呪いの終わり
「じゃあ今日はここまで。プリント提出したら帰っていいぞー」
壇上にいる数学教師がそう言ってチョークを置いた途端、教室後方にいた派手めな男子の集団がゾロゾロとプリントを提出して出て行った。まだプリントが終わっていなかったわたしは、慌てて解答欄を埋めていく。あの子たち、補習中もずっとお喋りしてたみたいだけど、いつのまにプリントを終わらせたんだろう。真面目にやっていたはずの自分の要領の悪さに嫌気がさす。
ようやくプリントを提出したわたしは、重たい鞄にぎゅうぎゅうに教科書を詰め込むと、足早に教室を飛び出した。数学の小テストでさんざんな点数を取ってしまったわたしは、強制的に期末試験対策の補習に参加させられてしまったのだ。昨日も寒い中かなり待たせてしまったし、早く朔ちゃんのところに行かなければ。
あったかいところで待っていて、とは言ったけれど、念の為に廊下の窓から中庭を見下ろした。今日も空模様はどんよりしていて、寒々とした中庭には、人っ子ひとりいない。朔ちゃんに「どこにいるの?」とメッセージを送ったところ、すぐに「教室」と返事がきた。
鞄の中から黒のマフラーを取り出して、首にぐるぐると巻きつける。朔ちゃんの匂いがする、とわたしは頰を緩ませた。結局今日もわたしが朔ちゃんのマフラーをつけて、朔ちゃんはわたしのマフラーをつけている。朝茉由ちゃんに目撃されたときに「またバカップルみたいなことしてる……」と呆れられてしまった。朔ちゃんは「別にいいだろ」とふてくされていた。
上履きを鳴らして階段を半ばまで駆け下りると、踊り場で一人の女生徒とすれ違った。彼女もこちらに気付いたらしく、「あ」と呟いて立ち止まる。体育祭の日に話しかけてきた、朔ちゃんのクラスメイトの女の子だ。
「こ、こんにちは……」
目が合ってしまった手前、無視をするわけにもいかなくて、わたしは軽く頭を下げた。彼女はわたしのマフラーにちらりと視線をやると、ややつり上がった切れ長の目を瞬かせる。
「それ、高辻くんの?」
「えっ、あっ、あの……はい」
「ふーん」
敵意を隠そうともしない目つきに、わたしは身体を縮こませた。ここにはわたしを守ってくれる朔ちゃんも茉由ちゃんもいない。今すぐ逃げ出したかったけれど、彼女は尚もわたしに詰め寄ってきた。
「蓮見さん、高辻くんのこと好きなんでしょ?」
「……は、はい」
勢いに押し切られて、わたしは思わず頷いてしまった。なんでもいいから縋るものが欲しくて、ぎゅっと胸の前で鞄を抱きしめる。わたしのそんな様子に、彼女はますます苛立ったようだった。
「どう見ても両想いなのに、なんで付き合わないの?」
「で、でも……朔ちゃんは、わたしのこと好きなわけじゃないから……」
「え?」
「朔ちゃんがわたしに優しくしてくれるのは、ただの罪悪感……だよ」
わたしの言葉を聞いた彼女の頰に、さっと赤みがさした。「何それ?」と言う声は震えていて、つり上がった目には怒りが滲んでいる。ツカツカと勢いよく歩み寄られて、わたしはじりじり後退した。
「それって、高辻くんは蓮見さんのこと好きでもなんでもないのに、あなたは彼の罪悪感を利用して一緒にいるってこと?」
「う……ん」
「そんなの、ずるい! 卑怯だよ! 高辻くんが可哀想!」
……自分がずるくて卑怯なことくらい、わかっているつもりだった。それでも、他人にここまではっきりと「朔ちゃんが可哀想だ」と指摘されたのははじめてだった。
ガクガクと膝が震えて、まともに立っていられなくなる。こうして真正面から敵意をぶつけられるのも、はじめての経験だった。「ごめんなさい」と呟く声が小さく掠れている。
もう一歩距離を詰められて、そのまま後ずさったところで、ぐらり、とバランスを崩した。あると思っていた場所に、床がない。
目の前にいる彼女の顔色がさっと変わって、わたしの腕を掴もうと手が伸びてくる。それでもその手は届かずに、わたしの視界は傾いて、無機質な天井が見えた。
「――あ」
そのときわたしの頭に浮かんだのは、幼い頃にフェンスから落下したあの瞬間の光景だった。とっくに忘れていたはずなのに、どうして今思い出すんだろう。
次の瞬間にガツンと後頭部に激しい衝撃を感じて、わたしはそのまま意識を手放してしまった。
――ゆず、ゆず。ごめんな。
ズキズキと痛む頭の中に響くのは、泣きながらわたしを呼ぶ朔ちゃんの声だった。きっと現実ではなくて、わたしの記憶の中にある声だ。あの日からずっと、朔ちゃんはすべてを犠牲にしてわたしのことを守ってくれていた。
……朔ちゃんごめんね。謝らなきゃいけないのは、わたしの方だ。
わたしは朔ちゃんの罪悪感を利用して、彼のそばから離れなかった。手を離す機会はきっと何度もあったはずなのに。幼馴染の立場を利用して、他の女の子が近付く隙を与えなかった。あの子の言う通り、わたしはずるくて卑怯だ。
意識が少しずつ浮上していくのに、わたしを呼ぶ朔ちゃんの声はちっとも遠くならない。ぐにゃぐにゃとした夢と現実の狭間で、わたしはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「柚子」
視界に飛び込んできたのは、わたしを見下ろす朔ちゃんの泣き顔だった。
いやよく見ると、泣きそうではあったけれど、わたしの記憶と違って泣いてはいなかった。それでも辛そうに表情を歪めて、わたしの顔を覗き込んでいる。
「さくちゃん……」
上体を起こした途端に、後頭部がズキリと痛んだ。朔ちゃんは慌てた様子でわたしの身体を支えてくれる。
「階段から落ちたの、覚えてるか?」
朔ちゃんの質問に、わたしはこくりと頷いた。きょろきょろと周りを見回すと、どうやら病室のようだった。「救急車で運ばれてきたんだよ」と朔ちゃんが言う。朔ちゃんのお母さんのときといい、最近やけに救急車に乗る機会が多いなあ、と場違いなことを考えてしまった。
後頭部にそっと手をやると、大きなたんこぶができているみたいだった。ちょっと痛いけれど、特に傷ができたりはしていないみたいだ。気を失う程度で済んでよかった。
「頭、痛くねえ? ボーッとしたりしない?」
「う、うん。ちょっと痛いけど、全然平気みたい。わたし、やっぱり頑丈だね」
「でも頭打ってるんだから、母さんみたいに後から症状が出るかもしれないだろ」
朔ちゃんはそう言って、わたしの背中にそっと腕を回した。まるでガラス細工でも扱うかのように優しく、ごく軽い力で抱きしめられる。わたしの頭を撫でる手が小刻みに震えている。制服ごしに聞こえる朔ちゃんの心臓の音がバクバクとうるさい。
「ごめん、ごめんな……」
「なんで、朔ちゃんが謝るの……」
「あいつが……三橋が柚子につっかかったの、おれのせいだ。おれが、柚子の名前出したから……」
わたしは首を横に振った。わたしが階段から落ちたのも、彼女がわたしに対して怒ったのも、全部わたしの責任で自業自得だ。
それなのに朔ちゃんは、感じなくてもいい罪悪感を抱いて、果たさなくてもいい責任まで、全部背負い込もうとしている。
「……朔ちゃん」
わたしはそっと朔ちゃんの胸を押して、彼から離れた。今わたしの目の前にいる朔ちゃんは、七年前のあの日と同じ顔をしていて、前髪に隠れた額の傷をじっと見つめていた。
わたしの傷は、朔ちゃんを縛りつける呪いだ。わたしはその呪いを解いて、朔ちゃんを自由にしてあげなきゃいけない。
「朔ちゃん、見て」
わたしは前髪を掻き分けて、朔ちゃんに額の傷を見せた。額の真ん中に斜めに残った傷は薄くて、目を凝らさなければはっきりとは見えない。だから、朔ちゃんが気にする必要なんて本当は全然ない。わたしが朔ちゃんに傷を見せないようにしていたのは、それを気付かれたくないからだった。
「あのときの傷、もうほとんど見えないよ。だから、朔ちゃんが責任感じることない」
「柚子、でも」
「今日のことだって、わたしがドジだっただけ。それに朔ちゃんのこと好きな女の子が、わたしに腹を立てるの当然だよ。わたし、ずるいの」
話しながら喉がぐっと詰まって、じわりと涙が滲みそうになる。今ここで、わたしが泣く資格なんてないのに。わたしは必死で瞬きをしながら、瞼の奥にこもる熱を追い払う。
「朔ちゃん、ごめんね。今までありがとう」
「柚子、おまえ……なに言ってんの?」
「朔ちゃんには朔ちゃんの人生があるんだもんね」
わたしが言わんとしていることを察したのか、朔ちゃんがはっとしたように目を見開いた。わたしに向かって手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めてしまう。わたしはその手に縋りたくなるのをぐっと堪えながら――ゆっくり、口を開いた。
「最後にひとつだけ、お願い聞いてくれる?」
わたしは知っている。朔ちゃんは、絶対にわたしの「お願い」を断らない。
「もう、わたしのこと守らないで。朔ちゃんは、朔ちゃんの好きなように生きて欲しいの」
わたしがそう言うと、朔ちゃんの顔が一瞬泣き出しそうにぐしゃりと歪んだ。何か言いたげに口を開いたけれど、すぐに噤んでしまう。両手で顔を覆った朔ちゃんは、呻くような声で言った。
「……その言い方は、ずりーだろ……」
それきり黙りこくってしまった朔ちゃんに、わたしは七年分の「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返すことしかできなかった。
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