最後のお願い

 血相を変えて教室に飛び込んできた三橋が、「蓮見さんが階段から落ちた」と言ったとき、おれは全身の血液が凍りついたような気持ちになった。

 ダッシュで教室を飛び出して、階段の下に倒れ込んでいる柚子を見た瞬間、七年前のあの日の光景を思い出した。一日だって忘れたことはない、頭から血を流して倒れている柚子の姿。

 幸いなことに血は出ていなかったようだったが、強く頭を打って気を失っているようだった。助け起こそうとしたおれを、「下手に動かさないほうがいい」と養護教諭が強い口調で制した。

 救急車が到着するまでのあいだに、真っ青になった三橋が簡単に事情を説明してくれた。曰く、「あたしが蓮見さんにつっかかって怖がらせたせいで、あの子が足を滑らせちゃったの」と。

 三橋に腹を立てていないわけではなかったが、それよりも自分に対する怒りの方が強かった。そもそも三橋の怒りの矛先が柚子に向いたのは、おれの軽率な発言のせいではないか。

 柚子について病院について行ったおれは、柚子が目を覚ますまでずっとそばに居た。白いベッドの上で目を閉じている柚子を見つめながら、このまま柚子が目を覚まさなかったらどうしよう、という不安に襲われていた。しきりに細い手首を掴んでは、脈があることを確かめた。ようやく柚子が目を開けたときは、心の底からホッとした。


「もう、わたしのこと守らないで。朔ちゃんは、朔ちゃんの好きなように生きて欲しいの」


 目を覚ました柚子は、唐突にそんなことを言い出した。おれはよっぽど「嫌だ」と拒否したかったが、何も言えなかった。


  ――番犬気取りなのはいいけど、それってほんとに柚子のためなの?

 ――あんまりやりすぎると、蓮見さんが孤立しちゃうよ。


 今まで何度も何度も突きつけられてきては、目を背けてきた。おれが柚子のそばに居ることが、必ずしも柚子のためになっているとは限らない。現に、今回こうしておれのせいで柚子は怪我をしてしまった。おれは柚子のために、柚子の手を離さなきゃいけないことぐらい、わかっている。


「ねえ朔ちゃん、〝お願い〟」


 ……この期に及んで、そんな言い方をするのはずるい。おれには柚子の意思以上に優先するものはなく、彼女のお願いを断ることなど決してできないのだから。




 目を覚ましたおれは、まずいつものように部屋のカーテンを開けた。どんよりと黒い雲が空を覆っていて、今にも雨が降り出しそうだ。毎朝の習慣で柚子の部屋を見たけれど、カーテンが閉まっていて中は見えなかった。

 階段を降りてダイニングに顔を出すと、母さんが「朔ちゃんおはよう!」と声をかけてくる。「おはよう」と返事をして椅子に座ると、母さんはおれの目の前にトーストとホットコーヒーを置いた。おれはミルクも砂糖も入れずに、コーヒーのマグカップに口をつける。


「朔ちゃん、今日早起きしなくてもよかったの?」

「え? いつも通りだけど」

「そうなの? さっきゴミ出し行ったら、柚子ちゃんが慌ただしく学校行ってたから……何か用事でもあるのかしらね」

「……は?」


 おれはマグカップをテーブルの上に置くと、慌ててスマホを確認した。柚子から「先に行くね。今日から迎えに来てくれなくても大丈夫です」というメッセージの後に、よろしくおねがいします、と頭を下げている犬のスタンプが送られてきている。

 ……もしかしなくてもおれ、避けられてる?

 スマホ画面を凝視しながら固まったおれを見て、母さんは「あらあら」と大袈裟な仕草で口元に手を当てた。


「朔ちゃん、もしかして柚子ちゃんに置いて行かれたの!? あらあらあ! ちょっと、しっかりしなさいよ!」

「……うるせーよ」

「喧嘩でもしたの? あんな可愛くて良い子めったにいないんだから、ちゃんと捕まえときなさいよー!」

「別に、喧嘩したわけじゃ……」


 おれはモゴモゴと口ごもりながら、コーヒーを口に運ぶ。そもそもただの幼馴染が毎朝登下校を共にしているのが異常だっただけで、あるべき姿に戻っただけなのだ。

 柚子だって子どもではないのだから、一人で学校に行くことくらいできる。それでもおれは不安で仕方なかった。柚子はちゃんと学校に辿り着けるだろうか。痴漢に遭ったりしていないだろうか。トーストにマーガリンを塗りながら、そんなことばかりを考えていた。


「早く謝って仲直りしなさいよ」

「……別に、謝ることなんて何も」

「あと朔ちゃん、それマーガリンじゃなくてマスタードよ」

「……もうちょっと早く言ってくれ……」


 おれは黄色いマスタードが塗りたくられたトーストを見て、大きな溜息をついた。

 



 通学電車はいつものように満員だったけれど、庇う人間がいない分かなり楽だった。おれはそれほど背が低い方ではないし、息苦しいということもない。いつもよりスムーズに学校に着いたおれは、自分の教室に入る前に柚子のクラスを覗いた。

 柚子はクラスの女子と何やら談笑をしているらしく、控えめにくすくすと笑っていた。驚くべきことに、柚子の分厚くて長い前髪は斜めに流されて、ヘアピンで止められている。この距離からだと、額の傷跡はまったく見えなかった。


「あれ、朔じゃん」


 背後から声をかけられて振り向くと、ちょうど登校してきたらしい充が立っていた。おれが「よう」と短く答えると、充はおれの視線の先を確認するように、教室の中を覗き込む。


「あれ? 蓮見さん、おでこ出してるー。イメチェンかな」

「……さあ」

「改めて見ると、蓮見さんやっぱカワイイよな。前髪上げてる方がいいじゃん。顔がよく見えるし」

「……そんなに変わんねーだろ」

「おまえなー。いつまでもそうやって知らんふりしてたら、あっというまに横から掻っ攫われるぞ」


 充に言われて、おれはもう一度柚子の方を見た。柚子が可愛いことくらい、おれはずっとずっと昔から知っている。前髪が長くて俯きがちで、いつもおれの後ろに隠れているから、わかりにくいけれど。

 ……本当は、他の誰も気がついてほしくなかった。柚子が可愛いことを知っているのはおれだけでよかったなんて、とんでもないエゴだ。

 おれは結局柚子に声をかけることができず、踵を返して自分のクラスに戻った。



 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、柚子がひょっこりとおれのクラスにやって来た。扉の隙間から顔を出して、キョロキョロと誰かのことを探しているようだ。廊下側に座っている男子に何やら声をかけているのを見て、おれの胸には黒いモヤモヤが押し寄せてきた。


「おーい、高辻! 幼馴染、呼んでるぞー」


 どうやら柚子の探し人はおれだったらしい。先日席替えをしたばかりだし、どこにいるのかわからなかったのだろう。おれはひとまず安心したが、柚子が自分から男子に話しかけているのを見るのははじめてだな、と考えて、また少し落ち込んだ。


「あ、朔ちゃん……ごめんね、呼び出して」


 セーラー服の上に紺色のカーディガンを羽織った柚子が、申し訳なさそうに眉を下げた。斜めに分けた前髪から、額が覗いているのが新鮮だ。

 本人の言う通り、この近距離でも傷跡はうっすらとしかわからない。きっと周囲の人間はほとんど気にしないだろう。もう少し顔を近付ければよく見えるのだろうが――と考えて、おれは舌打ちしたくなった。おれ以外の奴が柚子にそんなに近付くところなんて、想像したくもない。


「……頭、痛くねえ?」

「う、うん。心配かけてごめんね」

「朝、一人で大丈夫だった?」

「うん。早い時間だから電車も空いてたし、学校ついてから勉強できたからよかった。明日も早起きがんばるね」


 そう言って柚子はぐっと胸の前で拳を握りしめた。おれは心の隙間に冷たい風が吹き抜けるのを感じながら、渇いた声で「うん」と答える。


「……朔ちゃん、わたしね。今日がんばって、クラスの女の子に自分から話しかけたよ」

「……うん」

「あとね、数学の小テスト、十点満点で七点だった」

「……よかったじゃん」

「わたし、もう朔ちゃんに守ってもらわなくても、一人で大丈夫だよ。それだけ、言いに来たの」


 いつも俯きがちだった柚子はしっかりと顔を上げていて、ぱっちりとした大きな瞳がまっすぐこちらを向いていた。

 いつもおれの後ろに隠れて守られていた女の子は、もうどこにもいないのだ。それを寂しいと感じるのは、あまりにも自分勝手だ。


「今日も補習あるけど、先に帰っててね」

「……わかった」

「じゃあまたね、朔ちゃん」


 そう言って柚子は、踵を返して自分のクラスへと戻って行った。まっすぐに背筋を伸ばして歩く幼馴染は、なんだかおれの知らない女の子のように感じられた。



 授業が終わるとおれは柚子を待たず、まっすぐ家に帰った。「柚子ちゃんと仲直りした?」としつこく訊いてくる母を無視して、制服のまま自室のベッドに倒れ込む。なんだかやけに、空虚な気持ちだっだ。瞼を閉じると、小さな柚子の泣き顔が浮かんでくる。


 ――さくちゃん、これからもゆずといっしょにいてくれる?


 あの日からずっと、おれはずっと柚子と一緒に居た。柚子がおれを頼って、おれを必要としてくれることが嬉しかった。甘えたような柚子の可愛い「お願い」を聞いてやることが好きだった。自分がつけた傷跡を言い訳にして、柚子をおれのそばにずっと縛りつけていた。本当はずっと、柚子はおれが守る必要なんてないくらい強い女の子だと、わかっていたくせに。

 朔ちゃんには朔ちゃんの人生があるんだから、と柚子の母さんは言った。そんなことは百も承知だ。それでもおれの人生には、柚子が隣に居てくれないと嫌だ。柚子が居ないとダメなのは、おれの方だった。

 やっぱりどう足掻いても、おれは柚子の手を離すことができない。今度はおれの方から、これからも一緒に居て欲しい、とお願いしなければ。おれはじっと目を閉じたまま、世界で一番大事な幼馴染の笑顔を思い出していた。

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