幼馴染と恋人のボーダーライン

 わたしと朔ちゃんが「ただの幼馴染」でなくなってから、二週間ほどが経とうとしている。朔ちゃんは毎日わたしを迎えに来て、満員電車ではわたしを守ってくれて、ときどき勉強を教えてくれて、お休みの日には二人で買い物に行ったり、たまに手を繋いで歩いたりもする。念願叶って恋人同士になったけれど、これでは今までの関係とほとんど変わらない。幼馴染と恋人のボーダーラインって、一体どこにあるんだろう。

 委員会の集まりに出ている朔ちゃんを待っているあいだ、わたしは茉由ちゃんと二人でそんな話をしていた。放課後の教室には、わたしたち以外の誰も残っていない。茉由ちゃんはわたしの持ってきたポッキーを、さくさくと音を立てて齧った。


「そりゃあ、キスとか……じゃない?」

「キス」


 茉由ちゃんの言葉を、わたしは馬鹿みたいにおうむ返しする。ぽかんとしているわたしを見て、茉由ちゃんはちょっと呆れたように「まあ、柚子にはまだ早いか。もしかして、コウノトリとか信じてるタイプ?」と溜息をついた。わたしは慌てて首を横に振る。

 わたしだって、一般的な恋人同士がすることくらい――キスも、その先のことも――ちゃんとわかっているし、朔ちゃんとしたいと思っている。それでも、朔ちゃんは果たしてわたしと「そういうこと」をしたいと思ってくれているのだろうか。「おれだけは柚子に絶対そういうことをしない」と断言されたのを思い出して、ちょっと落ち込んでしまう。


「キスとか……するのかなあ」

「そりゃあ、いつかはするんじゃない? 可愛い柚子の唇をあんな奴に奪われるのは憎いけど」

「……でも朔ちゃん、全然わたしと二人きりになりたがらないんだよね……」


 ポッキーを咥えながら、わたしは溜息をつく。付き合ってからというもの、朔ちゃんはわたしの部屋に来ていないし、わたしも朔ちゃんの部屋に行っていない。わたしの両親は共働きで帰りも遅いし、遊びに来てよ、と言っても朔ちゃんは絶対に首を縦に振らないのだ。


「うわあ。高辻、拗らせてるなー。ま、我慢してるだけだと思うけどね。あいつ、ムッツリだし」

「おい篠崎、柚子に余計なこと言うなよ」


 背後から低い声が響いて、わたしと茉由ちゃんは揃って飛び上がりそうになった。振り向くと、朔ちゃんが怖い顔をして茉由ちゃんを睨みつけている。


「げっ。出たよ、番犬」

「番犬じゃねーよ、彼氏だよ」


 きっぱりとそう言った朔ちゃんに、わたしの頰は熱くなる。最近の朔ちゃんは、こうやってはっきりと「柚子の彼氏だ」と宣言してくれることが多くなった。わたしがにやにやしていると、茉由ちゃんはげんなりした表情で小さく肩を竦める。


「はいはいごちそうさま……じゃあね柚子、ポッキーありがと」


 茉由ちゃんは「お邪魔虫は帰りまーす」と言って、教室を出て行った。残された朔ちゃんとわたしは二人きりになる。

 朔ちゃんはわたしから目を逸らして、やや気まずそうに頰を掻いていた。もしかして朔ちゃん、さっきの話聞いてたのかな。わたしは微妙な空気を跳ね飛ばすように、朔ちゃんに向かってポッキーを差し出す。


「……た、食べる?」

「もらう」


 朔ちゃんはわたしの手首を掴むと、そのままポッキーを咥えた。さくさくと音を立てて短くなっていくポッキーを、わたしは呆然と見つめている。

 わたしの指に朔ちゃんの唇が触れる寸前で、ぽきりと音を立ててポッキーが折れた。わたしの手の中には、チョコレートのついていない部分だけがきれいに残っている。ポッキーを食べ終えた朔ちゃんが唇をぺろりと舐めるのを、わたしは食い入るように見つめていた。朔ちゃんの唇、どんな味がするんだろう……。


「帰るぞ、柚子」


 朔ちゃんの声に、わたしははっと我に返る。「うん」と頷くと、朔ちゃんは自然にわたしの手を取った。ごつごつとして大きな朔ちゃんの手を握りながら、変なこと考えちゃった、と自分のはしたなさを恥じる。そんなわたしの内心などつゆ知らず、朔ちゃんはわたしの顔を覗き込んで尋ねる。


「柚子、来週誕生日だろ。何が欲しい?」


 来週十二月二十二日は、わたしの十六歳の誕生日だ。毎年クリスマスパーティーも一緒くたにして、朔ちゃん一家と合同でお祝いをしている。今年もその予定なのだけれど、朔ちゃんが「昼間は二人で出かけよう」と言ってくれたのだ。


「……朔ちゃんと一緒に居られたらそれでいいよ」

「そういうわけにもいかねーだろ。欲しいもんとか、したいこととか、ちゃんと考えとけよ」


 そう言って、朔ちゃんはわたしの頭をポンと叩いた。わたしは曖昧に「うーん」と生返事をする。

 正直に言うと、朔ちゃんとしたいことならたくさんある。もっといっぱいぎゅっとして欲しいし、キスだってしたい。まだそれ以上のことをしてもらう勇気は出ないけど……。

 ……今ここでわたしが「キスして欲しい」って言ったら、朔ちゃんはしてくれるのかな。でもそれって、やっぱりわたしの「お願い」を聞いてくれるだけなのかな。

 朔ちゃんは優しいけれど、優しすぎるがゆえにわたしはちょっと不安になってしまう。わたしは朔ちゃんをじっと見つめながら言った。


「……朔ちゃんの、したいことして欲しい」

「は、えっ、ええ?」


 わたしの言葉に、朔ちゃんは視線を泳がせると、ぱっとわたしの手を離してしまった。なんだか拒絶されてしまったような気がして、わたしはしゅんと目を伏せる。


「……何もしたくないなら……いい……」

「えっ、いや……ないこたないけど……でも……」


 朔ちゃんはそう言って、黒いマフラーにすっぽり顔を埋めてしまう。口元まで覆われてしまって、その表情はよくわからない。しばらく朔ちゃんは一人でうんうん唸っていたけれど、ややあって「……ちゃんと考えとく」と小さく呟いた。





「いただきまーす」


 おれの正面に座った朝比奈は、割り箸を口で咥えてパキンと割った。お上品な顔をしているわりに、意外と行儀が悪い。奴の目の前には、日替わりのチキンカツ定食が置かれている。

 ざわざわと騒がしい昼休みの学食の中で、おれたち二人は妙な注目を浴びていた。いや、厳密に言うならば、注目されているのはほぼ朝比奈である。「王子様がチキンカツ食べてるー」だなんていう黄色い声も聞こえてくる。そりゃあ、こいつもチキンカツぐらい食うだろうよ。霞でも食って生きてると思われてるんだろうか。


「……おまえとメシ食うの、落ち着かない」

「そうかな? 高辻くんもそこそこ目立ってるよ。かっこいいって噂、聞いたことある」

「おまえに言われても嫌味にしか聞こえねーよ」

「ま、信じなくてもいいけど。蓮見さんが余計な顰蹙買わないように気をつけた方がいいよ」


 余計なお世話だが、こいつが言うとなかなか信憑性がある。王子の彼女である無愛想な先輩は、おそらく「余計な顰蹙」を買いまくっているのだろう。三橋の前例もあることだし、おれも柚子に危害が及ばないよう気をつけなければ。


「で、何の用? わざわざ僕に声かけてくるなんて、珍しいね」


 何故おれが余計な注目を浴びながら王子とメシを食っているのかというと、おれの方からこいつを呼び出したからだ。朝比奈は「高辻くんと居るの楽なんだよねー」と言って、喜んでついてきてくれた。こいつもこいつで、意外と苦労しているのかもしれない。


「……来週、柚子の誕生日なんだけど」


 早速本題に入ったおれに、朝比奈はすぐ「あー、もしかして誕生日プレゼント? 何あげるか悩んでんだ」と言った。察しの良い男で助かる。

 おれだって、正直こいつに頼るのは癪である。それでも相談できそうな人間が思い浮かばなかったのだ。おれは柚子と仲の良い篠崎や石蕗花梨から嫌われているし、充や白河からのアドバイスもあまり期待できなさそうだ。その点こいつなら、そつのない助言をしてくれそうである。


「僕に言われてもなー。欲しいもの、本人に直接訊きなよ」

「いや、訊いたら……おれのしたいことして欲しい、って言われて」


 モゴモゴと答えたおれに、朝比奈はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。


「へえ。いいじゃん、しちゃえば」

「……できるわけねーだろ……」


 おれだって、柚子にしたいことはたくさんある。どれもこれも、こんなところでとても口にできないようなことばかりだ。

 おれは柚子と付き合い始めてから、極力柚子と二人きりになるのを避けていた。おれは正直、自分の理性をそこまで信頼していない。おれのことが好きだと素直に甘えてくる柚子を前にして、歯止めが効かなくなるのが恐ろしかった。


「僕はなんとなく、蓮見さんの考えてることわかるけど」


 朝比奈は苦笑すると味噌汁をすすった。相談しておいてなんだが、柚子の理解者ヅラをされるのはちょっと腹が立つ。柚子のことを一番理解しているのは、いつだっておれでありたいのだ。


「たぶん蓮見さん、高辻くんがまだ自分に遠慮してると思ってるんじゃないかな」

「遠慮……」

「実際、してるでしょ。嫌われてるんじゃないかってビビってんだ」


 朝比奈の指摘に、おれはギクリとした。朝比奈の言う通り、おれは自分の本性を見せて柚子に嫌われるのが怖いのだ。

 柚子はおれのことを優しい男だと思っているのかもしれないが、それはとんでもない間違いだ。おれの本質は、柚子をいじめては泣かせて喜んでいた最低の悪ガキである。柚子のことをどろどろに優しくして甘やかしてやりたいのと同じくらいに、ぐちゃぐちゃに泣かせてやりたい欲がある。そんなこと、可愛い柚子にできるはずもないのに。


「蓮見さん、そこまでか弱くないと思うけど。あの子、結構したたかだし根性あるよね」

「……わかったような口きくなよ」


 ふてくされたおれに、朝比奈は溜息をつくと「めんどくせえな」と吐き捨てた。そばでおれたちの話を聞いていたらしい女子グループが、ぎょっとしたように朝比奈の顔を二度見するのがわかった。



 柚子の誕生日まで、あと五分。壁にかかった時計が、カチカチと時を刻んでいる。自室のカーテンを開けたおれは、窓から柚子の部屋をじっと見つめていた。どうやらまだ起きているらしく、電気が点いている。

 明日は休日なので、早起きをして二人で水族館に行く予定になっている。夜は柚子の家で誕生日パーティー兼クリスマスパーティーをするので、それまでには帰らなければならない。

 結局おれは悩んだ挙句、プレゼントにイヤーマフラーとヘアピンを買った。柚子の好みはよくわからないが、おれが柚子に似合うと思うものを選んだ。完全におれの趣味だが、「蓮見さんはたぶんその方が喜ぶ」と朝比奈は言っていた。果たして奴の言うことを、信じてもいいのだろうか。

 冷たい窓ガラスにコツンと額を預けると、柚子の声が頭に響く。


 ――朔ちゃんのしたいこと、してほしい。


 ……無茶言うなよ。たぶんおれの「したいこと」は、柚子の想定の百倍くらい下衆いと思う。

 それでもきっと、柚子はおれのことを全部受け入れてしまうのだろう。柚子が居ないとどうしようもない、だなんて情けない台詞を吐いたおれに、「一生かけて責任取る」と豪語してくれた女の子。少しぐらいおれの欲をぶつけたところで、きっと彼女はおれから離れたりはしない。

 柚子の誕生日まで、あと一分。窓を開けると、冷たい空気が一気に部屋の中に入り込んでくる。おれは窓から外に出ると、そろそろと屋根を伝って行った。素足が冷たいけれど、思っていたよりも余裕だ。

 おれはスウェットのポケットに入っていたスマホを取り出すと、日付が変わっているのを確認してから、柚子に電話をかける。ワンコールも鳴り終わらないうちに、柚子の声が聞こえてきた。


『朔ちゃん』

「……柚子。誕生日おめでとう」

『えへへ、ありがとう』


 スマホの向こうから、柚子の嬉しそうな声が聞こえる。はしゃいだ声も可愛いけれど、今すぐに笑顔が見たくなる。

 おれはコンコンと窓ガラスを叩くと、「寒いから窓開けて」と言った。すぐにカーテンが開いて、目を真ん丸にした柚子の顔が覗く。


「さ……朔ちゃん!?」

「しーっ! こんなとこ、おばさんに見つかったらブッ殺される……」


 唇に人差し指を押し当てると、柚子ははっとしたように両手で口を押さえた。こんなことがおばさんにバレたら、おれが今まで築いてきた信用が一瞬で水の泡である。手のつけようのない悪ガキだった、あの頃に逆戻りだ。

 柚子はおれの腕を引くと、「は、入って」と部屋の中に招き入れてくれる。促されるままに、おれは柚子と並んでベッドの上に座った。


「ど、ど、ど、どうしたの」


 柚子もまさか屋根を乗り越えてくるとは思わなかったらしく、目を白黒させている。おれは柚子の耳元に唇を寄せると、「……夜這いしに来た」と囁いてやった。途端に柚子は真っ赤になって飛び退いて、ベッドに転がっていたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。

 ……この反応を見るに、さすがに今日最後までするのは無理そうだな。そもそも、諸々の準備もできていない。


「……冗談だよ。はい、誕生日プレゼント」


 おれがラッピングされた包みを手渡すと、柚子はぱっと顔を輝かせて「ありがとう」と受け取ってくれた。ガサガサと包装紙を開いて、中からイヤーマフとヘアピンを取り出す。


「あったかそう! かわいい!」

「……安モンで悪いけど」

「ううん、嬉しい! 朔ちゃん、ありがとう」


 そう言って柚子は、頰を赤らめて微笑む。おれは柚子の前髪を分けると、ヘアピンで留めてやった。露わになった額にうっすら残る傷に、おれはそっと唇を落とす。ふわふわの癖毛からはシャンプーの香りがした。触れた箇所から、柚子の体温がどんどん上昇していく。


「さ、さ、さ、さくちゃん」

「……これ、邪魔だな」


 柚子が抱えているぬいぐるみを奪い取ると、ひょいとベッドの上に放り投げた。ぬいぐるみのやたらと大きな目が、恨みがましそうにこちらを向いている。おれはそれを気にしないようにして、両手で柚子の頰を包み込んだ。


「……おれがしたいこと、してもいい?」

「へっ」


 至近距離の柚子が間抜けな声を出す。おれはじっと柚子の目を見つめたまま、諭すように言った。


「言っとくけど、おれ柚子が思ってるより全然優しくないし、余裕でもないし、かっこよくもないし、たぶん柚子がドン引きするようなこと考えてる」

「ど、どんびき……?」

「……でもまあ、できる限り、大事にしたいと思ってる」


 人生は長い。これからもずっと一緒に居るのだから、焦って事を進める必要もない。とりあえず今日のところは、キスだけだ。ちょっと触れるだけの、舌も入れないやつ。


「覚悟決めたら、目閉じろ」


 おれの言葉に、柚子は迷わずに瞼を下ろした。おれは柚子の両肩を掴んで、ゆっくりと唇を重ね合わせる。はじめて触れた柚子の唇は、驚くほどに柔らかくて甘かった。本音を言うならもっと味わっていたかったけれど、すぐに離れる。

 おそるおそる目を開けた柚子は、ぼうっと惚けたような表情で呟いた。


「さ、さくちゃん……」


 とろんと蕩けた目つきが扇情的で、おれは揺らぐ理性を慌てて立て直す。誤魔化すように「……感想は?」と尋ねると、柚子はこてんと寄りかかってきた。


「……嬉しい。幸せ。朔ちゃん、大好き」


 ねえもう一回して、と強請った柚子は目を閉じる。ふわふわと柔らかくていい匂いのする可愛い生き物は、甘えるように身体を擦り寄せてくる。結局のところ、罪悪感なんてなくたって、おれは柚子の「お願い」を断ることができないのだ。

 額にうっすらと残った傷跡にもう一度唇を落とすと、柚子はくすぐったそうな笑みを溢す。おれは「煽ったからには責任取れよ」と囁いて、さっきよりもほんの少しだけ長い、二度目のキスをした。



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