持ち物には名前を書きましょう
明け方まで降り続いていた雨が嘘のように、空は清々しく晴れ渡っていた。雨を吸い込んだグラウンドは多少ぬかるんでいたけれど、そんなことはお構いなしに生徒たちは全力で駆け回っている。ちょっと派手めな男の子が盛大に転倒して泥だらけになっていて、どっと笑い声が起こった。
本日は我が校の体育祭だ。わたしはあまり運動が得意ではないので、申し訳程度の競技にしかエントリーしていない。本日のわたしの役目は既に終了して、観覧席の一番後ろでクラスメイトの応援をしている。応援といっても大きな声を出したりはしないので、さっきから控えめに拍手をしているだけだ。
体育委員である朔ちゃんは、今日一日忙しく動き回っているみたいだ。朝は一緒に登校してきたけれど、すぐに知らない女の子に引っ張っていかれて、それきりまともに話もできていない。お昼ごはんくらいは一緒に食べたかったのになあ、とわたしは溜息をつく。
「……最近ね、朔ちゃんの様子がおかしいの」
わたしがポツリと呟くと、隣で「いけー! やれー!」と叫んでいた茉由ちゃんが、首を回してこちらを向く。
「おかしいって、どんな風に?」
「なんかね、すごく……優しい」
茉由ちゃんは肩を竦めて、呆れたように言った。
「……高辻が柚子に優しいのって、めちゃくちゃ通常運転じゃない? たしかに異常に優しいけど、あいつの場合異常なのが正常だよ」
たしかに茉由ちゃんの言う通り、朔ちゃんはいつだってわたしに優しい。だけれども、最近の朔ちゃんの優しさは、今までのものとは種類が違う気がするのだ。うまく言えないけれど、わたしに触れる手とか、わたしを見つめる瞳から、温かくて柔らかな感情が滲み出ている気がする。
身振り手振りを交えながらそんなことを説明してみたけれど、茉由ちゃんには「それって具体的に、普段とどう違うの?」と言われてしまった。わたし自身よくわからないので、「……わかんない」と答えるしかなかった。
「あ。私部活対抗リレー出るから、そろそろ行ってくるね」
「うん、がんばってね」
小走りで駆けていった茉由ちゃんを見送って、わたしは再び正面に向き直る。わあっと湧き上がる歓声を、どこか他人事のような気持ちで聞いていた。みんなと同じ場所にいるはずなのに、なんだか別の世界の出来事のように思える。
「柚子」
後ろから名前を呼ばれて、わたしは振り向く。いつのまにかわたしの椅子の後ろに隠れるようにして、朔ちゃんがしゃがみこんでいた。いわゆる「ヤンキー座り」みたいな体勢で、あんまりガラが良くない。
「さ、朔ちゃん。どうしたの?」
「しっ。今誰にも見つかりたくないから静かにして」
朔ちゃんに言われて、わたしは慌てて両手で口を塞ぐ。小声でもう一度「どうしたの?」と尋ねると、朔ちゃんははーっと深い溜息をつく。
「朝からすげー忙しくて……つっかれた。今休憩中」
「そ、そうなんだ……大変だね、おつかれさま。クラス戻らなくてもいいの?」
「いい。捕まるとめんどくさいから」
「誰に捕まるの?」
「…………」
わたしの質問に、朔ちゃんは答えなかった。朔ちゃんが着ているクラスTシャツの背中に、でかでかとピンクのハートマークが書いてあるのを見て、わたしの胸はちくりと痛む。もしかして、プールで会ったきれいな女の子が書いたのだろうか。
「……朔ちゃん、モテモテだね……」
「え? いや、あ、これは違っ……別に、そういうんじゃねーから。なんか、勝手に書かれただけで」
わたしの視線に気付いたのか、朔ちゃんは慌てたように背中を隠した。別に責めるつもりはなかったし、責める権利があるはずもないので、「よかったね」と無理やり笑顔を作って見せる。
そういえば昔、朔ちゃんが文字を覚えたての頃、わたしのほっぺたに黒いクレヨンで「さくたろう」と名前を書かれたことがある。わたしが泣いていると、「だって、じぶんのものにはなまえをかくんだろ」と悪びれた様子もなく言っていた。
そんな思い出話をすると、朔ちゃんはちょっと気まずそうに目を泳がせた。
「……おまえ、そんな古い話よく覚えてんなー」
「クレヨン、なかなか落ちなかったから……」
「そういや、おばさんに死ぬほど怒られた気がする。……おれ、あのとき柚子のこと自分の子分みたいに思ってたからなー」
朔ちゃんはちょっと微妙な表情を浮かべて、ジャージのズボンのポケットから油性ペンを取り出した。「はい」と言って手渡される。
「え」
「柚子もなんか書いていいよ」
「ええ……な、何書こうかな」
わたしはうんうん悩んだ結果、Tシャツの肩のあたりに果物の柚子の絵を描いた。絵だけだと伝わるか心許なかったので、隣に小さく「ゆず」と書いておく。朔ちゃんは怪訝そうな顔でそれを見つめる。
「なにこれ。リンゴ?」
「ゆ、柚子って書いてあるでしょ」
「あ、そういうことか。名前かと思った。おまえ、相変わらず絵ヘッタクソだなー」
朔ちゃんが楽しそうにケタケタと笑ったので、わたしは恥ずかしくなって俯いてしまう。わたしの美術の成績は今ひとつだし、かわいいイラストを描くセンスも持ち合わせていない。
「柚子って、こういう感じだろ」
朔ちゃんはわたしから油性ペンを奪い取ると、わたしのTシャツの袖に何やら書き込み始めた。果物の柚子のイラストだ。悔しいけれど、わたしよりも数段上手い。
「朔ちゃん、上手だね」
「だろ? 特別サービスでサインもしといてやろう」
得意げにそう言った朔ちゃんは、柚子のイラストの横に「さくたろー」と書き殴った。油性ペンをポケットにしまった朔ちゃんは、代わりにスマホを取り出して「あー、もうこんな時間か」と呻く。
「おれ、そろそろ行ってくる」
「うん。じゃあね」
「帰り、片付けとかあるから遅くなると思うけど……」
「ま、待っててもいい?」
朔ちゃんは立ち上がると、「待ってて」と言ってぐしゃりとわたしの髪を撫でた。その手つきから滲み出る温かさに、わたしの胸はぎゅっと締めつけられる。やっぱり、今までとは何かが違う。たぶんそれは勘違いじゃない。
わたしがぼうっとしているうちに、部活対抗リレーを終えた茉由ちゃんが戻ってきた。わたしの袖に書かれたイラストに目敏く気付いて、「なにこれ」と目を丸くしている。
「これ、朔ちゃんに書かれたの」
「うわほんとだ、名前書いてある……あんたら、またバカップルみたいなことして」
「そ、そんなんじゃないよ」
そのとき、「まもなくクラス対抗リレーを行います。参加者の方は集まってください」というアナウンスが流れた。クラス対抗リレーは体育祭の一番の目玉である。うちのクラスのアンカーは葛巻くんで、女子の歓声と男子のブーイングを受けながら待機列へと走っていった。葛巻くんは女子にはモテモテだけど、男子からのウケは著しく悪いみたいだ。
七組の朝比奈くんもリレーに出るらしく、葛巻くんのときの三倍くらいの歓声がここまで聞こえてきた。朝比奈くんは男子からも人気がある。それにしても、あの人運動神経まで良いんだなあ。ますます非の打ち所がない。
「あ。高辻走るみたいよ」
待機列を見ていた茉由ちゃんが、わたしの袖を引いた。茉由ちゃんの視線の先には、面倒臭そうに立っている朔ちゃんの姿がある。そういえばこのあいだ、「リレーの選手を押しつけられた」と愚痴っていた。
朔ちゃんと朝比奈くんは同じ第三走者らしい。二人とも、運動部に入っていないのに選ばれるなんてすごい。朔ちゃんは中学の頃、サッカー部だったけど。そういえば、朔ちゃんはサッカーもものすごく上手かった。
「……ま、茉由ちゃん。わたし、近くで見たいなあ」
「おけおけ。じゃ、移動しよっか」
茉由ちゃんはわたしの手を引いて、「はいはいごめんなさいよー」と人波を掻き分けてずんずん前に進んでいく。さすがは茉由ちゃんだ、わたし一人だとこうはいかない。
積極的な茉由ちゃんのおかげで、一番前までやって来ていた。第三走者を見ようと思ったら、ここが一番の特等席だ。周りには朝比奈くんのファンらしい女の子がスマホを構えていた。
待機列に立っている朔ちゃんは朝比奈くんに何事かを話しかけられて、心底嫌そうな顔をした。チッと舌打ちをする音さえ聞こえてきそうだ。
「……あ。高辻くんの幼馴染の……蓮見さん?」
わたしにそう声をかけたのは、朔ちゃんのクラスメイトであるきれいな女の子だった。そういえば、わたしは彼女の名前を知らない。ぺこりと頭を下げると、ふいと視線を逸らされた。
「高辻くん、がんばってー!」
大きな声でそう叫んだ彼女を、茉由ちゃんは横目でギロリと睨みつける。茉由ちゃんとはあんまり相性が良くなさそうなタイプだ。
「ほら、柚子も高辻のこと応援しなよ。私は絶対嫌だけど」
「で、でもクラス違うし……」
「何言ってんの。ここにいる女子だって、ほとんど朝比奈くんのこと応援してんでしょ。ほら叫ぶ!」
「さ、さくちゃん、がんばれー……」
「声が小さい! もっと腹筋に力を入れて、腹の底から声を出して!」
「が、がんばれ……!」
鬼軍曹と化した茉由ちゃんにどやされていると、ふいに朔ちゃんがこちらを向いた。ぱちりと目が合ったそのとき、朔ちゃんが拳でTシャツの肩のあたりをトンと叩く。わたしが描いた柚子の絵がある場所だ。胸がきゅんと高鳴って、わたしもTシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
視線を感じて横を見ると、朔ちゃんのクラスメイトの女の子が冷ややかな目でこちらを見ていた。わたしはひゅっと息を飲んで身を縮こませたけれど、ぐっとおなかに力を込めて「が、がんばれ!」と叫んだ。
リレーが終わり、王子様の勇姿をスマホカメラに収めた女子たちは一瞬で散り散りになっていった。朔ちゃんの活躍の甲斐もあり、一位になったのは朔ちゃんのいる三組だった。朝比奈くん目当てで集まった女の子が「高辻くん、やっぱかなりイケてるよね」と噂しているのが聞こえてきて、わたしはハラハラしてしまう。
「高辻って、めちゃめちゃ足速いよねー」
「う、うん」
「そういやサッカー部だったっけ。たしか結構上手かった気がする」
「そうだね……」
茉由ちゃんの言葉に、わたしは曖昧に頷く。中学時代の朔ちゃんはサッカー部のレギュラーだっだし、三年生の頃はキャプテンもやっていた。高校に入ってからも、中学時代のチームメイトから何度もサッカー部に勧誘されていたのを知っている。それでも朔ちゃんは「おれ、部活には入らねーから」と一蹴していた。
「高辻くん、あんなに足速いのに、なんで部活に入らなかったの?」
背後から聞こえた声に、わたしはびくっと肩を跳ねさせた。おそるおそる振り返ると、朔ちゃんのクラスメイトが怖い顔で腕組みをしている。わたしは反射的に、茉由ちゃんの後ろに隠れてしまった。わたしの代わりに茉由ちゃんが答える。
「知らないよ、そんなの。高辻の勝手でしょ」
「蓮見さんがいるからじゃないの?」
鋭く切り込まれて、わたしはギクリとした。おそらく、彼女の指摘は正解だ。中三の頃にわたしが変質者に遭遇してから、朔ちゃんは欠かさずわたしと登下校を共にするようになった。もし部活をしているなら、そういうわけにもいかない。
「なんで高辻くんにそこまでさせるの? よく平気な顔してられるよね」
「ちょっと! 別に柚子が強制してるわけじゃなくて、高辻が勝手にやってることでしょ」
「ま、茉由ちゃん……」
「あなたのせいで、高辻くんはしなくてもいい我慢してるんじゃない?」
そう吐き捨てると、彼女はサラサラの黒髪を靡かせて去っていった。茉由ちゃんは「何よ、あれ!」と憤慨していたけれど、わたしは俯いて下唇を噛み締めることしかできない。
――もし、わたしがいなかったら。朔ちゃんはもっと自由に、いろんなことができていたのかな。
わたしは分厚い前髪の上から、傷跡にそっと触れる。こんなくだらない傷ひとつで朔ちゃんを縛りつけて、本当にいいんだろうか。
――わたしは朔ちゃんのことを、自分のワガママで、所有物にしようとしている。
朔ちゃんの肩に書いた小さな柚子のイラストを思い出す。だって自分のものには名前を書くんだろ、という小さな朔ちゃんの声が頭に響いて、わたしの胸はずきりと痛んだ。
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