番外編

いつか残さずいただきます

 今日は一足先に春が来たようないいお天気で、ここ数日の痛いほどの寒さは和らぎ、リビングの窓から射し込む太陽の光が小さな陽だまりを作っている。おれはテーブルに頬杖をついて、おれの世界で一番大事な幼馴染――改め、恋人となった女の子を眺めていた。

 おれの家のソファに腰を下ろした柚子はまるで我が家のようにくつろいだ表情で、ゆったりとしたニットのワンピースを着ている。少し伸びた前髪を斜めに流して、おれがプレゼントしたヘアピンで留めていた。ニコニコと微笑みながらスマホを覗き込んでいる姿は可愛かったしずっと見ていたかったが、隣に居るのがおれではない、という一点のみが気に食わない。


「柚子、見て見てー。これ、おれの好きなキャラ」

「この人は女の人なの? 男の人なの?」

「男だよ! そーだ柚子、ガチャ引いてよ。ここ押してくれればいいから」

「ええ……変なの出ても怒らないでね」


 休日におれの家へと遊びに来た柚子は、柚子のことが大好きな父さんと母さんに捕まり、二人が出かけてようやく解放されたかと思うと、次は弟の旺太郎に捕まってしまった。おかげでおれは今日、まだほとんど柚子に触れていない。

 旺太郎がハマっているスマホゲームを見せられている柚子は、旺太郎に促されるがままにスマホをタップした。じっと画面を見つめていた柚子は、しばらくして頬を染める。


「な、なんかすごいセクシーな女の人の絵が出てきたんだけど……」

「え!? お、よっしゃ! イベント特攻エリザベータだ!」

「もしかして、いいやつ出たの? お役に立てた?」

「立てた立てた。サンキュー柚子、愛してる!」


 そう言って旺太郎は、がばっと柚子に抱きついた。柚子も特に嫌がる様子はなく、されるがままになっている。

 旺太郎は柚子にとっても弟同然とはいえ、もう中学二年生だし、身長だって柚子よりずっと高い。他の男が柚子に抱きついている絵面は見ていて面白いものではなかった。我慢の限界だったおれは、立ち上がると旺太郎の首根っこを掴んで柚子から引き剥がす。


「旺。柚子にベタベタすんな」

「ケチ。いいじゃん、朔太郎は普段もっとすげーことしてんだろ」

「してねーよ!」


 おれは声を荒げて否定した。これは嘘ではない。……いや、キスぐらいはしているので、厳密に言うと嘘になるかもしれないが……少なくとも、今旺太郎が想像しているようなことは、何もしていないはずだ。


「あ、もうこんな時間か。おれ、そろそろ部活行ってくる。じゃーな柚子、チョコありがと」

「旺くん、いってらっしゃい」

「朔太郎、柚子に変なことすんなよー」

「うるさい! しねーよ!」


 旺太郎は「するなら自分の部屋でしろよ」と言い残して、さっさと出て行ってしまった。おれと柚子だけが残されたリビングに、どことなく気まずい沈黙が落ちる。ややあって、柚子が小さな声で問いかけてきた。


「……へ、変なこと、しないの?」

「……しません」


 おそらく。たぶん。今のところは。

 柚子の隣に腰を下ろすと、彼女は待ちかねていたとばかりに身体を擦り寄せてくる。おれもようやく柚子を独り占めできて嬉しい。こてんと肩に頭を預けてきたので、腰に腕を回して抱き寄せた。


「あ、朔ちゃん。はいこれ、バレンタインのチョコレート」


 柚子は傍にある鞄からラッピングされた箱を取り出すと、おれに向かって差し出してきた。今日は二月十四日のバレンタインデー。柚子はおれにチョコレートを渡すために、ここにやって来たのである。

 おれは「ありがと」と言って、柚子からそれを受け取った。先ほど柚子が父さんや旺太郎に渡していたものより、どことなく高級感のある包みである。


「今年は何?」

「ピエールエルメパリかピエールマルコリーニにしようと思ったんだけど、ピエールルドンにしたの!」

「へー……」


 急に三人もピエールが登場したが、おれには違いがまったくわからない。おれがチョコレート業界のピエール率の高さに思いを馳せていると、柚子はおれの袖を引いて「早く開けて」と強請ってくる。彼女の魂胆を見抜いているおれは苦笑した。

 包装紙を剥がして四角い箱の蓋を開けると、宝石のようにつやつやと輝くチョコレートがよっつ。柚子は瞳を輝かせて「きゃーっ」とはしゃいだ声をあげた。


「はあ、素敵……かわいい……」


 チョコレートの可愛さは今ひとつ理解できないおれだが、チョコレートに夢中になっている柚子が可愛いことはわかる。おれはチョコレートをひとつ摘んで、柚子の口元に差し出した。


「はい、柚子」

「うっ。いいよ。朔ちゃんにあげたやつだから……」

「おまえ、そう言って毎年自分が食べたいの選んでくるだろ。わかってるんだからな」

「ば、バレてた」


 柚子は毎年おれにチョコレートをくれるが、大抵自分が食べたいものを渡してくる。結局ほとんどが自分の腹の中に入ることをよく知っているのだ。おれは柚子のそういうちゃっかりしているところが、結構好きだった。

 おれが「口開けて」と言うと、柚子は素直に従う。おずおずと開いた小さな口の中にチョコレートを放り込むと、柚子がうっとりと瞳を蕩けさせた。


「おいしい……舌が幸せ……」

「そりゃよかった」


 心の底から幸せそうな柚子を見れるバレンタインは、おれにとっても楽しい行事である。ふたつめのチョコレートを摘んで口元に差し出すと、柚子がさすがに申し訳なさそうな顔をした。


「さ、朔ちゃんも食べてね? よっつしかないんだから」

「全部柚子が食ってもいいよ」

「だ、だめだよ! わたしも食べたかったのは本当だけど、今年は彼女になってはじめてのバレンタインだから……ちゃんと朔ちゃんにも、食べて欲しい」


 そう言って柚子はおれの手からチョコレートを取ると、そのまま自分の口で咥えた。結局おまえが食うのかよ、と思っていると、そのまま「ん」と目を閉じる。チョコレートを咥えたまま真っ赤になっている柚子を見て、おれはたっぷり数秒固まってしまった。

 ……いやいやこいつ、こういうのどこで覚えてくんの。篠崎か? 充か? まさか、朝比奈王子じゃねーだろうな。

 残念ながら、ここまでされて何もせずにいられるほど、おれは聖人君子ではない。おれは柚子を抱きしめると、顔を寄せて柚子の唇からチョコレートを奪う。チョコレートを口の中に含むと、溶けて柚子の唇にくっついたチョコも舐めとった。甘くて柔らかい。


「んっ……」


 至近距離にある柚子の睫毛が震える。柚子の唇も声も吐息も香りも、チョコレートに負けないくらいに甘ったるい。柚子がもしお菓子だったら、おれが美味しく食べてやるのに。お菓子じゃなくてもいずれ食うけど、なんてことを考えて、おれはいやいやと首を振った。


「……お、美味しい?」

「……正直、味なんてわかんねーよ……」

「えー……高いんだから、ちゃんと味わって食べてね?」

「ん」


 了解、と返す代わりに再び唇を塞いだ。唇を何度か軽く食んだ後、あまりの柔らかさに我慢できず、隙間から舌を差し込んだ。腕の中にある柚子の身体が強張る。

 柚子と付き合い始めてから何度かキスをしたけれど、舌を入れるのは初めてだった。まだ早かったかな、と後悔していると、躊躇いがちに柚子の舌が伸びてきた。おずおずと動く舌を、逃すまいと絡めとる。

 腕の中にある柚子の力が次第に抜けていって、倒れ込んだ身体がソファに沈む。おれは彼女に覆い被さりながら口内を貪り続けた。「んっ……」という柚子の苦しげな声が響いて、おれの頭はどんどん麻痺していく。

 ――このまま全部、食べてしまいたい。

 ぎゅっと縋るようにシャツを握りしめられて、ようやく我に返った。


「……っ、ごめん」


 唇を離して解放すると、柚子は頰を紅潮させ、瞳を潤ませながらこちらを見上げている。はあはあと吐く息が荒く苦しげで、罪悪感が押し寄せてくる。「変なことをしない」と言ったそばから、がっつりキスをかましてしまった。

 柚子のことを大事にしたい、という気持ちは紛れもなく本物だ。その場の勢いだけで身体を重ねるなんてごめんだし、できる限り痛い思いも辛い思いもさせたくない。それでもこういうとき、おれは自分の中にあるどうしようもない嗜虐心を思い知らされる。可愛い柚子をいじめて泣かせて喜んでいた悪ガキのおれは、今もおれの中で成長し続けているのだ。

 柚子を抱き起こして座らせると、彼女は意外とケロッとした様子で「はあ、苦しかったあ」とこちらに寄りかかってきた。おれは柚子の背中を撫でてやる。


「……ばか、鼻で息すんだよ」

「そ、そうなの? ……朔ちゃん、詳しいね……」


 柚子が不満そうに、むーっと唇を尖らせた。もしかすると、また妙な勘違いをしているのだろうか。おれは柚子以外とこんなことをしたことないし、当然「いいカッコをしたい」がためにちゃんと予習している。しかしこればかりは、果たして予習が役に立つのかどうかわからない。……できるだけ、痛い思いはさせたくないとは思っているのだが。


「朔ちゃん? どうしたの?」

「……なんでもない」


 おれは誤魔化すように、柚子の小さな口にチョコレートを押し込む。幸せそうに目を細めて笑った柚子は、世界で一番可愛い。他でもないおれ自身が、この笑顔を曇らせてなるものか。

 最後にひとつ残ったチョコレートを、柚子が手に取る。「残さず食べてね」と言って、再びチョコレートを口に咥えた。先ほどと同じように目を閉じた柚子に、おれは溜息を噛み殺す。無防備に誘ってくる可愛い幼馴染を残さず食べてやりたいのはやまやまだが、それはもう少しだけ未来の話だ。

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