「好きだよ」

「入院なんて、旺を産んだとき以来だわー。病院のごはんって、そんなにまずくないわねえ」

「なにのんきなこと言ってんだよ、こっちは心臓止まるかと思ったんだぞ」

「ごめんね、心配かけちゃって」


 朔ちゃんのお母さんは、そう言ってカラカラと明るい笑い声をたてた。ベッド脇のパイプ椅子に座った朔ちゃんは、呆れた顔でお見舞いのリンゴを剥いている。


「朔ちゃん、皮もきれいに剥いてね」

「うるせー。注文が多い」


 そう文句を言いながらも、朔ちゃんは丁寧にリンゴの皮を剥いてあげていた。朔ちゃんは、わたしと違ってかなり器用だ。

 朔ちゃんのお母さんが突然倒れて病院に運ばれてから、二日経った。無事に手術も終わり、明日には退院できるらしい。幸いなことに、後遺症もほとんど残らないみたいだ。ニコニコと笑っているおばさんの顔を見て、ひとまずわたしはほっとした。


「柚子ちゃん、迷惑かけたみたいでごめんね」

「う、ううん……わたしは全然」

「救急車も、柚子ちゃんが呼んでくれたんだって? しっかりしたお嬢さんだって、病院の方が褒めてたわよ」


 日頃ぼんやりしている頼りないわたしが、しっかりしている、だなんて褒められ方をしたのははじめてだ。あのときは必死で、自分が何をしていたかもあんまり覚えていないのだけれど。照れて前髪を弄っていると、朔ちゃんからリンゴの乗ったお皿を差し出される。


「はい。柚子のぶん」

「わ、わたしはいいよ。おばさんのお見舞いでしょ」

「いいのよ、どうせ一人じゃ食べきれないから」


 受け取ったリンゴは、皮の部分に切り込みが入ってウサギの形をしていた。「わあ、かわいい」と頰を綻ばせると、おばさんがニヤニヤしながら朔ちゃんを小突く。


「なにー? 柚子ちゃんだけ特別仕様?」

「綺麗に皮剥けって言ったのは母さんだろ」

「ほんと朔ちゃんってば、柚子ちゃんのこと大好きなんだからー」

「お、おばさん……」


 からかうようなおばさんの言葉に、わたしはリンゴと同じくらいに真っ赤になってしまった。朔ちゃんの顔をチラリと盗み見ると、涼しげな切れ長の瞳がじっとこちらを見つめていた。


「そうだよ」


 あっさりとそう答えた朔ちゃんに、わたしの心臓が大きく跳ねる。朔ちゃんの「好き」はそういう意味ではないと、わかってはいるのだけれど。動揺を誤魔化すようにリンゴに齧りつく。甘くてみずみずしくて、おいしかった。わたしがリンゴを食べ終わるのを待って、朔ちゃんは立ち上がる。


「じゃあ、おれたちそろそろ帰る。明日、父さんと一緒に迎えに来るから」

「うん。旺太郎にもよろしくねー」


 わたしはぺこりと頭を下げて、病室を後にした。病院の廊下を朔ちゃんと並んで歩く。お医者さんや看護師さん、患者さんが行き交う病院の中で、制服姿のわたしたちはちょっとだけ浮いている。出口と反対方向に歩き出そうとしたわたしの腕を掴んだ朔ちゃんは、「柚子、こっち」と苦笑した。

 病院を出ると、二人で並んでバス停のベンチに座った。五分ほど待てば次のバスが来るみたいだ。太陽は山の向こうに隠れてしまって、空の色はピンクと水色のグラデーションで不思議な色に染まっていた。


「柚子」

「うん?」

「……母さんのこと。いろいろ、ありがとな。おれ、柚子がいなかったら全然何もできなかったと思う」


 ひやりと冷たい風が吹き抜けて、朔ちゃんの黒髪が揺れる。わたしは「そんなことない」と答えながら、あのときの朔ちゃんの姿を思い出す。

 不安と恐怖に怯えている朔ちゃんを見た瞬間、わたしは思わず彼を抱きしめていた。わたしよりもうんと大きな朔ちゃんは、小さなわたしに縋りついて震えていた。


 ――そばに居て欲しい。


 いつも冷静でかっこよくて余裕のある朔ちゃんだって、ごくふつうの十六歳の男の子だ。朔ちゃんが辛くて不安で大変なときに、わたしがそばに居てあげることができてよかった、と思う。普段は守られてばかりだけど、わたしも少しは朔ちゃんの役に立てたかな。


「ああいうとき、誰かが近くに居てくれるだけでちょっとでも安心できるもんね。わ、わたしでよければ、いくらでも」

「いくらでも?」

「……さ、朔ちゃんの……そばに居る」


 わたしがそう言うと、朔ちゃんは「サンキュ」と優しく笑ってくれる。その笑顔にどぎまぎして視線を逸らした瞬間に、「へくしょん」と間抜けなくしゃみが出た。昼間はまだ暖かいけれど、日が落ちると結構冷え込む。


「寒い?」

「うん、ちょっとだけ」


 頷くと、ふいに肩を抱き寄せられた。ぴたりと朔ちゃんの身体が密着して、心臓の鼓動がどくどくと早くなる。朔ちゃんはなんだかやけに嬉しそうな顔で、わたしの顔を覗き込んだ。


「柚子、あったかいな。子ども体温だ」

「こ、子ども扱いしないで……」


 もしわたしが本当に小さな子どもならば、至近距離で囁かれる声にこんなにもドキドキしたりしない。頰に押しつけられた制服から漂う香りをどうしようもなく意識してしまうのは、わたしに朔ちゃんに対する下心があるからだ。朔ちゃんは親切でしてくれているのに、と恥ずかしくなる。

 それにしても、ここ最近の朔ちゃんはわたしにあまり触れたがらなかったのに、一体どういう風の吹き回しなんだろう。不思議に思って横顔を盗み見ると、朔ちゃんは「あったけー」と無邪気に笑っていた。





 母のいない自宅は、想像以上に静かだった。父はもともと口数の多い方ではないし、おれと旺太郎もそれほど騒がしいタイプではない。明るい性格の母は、おれたちの反応に関わらず一人で楽しそうに喋っていた。

 いつもより早めに仕事を切り上げた父が夕食を作ってくれて、おれが後片付けをした。専業主婦だった母がいなくなると、何がどこにあるのかもよくわからない。退院してきても無理は禁物だろうし、おれも少しは家事に慣れておいた方がいいだろう。旺太郎はおれと違って部活もしているし、あまり負担をかけたくない。

 風呂から出ると、持ち帰った仕事をしている父に声をかけてから、自室へと向かった。窓の外を見ると、柚子の部屋の電気が点いているのが見える。時刻はまだ二十二時だし、まだ眠るには早いだろう。カーテン開けて顔出してくんねーかな、と思って、自嘲気味に笑った。

 ふと思いついて、スマートフォンを取り出すと発信ボタンをタップする。独特なコール音が数回鳴った後、『朔ちゃん?』という柚子の声がする。おれは向かいの窓を見つめたまま、「よお」と答える。


『どうしたの? 電話くれるなんて珍しいね』

「なんとなく、柚子の声が聞きたくなって」


 ついでに顔も見たくなったので、おれは「カーテン開けて」と強請ってみる。すぐに部屋のカーテンが開いて、パジャマ姿の柚子が顔を出した。嬉しそうに表情を輝かせて、ぶんぶん手を振っている。おれは小さく手を振り返してやった。


『おばさん居なくて、おうちのこととか大丈夫?』

「うーん、まあ……なんとかやってる。父さんもいるし」

『わたしに手伝えることがあったら言ってね。あ、あんまり役に立てないかもしれないけど……』

「いいよ。柚子はそのままで」


 そばに居てくれるんだろ、と言うと、窓の向こうにいる柚子が『うん』と微笑むのが見える。てのひらで窓ガラスに軽く触れてみると、ひやりと冷たかった。

 屋根を伝っていけば、たぶんこのまま柚子のところに行けるのだろう。今まで試してみたことはないけれど、ちょっと試してみたい気もする。そんなことをしたら、柚子の母さんにこっぴどく叱られてしまうだろうか。


『おやすみ、朔ちゃん。また明日ね』


 耳をくすぐる柚子の声が心地良い。ずっと聞いていたかったけれど、おれは「おやすみ」と言って電話を切った。通話が終わっても柚子はなかなかカーテンを閉めずに、いつまで経っても窓越しにこちらを見ていた。


 ――ほんと朔ちゃんってば、柚子ちゃんのこと大好きなんだから。


 ……ああ、そうだよ。おれは柚子のことが好きだ。幼馴染としてだけではなく、一人の女の子として。柚子に抱きしめられたあのとき、どうしようもなく思い知らされた。

 本当はずっと、わかっていた。おれが彼女に抱いている感情が、罪悪感だけではないことくらい。自分の気持ちに蓋をして、気付かないふりをしてきただけだ。朝比奈の言う通り、おれは柚子のことを他の誰にも渡したくなかった。くだらないおれの罪滅ぼしのために、黙っておれに守られていてくれる柚子が好きだった。


「……好きだよ」


 おれの口が動いたのに気付いたのか、柚子は耳に手を当てて首を傾げた。「なんて言ったの?」とでも言っているのかもしれない。おれは笑って、「早く寝ろ」とばかりにしっしっと手を振ってやった。

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