離さないでいて
普段寝起きの悪いわたしが、珍しくアラームが鳴る前に目を覚ました。ベッドから跳ね起きて、うーんと伸びをしてからカーテンを開く。きらきらとした朝の日差しが降り注いで、心地良かった。
ふわあ、と大きな欠伸をしたところで、窓の向こうからわたしを見ている視線に気付く。窓を開けると、ニヤニヤ笑いを浮かべた朔ちゃんがひらひらと手を振っている。
「さ、朔ちゃん。おはよう!」
「おはよ」
「今日楽しみだね」
「うん。後で迎えに行く」
朔ちゃんがそう言ったので、わたしは大きく頷いて窓を閉めた。階下に降りて洗面所の鏡を見るとひどい寝癖で、頭がまるでコントのように大爆発していた。どうしよう、朔ちゃんにこんなみっともない頭を見られてしまった! 今日はがんばっておしゃれしようと思ってたのに!
しかし、落ち込んでいる暇はない。八時には朔ちゃんが迎えに来るのだ。わたしは気を取り直すと、顔を洗ってヘアアイロンで寝癖を直し始めた。
手強い寝癖になんとか勝利したところで、マスカラとチークを軽く塗ってみる。前に茉由ちゃんからプレゼントしてもらったのだけれど、使うのは初めてだ。じっと鏡と睨めっこしながら、大丈夫変じゃない、と自分に言い聞かせる。
鏡に映る自分を見つめながら、分厚い前髪を軽く引っ張ってみた。わたしの前髪は常に、ギリギリ目にかからない程度の長さをキープしている。ふと思いついて、斜めに分けてヘアピンで留めてみた。
額にまっすぐ、縦に入った小さな傷がある。昔はもっとくっきり残っていたけれど、成長するにつれてどんどん薄くなっていて、今ではもうほとんどわからない。上からお化粧でもしてしまえば、きっと完全に見えなくなってしまうのだろう。そうすればもう、朔ちゃんがわたしに罪悪感を抱く必要はなくなる。
わたしはヘアピンを取ると、分厚い前髪でしっかりと傷跡を隠した。もうほとんど消えかかっていることに、朔ちゃんが気付かないように。
昨夜のうちに用意していたニットとロングスカートに着替えると、インターホンが鳴り響いた。玄関まで走って扉を開けると、長袖のシャツにパーカーを羽織った朔ちゃんが立っている。
「おはよう」
「準備できた?」
「う、うん。いってきまーす」
リビングに向かってそう言うと、「いってらっしゃーい」という声が返ってくる。スニーカーを履いて外に出ると、朔ちゃんと並んで歩き出した。
「あっ、電車の乗り換えとか調べてくるの忘れてた……」
「おれ、ちゃんと調べてるから大丈夫。柚子はついてきてくれればいいよ」
「いつもごめんね……ありがとう」
やっぱり朔ちゃんはすごい。そう言って尊敬の目で見上げると、朔ちゃんはちょっと得意げに笑って、自然とわたしの手を取った。
遊園地に行こう、と誘ってくれたのは朔ちゃんの方からだった。
聞けば朔ちゃんのお父さんが職場の人からチケットを貰ったらしく、「柚子ちゃんと行ってきなさい」と朔ちゃんに渡されたらしい。おじさんはわたしのことを目に入れても痛くないくらい可愛がっていて、「こんな娘が欲しかった」と何度も言われたことがある。
朔ちゃんは電車の乗り換えにも動じることなくわたしを引っ張っていって、目的地へと無事に到着した。まだ開園時間になっていないのに、巨大な門の前にはたくさん人が並んでいる。わたしが並ぼうとすると、朔ちゃんはわたしの手を軽く引いた。
「柚子、そっちチケット売り場だろ。おれらチケット持ってるんだからこっち」
「え、あ、うん。わかった」
遊園地には小さな頃に何度か来たことがあるけれど、来るのはずいぶん久しぶりだ。キョロキョロと周りを見回すと、それぞれ頭にオオカミの耳をつけたり、首からウサギのチケットホルダーを下げたりしていた。この遊園地のキャラクターは、オオカミの男の子・ジョナサンとウサギの女の子・エミリーなのだ。入り口の横にはグッズ売り場がある。
「……なに? 耳つけたいの?」
わたしの心を読んだかのように、朔ちゃんが言った。わたしが頷くと、朔ちゃんは「わかった」とグッズ売り場へと歩いていく。
店内に入ると、ずらりと吊るされたカチューシャのコーナーがあった。わたしは少し悩んで、オオカミの耳がついたものを手に取る。
「え? そっち?」
怪訝な顔をした朔ちゃんに、わたしは首は横に振る。
「ううん……こっちは朔ちゃんの」
「お、おれもつけんの?」
「おそろいがいい……だめかな? わたしが買うから」
朔ちゃんはちょっと目を泳がせたけれど、覚悟を決めたように「わかった」と答えた。やっぱり、朔ちゃんはわたしのお願いを断らないのだ。朔ちゃんはウサギのカチューシャを手に取る。
「じゃあこっちはおれが買う。……お揃いにするんだろ」
嬉しくなったわたしは、笑って頷いた。グッズ売り場の外に出て、二人でカチューシャをつける。オオカミの耳をつけた朔ちゃんがかわいくて、わたしは興奮気味に何枚も写真を撮ってしまった。朔ちゃんはさすがに恥ずかしいらしく「そろそろ開くから入るぞ!」とそっぽを向いてしまう。照れている朔ちゃんもかわいい。
おそろいのカチューシャをつけたわたしたちは、どちらからともなく手を繋いで歩き出す。オオカミのジョナサンとウサギのエミリーは、とてもお似合いの仲良しカップルなのだ。
巨大な門をくぐると巨大な噴水があって、外国の街並みを模した建物が目の前に現れる。噴水の飛沫が降り注ぐ陽の光を跳ね返して、キラキラと光っていた。どこからともなく愉快な音楽が流れてきて、わたしの心はうきうきと浮き上がっていく。
「柚子、どれから乗る?」
ちゃっかりと入り口で地図を手に入れていた朔ちゃんが、わたしに向かってそれを広げてくれる。「これは? 柚子の好きそうなやつ」と言って指差したのは、ストーリー仕立ての室内型アトラクションだった。朔ちゃんはやっぱり、わたしの趣味を熟知している。
方向音痴のわたしが明後日の方向に歩き出すのを軌道修正しながら、朔ちゃんはわたしをエスコートしてくれる。なんだかやけに園内の地理を熟知しているし、ショーの時間なんかもしっかり把握している。もしかして、最近誰かと来たことがあるのかな……なんて、余計なことを考えてしまった。
朝一番だというのに園内はかなり混雑していて、わたしたちが乗ろうとしたアトラクションは三十分待ちだった。暗い洞窟のような場所を少しずつ進んでいく。二人で行列に並びながら、わたしはポツリと呟いた。
「……朔ちゃん、なんだかすごく詳しいね」
責めるつもりはないのだけれど、ついしょんぼりした声になってしまう。朔ちゃんはぎょっとした顔をして、わたしの顔を覗き込んできた。
「え、なに? もしかしてキモかった?」
「う、ううん! 全然そんなことない……けど、最近、誰かと来たのかなあと思って……」
「おれ、ここ来んのガキのとき以来だよ。あのとき、柚子もいただろ」
「う、うん」
まだ旺くんがまともに喋れないくらいに小さい頃、わたしの家族と朔ちゃん一家でここに来たことがある。朔ちゃんは遠い目をしながら、当時のことを思い出しているみたいだ。
「そういや柚子、これ乗ったときに暗くて怖いっつってビービー泣いてたな」
「そ、そうだったっけ……」
あまり覚えていないけれど、そんなこともあったかもしれない。当時のわたしは「おばあちゃんの家にある壁の染みが怖い」って言って泣き出すような子どもだったから、充分ありえることだ。
朔ちゃんが突然わたしの手を取って、ぎゅっと強く握りしめる。わたしが「な、なに?」と言うと、唇の端をちょっと上げて笑った。
「柚子、あんとき『怖いからずっと手繋いでて』って言ってたから」
「今はもう怖くないよ……」
「わかってるよ」
わかってる、と言いながらも朔ちゃんはわたしの手を離さない。朔ちゃんの中のわたしは、あの頃からちっとも成長していないのかもしれない。
……このまま頼りなくて泣き虫の柚子のままでいれば、朔ちゃんはわたしのことをずっと守っていてくれるのかもしれない。でも、本当にそれでいいのかな。
正体不明の不安がじりじりと胸に迫る。底のない沼にズブズブとはまっていくのはわかっているけれど、温かくて心地良くて抜け出したくない。わたしは朔ちゃんの手を握り返すと、「離さないでね」と小さな声で囁いた。
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