そばに居て欲しい
その日は、普段と少しも変わらない朝だった。
父が一週間の出張に行っており、家にいるのは母と弟だけだった。弟は朝練があるのか、朝食もそこそこに「いってきまーす」とリビングを飛び出して行った。
おれは食パンをトースターで焼いて、バターとジャムを塗って食べた。手早く身支度を整えて、いつものように柚子を迎えに行こうとする。玄関でスニーカーを履いているときに、母さんに「朔ちゃん、ゴミ捨ててきてー」とゴミ袋を押しつけられた。おれは面倒だなと思いながらもゴミを受け取って、母の顔もろくに見ずに家を出た。
隣家のインターホンを押すと、柚子の父さんが顔を出して「悪いなあ。あいつ、また寝坊して」と苦笑した。おれは軽く頭を下げてから、家の前で待たせてもらうことにする。
「お、おはよう、朔ちゃん。ごめんね」
重そうな鞄を抱えた柚子が、慌ただしく家から出てきた。先週から衣替えをして、長袖のセーラー服を着ている。後頭部に寝癖がついていて、黒髪がぴょこんと跳ねていた。おれは跳ねたところを軽く指でつまむ。
「柚子、寝癖ついてる」
「わ、わかってるよう。直す暇なかったの。目立つ? 変かな?」
後頭部を気にしながら、柚子がしょんぼりと眉を下げる。少し気にはなったが、もともと癖毛なのでそこまで目立たない。「大丈夫だろ」と言ってやると、柚子はほっと頰を緩めた。ふわふわの髪から甘い香りがして、慌てて手を引っ込める。無遠慮に柚子に触ってしまうのは、おれの悪い癖だ。
「……悪い」
「う、ううん。い、行こっか」
柚子はさっと目を伏せると、足早に歩き出した。とはいっても、おれに比べると全然歩くのが遅い。おれは柚子の半歩後ろについて、ぴょこぴょこ跳ねる寝癖を見つめていた。
どうにも最近、柚子の態度がよそよそしい気がする。おれに遠慮をしているのか、「迎えに来なくていいよ」「先に帰っててね」と言われることも増えた。おれはそれを無視し、毎日のように柚子と登下校を共にしている。
――そうやって朔ちゃんが柚子のこと甘やかすの、あの子のためにもならないと思うの。あの子もいい加減自立して、朔ちゃん離れしなきゃ。
おばさんの言葉が脳裏に蘇る。もしかすると柚子は、おれから自立しようとしているのかもしれない。それはきっと喜ばしいことなのだ。それならおれは、柚子の手を離さなければならない。
交差点に差しかかったそのとき、歩行者信号が赤に変わった。おれは反射的に柚子の腕を引いて、こちらに引き寄せる。華奢な身体がぽすんとおれにもたれかかってきた。猛スピードのバイクが目の前を駆け抜けていく。
「……ありがとう、朔ちゃん」
顔を上げた柚子が、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。掴んだ腕は折れそうなほど細く、おれの手で簡単に一回りしてしまう。
……いつまで柚子は、こうしておれに「守られて」くれているのだろうか。柚子は小さな子どもではないのだから、いつまでもこうして腕を掴んでやる必要もない。
おれは柚子の腕から手を離すと、「急ごう。遅刻する」と言って、足早に歩き出した。
嫌な予感、だとか、不吉の前兆、だとかそんなものは何もなかった。人間の第六感なんてものは、きっと存在しないのだとおれは思う。
おれは授業が終わると柚子を教室まで迎えに行って、一緒に電車に乗って、駅からの道を並んで歩いた。柚子の口数は少なかったけれど、ここ最近はずっとそうだ。おれの方も柚子との距離感を測りかねており、おれたちのあいだにはなんとなく気まずい雰囲気が流れている。
お互いほぼ無言のまま、家の前に着いた。柚子はぴたりと足を止めると、思い出したように口を開く。
「……そういえば。わたし、朔ちゃんに帽子返してない」
「帽子?」
「夏休みにプール行ったとき……貸してくれたよね」
「あー」
そういえば黒のキャップを貸してやった気がするが、そんなことすっかり忘れていた。「いつでもいいよ」と言ったけれど、柚子は「忘れそうだから、後で持っていくね」と言って家の中に入っていく。別にそんなのすぐ使うものでもないし、わざわざ返してくれなくてもいいのに。
おれは扉に手をかけて引くと、玄関に入って「ただいま」と声をかけた。返事はない。鍵はかかっていなかったから、母はいるはずなのだが。
スニーカーを脱いでリビングへと向かう。電気が点いているということは、うたた寝でもしているのだろうか。リビングの扉を開くと、スリッパを履いた足が見えた。そこでおれははじめて、ざわざわという胸騒ぎを覚える。心臓が喉元までせり上がってくるような感覚。
リビングに踏み込んだおれの目に飛び込んできたのは――フローリングの上にうつ伏せに倒れ込んでいる、母の姿だった。
「……母さん?」
どう考えても、昼寝をしている、だなんて体勢ではない。おれは母さんに駆け寄ると、軽く身体を揺さぶってみた。力なく横たわった身体は、何の反応もない。
「おい、母さん! 母さん!?」
ただごとではないと理解した途端に、全身が総毛立った。頭の中が真っ白になる。そういえば一ヶ月ほど前から、母はあまり体調が良くなさそうだった。ひどい頭痛がすると言って寝込む日もあって――大したことはないと言っていたけれど、もしかして何か病気だったのか? 全然、気付かなかった。気付いてあげられなかった。
呆然としていると、ピンポーン、という音が響いた。インターホンの音だということは認識できたけれど、おれの身体はピクリとも動かない。数秒してから、再びインターホンが鳴らされる。しばらくののち、ガチャンと玄関の扉が開く音がした。
「……お、おじゃまします……朔ちゃん、いるの?」
柚子の声だ。ぺたぺたという足音がする。背後から、柚子が息を呑む気配がした。おれは振り向くこともできず、ただただ横たわる母さんの身体を見下ろしている。
「お、おばさん……!」
駆け寄ってきた柚子が、母さんの手を掴む。柚子はおれの顔を覗き込むと「何があったの?」と尋ねてきた。そこでようやく、停止していたおれの脳はゆるやかに回転を始める。
「帰ってきたら、母さんがここで倒れてて……」
「おじさんは?」
「出張中……」
「と、とにかく、救急車呼ぼう」
柚子はおれの手を取って、母さんの手首に持っていった。おれを励ますように「大丈夫、脈はちゃんとあるよ」と言ってくれる。指先にとくとくと血液の流れを感じて、おれはほんの少し安堵した。
柚子はスマートフォンを取り出して、いつのまにか救急車を呼んでくれていた。おれは身動きも取れず、ただただ母さんの手首を握りしめている。カチカチと歯が鳴る音が聞こえて、そこでようやく自分が震えていることに気がついた。
「朔ちゃん。すぐ救急車来るから」
それからしばらくして救急車が到着して、あれよあれよと言う間に病院に運ばれた。母さんはすぐに病室に連れて行かれて、慌ただしく出てきた医師らしき初老の男性が、なんだか難しい病名を並べ立てた。おれにはあまり理解できなかったけれど、簡単に言うと、頭蓋骨と脳とのあいだに血が溜まっている状態です、みたいな感じだった。
「これから血腫を除去する手術をします。……君の他に、ご家族の方は?」
どうやら、手術の同意書みたいなものを書かなければいけないらしい。父は出張中だし、祖父母も他県に住んでいるので、すぐにはここに来れない。おれがかぶりを振ると、医師は簡単に手術のリスクをおれに説明してくれた。脳が理解するのを拒否しているかのように、まるで頭に入ってこない。おれが未成年だからだろうか、同意書のサインは求められなかった。
母が運ばれた病室の扉の横にある、手術中の赤いランプが点灯する。まるで医療ドラマのようだ、とおれはどこか他人事のように考えた。病院独特の薬の匂いが鼻について、どうしようもない不安に襲われる。膝の上で握りしめた両手が、自分の意思に関わらずガタガタと震えていた。
「大丈夫、大丈夫だよ。朔ちゃん」
隣にいる柚子が、そう言っておれのことを励ましてくれる。「うん」と答える声は掠れていて、自分のものではないみたいだった。
しばらくして、真っ青な顔をした旺太郎が病院にやって来た。おれの思考が停止しているうちに、柚子が連絡してくれたらしい。今にも泣き出しそうな表情で、こちらに駆け寄ってくる。もしかすると、おれも似たような顔をしているのかもしれない。
「兄ちゃん……母さん、倒れたって」
普段はおれのことを生意気にも「朔太郎」と呼び捨てる弟が、おれのことを「兄ちゃん」と呼んだ。おそらく不安の表れだろう。父がいない今、兄であるおれがしっかりしなければ。おれは己を奮い立たせると、旺太郎の両肩を掴んだ。
「心配すんな。そんなに難しい手術じゃないって言ってた」
「うん……」
「旺、おまえは先帰ってろ。柚子の母さんが、メシ用意してくれてるらしいから。手術終わったら、また連絡する」
旺太郎は素直に「わかった」と頷いた。ふらふらと帰っていく後ろ姿を見送って、隣にいる柚子に向き直る。
「……柚子も。先に帰っててくれ」
「……ううん。わたし、ここに居る」
「おばさんたち、心配するだろ」
「ちゃんと伝えてあるから大丈夫だよ。わたし、朔ちゃんのそばに居たい」
柚子はそう言って、おれの手をぎゅっと握りしめた。氷のように冷え切った手指が、柚子の体温でじわじわと溶かされていく。その瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れるのがわかった。
「……このまま、母さんが……死んだらどうしよう」
朝出かけるときは、こんなことになるなんて思ってもいなかった。最後に母さんと交わした会話、何だったっけ。いってきますもまともに言わず、顔もろくに見ていなかった気がする。
脳に血が溜まるって、どういう状況なんだろう。もしちゃんと手術が終わったとして、後遺症とかが残るんじゃないのか。おれがもっと早く「病院に行け」と言っていれば。そうすれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
不安や恐怖が一斉に押し寄せてきて、胸が苦しくなる。うまく呼吸ができずに荒い息を吐いていると、柚子の腕がおれの背中に回された。
「朔ちゃん」
優しく抱き寄せられると、まるで小さな子どもをあやすかのように、背中を撫でられた。温かくて柔らかな身体からは、バニラのような甘い香りがする。目を閉じているうちに、少しずつ呼吸が落ち着いていく。
「……柚子」
肩口に顔を埋めると、おれも柚子の背中に腕を回した。縋りつくように抱きしめると、そっと抱きしめて返してくれる。どくどくと、柚子の心臓の音が一定のリズムで響いている。自分のものではない体温が、こんなにも安心できるものだなんて知らなかった。
柚子は強い女の子だ。本当はおれが守る必要なんて、これっぽっちもない。柚子がおれの手を離さないのではなくて、おれが柚子の手を掴んで離せないのだ。おれはずっと、柚子がそばに居てくれないとダメだった。
「……そばに、居て欲しい」
思わず溢れた本音は、存外情けなく響いた。それでも柚子は馬鹿にしたりせずに、ここに居るよ、と優しく囁いてくれる。
押さえつけていた蓋を持ち上げて、次々に溢れ出す感情はもう誤魔化しようもない。どうしようもなく、おれはこの子のことが好きだった。
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