ」


 異人や稀人といった呼称は、何も人間相手に限ったものではない。妖怪寄りの存在である薬屋もまた、国外から商売目的でやって来た異人なのだ。


「……相変わらず大事に使っているようだね、幹次。特に傷は見当たらなかったよ」

「当然だろ、替えがねぇんだから。お前には対価を払い済みだしな」


 何気なく幹次が付け足した言葉に、再び志乃は首を傾げかけたが、すぐに思い出した。

 妖怪は現世で流布している金銭に興味を示さない。そのため、金銭以外の何かで対価を払うことになるのだ。……中には、商売目的で来ているというのに、無償であっさりと物品を渡すとんでもない変わり者もいるが。


「譲れないこともないよ、替えの眼鏡。君たちがくれた対価は、僕からしたら人間が大喜びする大金と同じだもの」

「何を渡したのですか、姐さんたち」

「あたしの髪。あんたが来る前は、なっがく髪を伸ばしてたの。古風なお姫様みたいにね」


 さり、と短髪を撫でて、初枝は何てことも無さそうに答えた。


「親父に何かあって、こっちに帰って来れなくなった時、薬屋と取引できるように伸ばしてたんだ。揃えてる品が豊富だからね、このひと。幹次も伸ばして、あたしの量には及ばないけど渡したんだよ」

「鬱陶しいことこの上なかった」

「ほんっと。まあ、たかが髪で……とは言えないか、あたしにとってはそうなんだけど。それで薬屋との取引が続けられるんなら安いもんだよね」


 歯を見せてにかっと笑う初枝の姿は清々しい。短すぎる髪が、彼女の弾けるような明るさを際立たせていた。

 外では雨脚が強くなったようで、あまり聞こえてこなかった雨音が、いつの間にか部屋に侵入してきている。談笑と雨の単調な演奏が流れる部屋に、「失礼します」と新たな声が入ってきたのは、いくつめかの話題が終わりを告げた頃だった。


「本日注文していただいた品の準備が整いました」


 声の主は木蓮の着物を着た女。大きな重箱を両手に二つ、微笑を湛えて提げている。屋敷を訪れた際、津田姉弟が彼女に預けていたものだ。


「ちょうどいいね。毎回、お茶も出せなくて申し訳ない」

「出されたとしても飲まねぇよ。な」


 幹次が薬屋を睨み付ける。彼の視線は目つきが悪いこともあって、先ほどまで談話していたことが嘘のように剣呑だった。薬屋は笑顔で睨視げいしを受け入れているが――その笑みには何故か、うすら寒いものがある。


「ふふふ、残念。樹も君たちもつれないし、ほだされてくれないよね。雨天でなくとも君たちがいてくれれば、っていつも思っているんだけど」

「それなら、あんたが白灯堂に来ればいいだけのことさ」


 挑発しているかのようにも聞こえる口調で、初枝が不敵に笑う。穏和から一転、危険な駆け引きをするかのような緊迫した空気が漂い始めたが。


「さ、幹次、志乃。帰ろう」


 肩透かしのように軽い初枝の声で、再び空気の様子が戻った。薬屋から感じられたうすら寒さも、あっさりと消え失せている。


「それじゃあね、薬屋。また次の雨天に」

「うん。いつでも待っているよ」


 津田姉弟が重箱を一つずつ受け取って、志乃と一緒に女の後に続く。四つの後ろ姿を見送ってから、薬屋は一つため息をついた。


「あーあ。……樹みたいに、いなくならないでほしいだけなのに」


 悩ましげな顔で呟かれる、寂しげな言葉。――けれど、陰に潜んでそれを聞いたモノは、ぶるりと矮躯わいくを震わせたのだった。




 朝から夜蝶街に掛けられている雨の幕は、濃さを増していた。来た時はぎりぎり見えていた華蝶館かちょうかんの威容も遮られ、ぼんやりと形を窺えるほどになっている。


「そういえば、俺がいた意味はあったのですか?」


 津田姉弟の後に続きながら、志乃が問いかける。彼女の傘は、薄緑色をした初枝の傘と違って、幹次と同じ暗い藍色。屯所からの借り物だった。


「いるだけで十分なんだよ。あんたの役目は牽制だって言っただろ?」

「はい、それは承知しておりますが……特に何をやったというわけではないので、そわそわ? すると言いますか」


 うーん、とすっきりしない顔をする志乃に、幹次も振り返る。


「姉貴が言っただろ、いるだけで十分だって。お前の存在自体が、薬屋への牽制になったんだ。俺らを連れて行こうってんなら、こいつを相手にすることになるぞ、ってな」

「連れて行く? お二人を?」

「妖怪……薬屋は完全にそうってわけじゃないけど、あいつらは気に入った奴を自分たちの側に連れ込むからさ。相手の意思に関係なく、ね」


 困ったものだ、と言わんばかりにため息をつく初枝に反し、幹次の表情は険しい。


「あいつは呼び名の通り、薬で俺たちを眠らせるなり、そもそも人間じゃなくしたりできる。だから俺らは、あの屋敷で食い物やら飲み物やらが出されても、手をつけねぇんだ。親父からも口酸っぱく言われてたことだしな」

「人でなきモノ相手するなら気を付けろ、さもなきゃ現世こっちとおさらばだ、ってねぇ」

「なに気楽な顔してやがんだクソ姉貴。人としてお終いなことを囃子みたいに言うんじゃねぇよ」


 幹次の睨視が初枝に向くが、彼女の言葉は実際に商人たちの間で言われていることだ。

 対等なようでいて、しかし常識が異なるのが人でなきモノ。それを忘れて接すれば命が無くなることも、人間ではなくなることも容易に有り得る。


「それほどまでに危険ならば、取引などしなければ良いのでは?」

「阿呆かお前は」


 何も考えていなさそうだった志乃の顔、その額を幹次が指で弾いた。


「俺らが知る中で最も上等なもんを扱ってんのがあいつなんだよ。それに、こちとら馬鹿やらかした妖怪どもの手当てだってしなきゃなんねぇんだ。妖怪につける薬は妖怪が作ったもんに限る。ついでにお前も、薬屋の所から買った薬に世話になったことがあんだからな」


 白灯堂が受け入れるのは人間だけではない。派手な喧嘩をし、怪我をした妖怪だけでなく、妖怪の特殊な攻撃を受けた者の治療も担うのだ。その際に必要となる薬は、人間では入手製作ともに困難な薬が多いため、妖怪側から買うことになる。


「いてて。失礼しました、旦那ぁ。……しかし、人間ではないモノにさせるとは。それなら、部屋に行く途中で見た照れ屋の方々の中には、もしかすると人間だった方もいらっしゃるのかもしれませんねぇ。姿そのものは見ていないので何とも言えませんが」

「あー、やっぱり?」


 予想はしていたのか、津田姉弟の顔にさほど驚きはない。――家人の女が言っていた「同居している小さいモノ」の中には、取引でヘマをしたか、あるいは薬屋の雰囲気に騙されてしまった者もいるのだろう。


「ああはならねぇよ、俺らは。今は妖雛のお前がいるし、お前が上洛しても辻川がいるからな」


 真面目な顔をしていながらも、ふん、と鼻を鳴らす幹次は、何か気に食わないことでもあったかのような顔をしていた。


「辻川には実力があるし、何より環境整備の恩を持ってる奴がごまんといる。俺らはその傘下、しかも医学に通じてっからな。引き抜くには状況も心情も邪魔をするってわけだ」

「ふむ、細かいことはよく分かりませんが、とりあえず姐さんと旦那に危機が及ぶ可能性は低いということは分かりましたぁ」

「お前な……」


 説明してやったのに、と露骨に語る睨視を向けた後、何故か幹次の顔に笑みが、それも人をなぶり殺しそうな悪漢のごとき笑みが浮かぶ。


「それなら、中谷の奴にみっちり教えて貰うしかなさそうだなぁ?」


 この世で唯一恐れているもの。すなわち中谷からの説教をちらつかせられると、志乃の顔が一瞬で青くなり、固まった。


「すみませんでした兄貴だけは、中谷の兄貴だけは勘弁してください」

「こらこら、か弱い女子をいじめるんじゃないよ」


 尻尾を丸めた犬のように情けない顔をする志乃を、初枝が苦笑しながら庇ってやる。幹次はそんな姉を呆れたように見やると。


「この場にか弱い女子なんていねぇ……いでっ!?」


 失礼ではあるが間違ってはいないことを言いかけ、すねを蹴られてしまった。すると今度は、初枝の顔に悪女のごとき笑みが浮かぶ。


「あーら、ごめんねぇ? 足が滑っちゃった」

「あぁ!? ふざけんな、明らかに故意だろ!」

「え、恋? 何、あんたあの屋敷の女に惚れてたの?」

「聞き間違えてる上にどういう繋げ方してんだ、頭いかれたか?」

「ははは、何だとこの野郎」


 売り言葉に買い言葉。にこにこと志乃に眺められながら、姉弟はいつもの喧嘩腰なやり取りを繰り広げ、雨天の帰路を歩いて行った。

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