一生かけて責任取ります!

「わたし、もう朔ちゃんに守ってもらわなくても、一人で大丈夫だよ」


 そう宣言した声は、情けなく震えてはいなかっただろうか。朔ちゃんをちゃんと、安心させてあげられただろうか。

 ショートホームルームが終わると、わたしはふぅっと息をついて、教科書を鞄に詰め込んだ。近くに座っていた派手めな女子グループに、勇気を出して「ま、また明日ね」と声をかけてみる。彼女たちは「ハスミン、補習がんばってねー!」と明るく手を振ってくれた。

 小さなことだけれど、少しずつ。いつまでも誰かの後ろについていくんじゃなくて、誰かに手を引いてもらうんじゃなくて、ちゃんと一人で歩けるようにならなくちゃ。わたしはこれから、朔ちゃんの力を借りずに生きていくことを決めたのだ。今まで守られてばかりだったけれど、わたしもいい加減に朔ちゃんの手を離さなければ。

 教室から出たところで、「あの」と呼び止められてギョッとした。恐る恐る振り向くと、朔ちゃんのクラスメイトの女の子(名前、聞きそびれたままだった)が立っている。昨日の勢いはどこへやら、ずいぶん気まずそうな顔だ。


「蓮見さん、昨日はごめん。あたし、頭に血上ってた」


 彼女はそう言って、深々と頭を下げる。わたしはぶんぶんと首を横に振った。ゆっくりと顔を上げた彼女は、小さな紙袋を差し出してくる。


「……これ、お詫びにもなんないけど。クッキー、よかったら食べて」

「あ、ありがとう……」


 受け取ったのは、わたしの好きなメーカーのチョコチップクッキーだった。わたしが勝手に階段から落ちただけなのに、気を遣わせてしまって申し訳ない。


「あたしのせいで、高辻くんと喧嘩してる? 今日、一緒に学校来なかったよね」

「え? ううん……喧嘩とかじゃなくて……わたし、朔ちゃんから独り立ちしようと思って」

「独り立ち?」


 サラサラの髪を揺らして首を傾げた彼女に、わたしは「うん」と頷く。彼女に対しては、しっかり説明しておいた方がいいかもしれない。わたしは小さく息を吸い込んだ。


「ええと……あなたの言う通り、わたし、朔ちゃんの罪悪感につけこんで、ずっと甘えてたから。これからは、朔ちゃんが居なくても大丈夫なように……えーと、が、がんばる」

「それって、高辻くんのこと諦めるってこと?」

「ち、違うよ!」


 自分でもびっくりするくらいに、大きな声が出た。驚いたように瞬きをした彼女に向かって、わたしは勢いこんで続ける。


「ぜ、絶対諦めない! 朔ちゃんに、わたしが一人でももう大丈夫ってわかってもらえたら、そしたらちゃんと……こ、告白、する」


 朔ちゃんがわたしへの罪悪感から解放されて、自由になれたなら。今度こそズルをせずに、自分の気持ちを伝えるのだ。今までもこれからもずっと、朔ちゃんのことだけが好きです。わたしと付き合ってください。もしそう言えたら、朔ちゃんは何と答えてくれるだろうか。嘘偽りのない気持ちを返してくれるだろうか。

 彼女はわたしの勢いにやや気圧されていたけれど、やがて呆れたように小さく肩を竦めた。


「……あたし、そこで素直にがんばれって言えるほど、性格良くないよ」

「わ、わかってる……応援して欲しいわけじゃ、ないから」

「……でも、昨日の高辻くん見てたら、蓮見さんへの気持ちがただの罪悪感じゃないことくらい、わかるよ。今にもあたしのこと、殺しそうな顔してたもんね」

「へ……」


 わたしがぽかんと口を開けると、彼女は「お大事にね」と言って、セーラー服のスカートを翻した。ピンとまっすぐ背筋が伸びた後ろ姿は、お手本にしたいくらいにきれいだった。

 ……今度彼女と話したときは、ちゃんと名前を訊いてみよう。仲良くなれるかは、わからないけれど。サラサラの黒髪が揺れる美しい背中を見送りながら、わたしはそんなことを考えていた。




 けたたましいアラームの音が耳をつんざく。半ば強引に眠りから覚まされたわたしは、布団から腕だけを出してスマートフォンを掴む。手探りでアラームを止めると、「うぅ」と小さく唸り声を漏らした。腕の中にいるぬいぐるみに顔を押しつけて、ぎゅうっと抱きしめる。

 スマホのロックを解除して、寝ぼけ眼で時間を確認した。時刻は五時半。いつもより二時間近く早い。なんでこんな時間に……と考えて、はっとした。そうだ。今日も早起きして、一人で学校に行かなければ。

 十二月の朝は凍えるほどに寒い。わたしはしばらく毛布に包まってぐずぐずしていたけれど、五分ほどしてようやく覚悟を決めて、えいっと勢いをつけて起き上がった。

 モコモコのガウンを羽織って、寒い寒いと呟きながらカーテンを開ける。窓から見える朔ちゃんのお部屋はまだ暗くて、カーテンも閉まっていた。きっとまだ寝ているのだろう。小さな声で「朔ちゃん、おはよう」と挨拶をしてから、わたしは足早に階下へと降りて行った。


「おはよう……」

「あらあんた、今日も早起きね。珍しい」


 起きてきたわたしを見て、お母さんは目を丸くした。うちはお母さんもお父さんも早起きだ。既にガスストーブがついていて、部屋が暖かいのがありがたかった。


「うん……一人で学校行こうと思って」

「あらそう。気をつけなさいよ。最近、このあたりでまた変質者出たらしいから」

「はあい……」


 お母さんの忠告に、わたしは素直に頷いた。今度もし変質者に遭遇したとしても、朔ちゃんに頼ることなく撃退しなければ。もうこれ以上、彼に余計な心配と迷惑をかけるわけにはいかない。

 これ以上ないくらいに爆発した寝癖と格闘のうえ勝利して、分厚い前髪を斜めに流すとヘアピンで止める。昨日もおでこを出して学校に行ったけれど、誰も傷跡の存在には触れてこなかった。おそらく、みんな気付いてすらいなかったのだろう。朔ちゃんもきっと、こんな傷のことなんてすぐ忘れてしまうに違いない。早く忘れてくれたらいいな、と思う。

 四十五分ほどかけて、準備が完了した。あまり遅くなると通勤ラッシュに巻き込まれるので、かなり早い時間に家を出なければならない。朔ちゃんがいない中、あの満員電車を乗り切れる気がしないのだ。

 セーラー服の上からダッフルコートを羽織ると、朔ちゃんに借りっぱなしの黒いマフラーを巻いた。朔ちゃんはまだわたしの赤いチェックのマフラーを持っているはずだし、早く返さなければと思っているのだけれど、もう少しだけ持っていたい。……こうしていると、まだ朔ちゃんがそばに居てくれるような気がするから。

 ローファーを履いて、重い鞄を持ち上げる。リビングに向かって「いってきまあす」と声をかけて、玄関から外に出た。

 空はどんよりと曇っており、なんだか雪でも降り出しそうなお天気だ。朝早いこともあってか、周囲は薄暗い。歩き出したところで、後ろからついてくる足音が聞こえてきた。わたしは小さく息を飲む。


 ――最近、このあたりでまた変質者出たらしいから。


 お母さんの言葉を思い出して、わたしは鞄を握りしめる手にぎゅっと力を込めた。歩く速度を上げてみると、後ろの足音も同じ速さでついてくる。いや、気のせいではなく、むしろどんどん近づいてきている。わたしは肺いっぱいに息を吸い込むと、駅に向かって走り出した。

 後ろから「あっ」という低い声が聞こえて、走って追いかけてくる気配がした。走るのが遅いわたしは、いとも簡単に追いつかれてしまう。背後から伸びてきた手が、わたしの肩をがしりと掴んだ。ごつごつして大きな、男の人の手だ。

 ……助けて朔ちゃん、と叫びたくなるのをぐっと堪えて、わたしは全力で重い鞄を振り上げた。遠心力に任せてぶん回されたそれは、ばしん、と音を立てて男の顔面に直撃した。


「……ッテェ……」

「……あっ」


 顔を押さえてその場にしゃがみこんだ男を見て、わたしははっとする。黒の学ランに似つかわしくない、かわいい赤いチェックのマフラーを巻いた男の子。そこに居たのは、朔ちゃんだった。


「さ、さ、朔ちゃん! ご、ごめんなさい! わたし、変質者かと思って……」

「……いや、平気。黙って追いかけ回したおれが悪い……ナイスファイト」


 そう言って朔ちゃんは、「鼻血とか出てねーよな?」と顔を上げる。鼻の頭がちょっと赤くなっていたけれど、おおむね問題なさそうだ。わたしは頷くと、朔ちゃんの腕を引いて助け起こした。


「ど、どうしたの?」

「……柚子と一緒に学校行こうと思って早起きしたのに、おまえもういねーし。家出たら背中見えたから、追いかけてきたんだよ。そしたら逃げられるし……」

「……わたし、もう迎えに来なくてもいいって言ったのに」

「……とりあえず、歩きながら喋ろうぜ」


 朔ちゃんが言ったので、わたしは頷く。朔ちゃんがわたしの手を取ったので、わたしたちはしっかりと手を繋ぎながら、駅に向かう道を歩き出した。冷え切っていた手が、互いの熱でじんわりと溶かされていく。


「柚子」


 朔ちゃんが、白い息とともにわたしの名前を呼ぶ。その声が優しくてあったかくて、なんだか泣いてしまいそう。わたしは鼻を軽く啜りながら、黒いマフラーに顔を埋めて呟く。


「……どうして、追いかけてきてくれたの?」

「おれが柚子と一緒に学校行きたかったからだよ」

「……変質者が出たから? わたしが頼りないから? わたしのこと心配してくれてるの?」


 本当は、わたしを追いかけてきてくれたことがとても嬉しい。それでも、これ以上優しくされると、わたしはまた朔ちゃんに甘えてしまう。朔ちゃんに頼らずに生きていくって決めたはずなのに。いざとなると、わたしはこの手を離したくなくなってしまう。


「……朔ちゃん。昨日も言ったけど、わたしもう守ってもらわなくても大丈夫だよ」


 自分に言い聞かせるように、わたしは言った。朔ちゃんは苦笑混じりに「今、身を持ってわかった」と頷く。全力で顔面に鞄をぶつけてしまったわたしは、申し訳なさのあまり身を縮こませる。

 朔ちゃんの手が伸びてきて、わたしの額の傷にそっと触れた。そこからぽっと熱がともって、じわじわと頰に広がっていく。きっとわたしの顔は、隠しようもないくらいに赤くなっているに違いない。


「おれが柚子のこと守る必要なんてないことくらい、とっくに気付いてた」


 朔ちゃんはぴたりと足を止めた。早朝の住宅街には、意外なほど人が少ない。しんと静まり返った世界に、わたしたち二人だけが取り残されたみたいな気持ちになる。


「ほんとは、おれが柚子と一緒に居る理由が欲しかっただけだ。こんな傷とか、あってもなくても……これからも柚子のそばに居たい」

「さく、ちゃん」


 真剣な声音に、心の奥が震える。わたしも何か言わなくちゃと思うのに、溢れ出す感情に喉が詰まってうまく言葉が出てこない。


「……ごめんな、柚子。もう守らなくてもいいっていう、おまえの〝お願い〟聞いてやれない」


 朔ちゃんのややつり上がった目が、まっすぐわたしを射抜いている。朔ちゃんの手が、愛おしそうにわたしの額の傷を撫でた。


「おれ、柚子のことが好きだ。これからもずっと、一番近くで守らせて欲しい」


 ……わたし、もしかして夢を見てるのかな。世界で一番大好きな男の子が、わたしのことを好きだと言っている。ぎゅっと頰をつまんでみると、朔ちゃんは呆れたように「何やってんの」と笑った。


「……ほ、ほんとにほんと? あの……わたしに気遣ってない?」

「絶対ない」

「それって、朔ちゃんの本当に素直な気持ち?」

「……あーもう、しつこいな。ほんとに好きだよ」


 頰を染めながら、ダメ押しのようにそう付け加えた朔ちゃんに、わたしの表情はゆるゆると緩んでいく。嬉しい、幸せ、大好き。


「……わ、わたしも……朔ちゃんが好き。朔ちゃんのことだけが、ずっと好き」


 小さい頃からずっと、朔ちゃんのことしか見てなかった。わたしの手を引っ張っていたやんちゃな朔ちゃんのことも、わたしを守ってくれた優しい朔ちゃんのことも、変わらずに大好きだった。他の人が入り込む隙なんて、これっぽっちもないくらい。


「で、でもね……ほんとに、守ってくれなくてもいいの。わたし、そんなにか弱くないから」

「知ってる」

「……守ってくれなくてもいいけど……でも、これからもわたしと一緒に居てくれる?」


 返事の代わりに朔ちゃんはわたしを抱き寄せて、ぎゅっと腕の中に閉じ込めてくれた。顔を押しつけた胸から、どくどくという朔ちゃんの心臓の音が聞こえる。自分と同じテンポでリズムを刻むその鼓動が、何よりも朔ちゃんの気持ちを表していて嬉しかった。

 とはいえ、ここは自宅からもそう離れていないご近所だ。早朝で人通りがないとはいえ、どこで誰に見られているかわからない。わたしはキョロキョロと周りを気にしながら、小声で囁く。

 

「……ひ、人、来ちゃうよ……」

「……わかってる」

「そ、そろそろ離れた方が……」

「離れたくない」

「で、でも」

「……おまえはおれが居なくても平気なのかもしれないけど、おれはもう、おまえが居ないとダメなんだよ。どうしようもねーだろ」


 やや拗ねたように唇を尖らせた朔ちゃんがかわいくて、わたしはくすくす笑みを零す。朔ちゃんは不満げに目を細めて、わたしを抱く腕に力を込めた。黒いマフラーとおんなじ、朔ちゃんの匂いがする。


「笑い事じゃねーよ。ちゃんと責任取ってくれ」


 わたしは朔ちゃんの背中に腕を回すと、溢れ出すこの気持ちが余すところなく伝わるくらいに、ぎゅーっと強く抱きしめた。

 

「……これから一生かけて、責任取ってあげる!」

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