美女の襲来
はくしゅん、と大きなくしゃみをしたわたしを、朔ちゃんはジト目で睨みつけていた。ずず、と鼻を啜ると、ベッド脇に置いていたティッシュボックスを手渡してくれる。「ありがとう」と答えた声は掠れた鼻声だった。
「だから言っただろ、風邪ひくぞって」
「うう……ごめんなさい」
「いいから寝てろ」
朔ちゃんに促されるまま、わたしはベッドに横になる。床に座ってそれを眺めている朔ちゃんは、眉間に皺を寄せたまま溜息をついた。
雨の中で花梨先輩のネックレスを探した翌日、わたしは見事に風邪をひいてしまった。あれから一応朔ちゃんのジャージに着替えたのだけれど、下着はびしょびしょのままだったし、帰りの電車の冷房が効いていたこともありすっかり冷えてしまったらしい。朝起きると頭がぼうっとしていて、熱を測ると三十七度の微熱だった。朔ちゃんに「今日は学校お休みするから迎えに来てくれなくてもいいよ」と連絡したのだけれど、朔ちゃんは朝からわたしの部屋までやって来た。
「ちゃんと薬飲んだか?」
「飲んだ……」
「熱、どんくらいあんの」
「三十七度ぐらい」
「しんどくない?」
わたしが「平気」と答えると、朔ちゃんはちょっと安心したように息を吐いた。もう一度くしゃみをしたわたしに、タオルケットをしっかりとかけ直してくれる。
それにしても、そろそろ家を出ないといけない時間だろうに、朔ちゃんはいつまでたってもわたしのそばから離れようとしない。嬉しいけれど、朔ちゃんを遅刻させるわけにはいかない。
「……朔ちゃん、学校行かなくてもいいの」
「今日、おじさんもおばさんも仕事だろ。柚子一人?」
「うん」
「……おれも学校休もっかな」
「な、何言ってるの。そんなのだめだよ」
「柚子になんかあったらどうする。昔、高熱出して病院運ばれただろ」
「もう、いつの話してるの……」
朔ちゃんの言葉に、わたしは呆れた。たしかに小さい頃はしょっちゅう風邪をこじらせていたけれど、今のわたしはあのときよりもずっと頑丈だし健康そのものだ。今回はうっかり熱を出してしまったけれど、今日一日ゆっくり寝ればすぐに治るだろう。朔ちゃんが渋っているので、わたしは最終手段である「お願い」を発動した。
「わたしのために朔ちゃんが学校休むの嫌だよ。お願い、ちゃんと学校行ってきて」
「……わかった」
朔ちゃんは頷くと、わたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。「なんかあったらすぐ連絡しろよ」と言われて、わたしは「うん」と答えた。本当に朔ちゃんは心配性だ。
「顔、ちょっと熱いな」
朔ちゃんはそう言って、わたしの頰にぺたりと手を当てた。熱のせいか、ひんやりと冷たく感じられて気持ち良い。引き止めるつもりはなかったのに、離れていく朔ちゃんの手を思わず掴んでしまった。ぎゅっと握りしめると、朔ちゃんは優しい顔でわたしを覗き込んでくる。
「……どした、柚子。おれ、やっぱここに居ようか」
「う、ううん……大丈夫。ごめんね」
わたしは慌てて朔ちゃんの手を振り払うと、鼻の下あたりまでタオルケットをしっかりかぶる。寂しさを押し殺しながら「いってらっしゃい」と送り出すと、朔ちゃんは名残惜しそうに「柚子の好きなプリン買って帰ってくるから」と言って部屋を出て行った。
……甘やかされているなあ、と思う。たかが微熱が出たぐらいで、朔ちゃんは大袈裟だ。そういえば昔高熱で病院に運ばれたときも、朔ちゃんは大騒ぎして、家に帰って来てからもずっとわたしの手を握ってくれていた。
――ゆず、ゆず。しぬなよ。
ねえ朔ちゃん、わたしはそんな簡単に死んだりしないよ。だから、そんなに必死になって守ってくれなくてもいいんだよ。その言葉を、わたしはついぞ口にすることができなかった。
目を閉じると、瞼の裏に今にも泣き出しそうな朔ちゃんの顔が浮かぶ。そのままわたしは、ゆるゆると夢の中へと引き込まれていった。
*
昔から柚子は身体が弱くて、些細なことですぐに熱を出していた。たしか小学校二年の頃だっただろうか、風邪をこじらせた柚子が高熱を出して、病院に入院したことがある。おれは柚子が無事に帰ってくるか不安で不安で仕方なくて、柚子が退院してから熱が下がるまで、片時も彼女のそばを離れなかった。柚子が死んだらどうしよう、と当時のおれは本気で怯えていたのだ。
昼休みになると同時に、鞄からスマホを取り出した。おれは少し悩んだが、柚子あてに「体調どう?」というメッセージを送ってみた。しばらく待ってみたが、既読がつかない。おそらく寝ているのだろうが、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
こういうときに決まっておれの脳裏に浮かぶのは、額から血を流して倒れている柚子の姿だ。おれの腕の中にあるぐったりと力の抜けた身体を思い出すだけで、おれの背筋はひやりと冷たくなる。
そのとき、騒がしかった教室が一瞬で静まり返った。何事かと思って、おれはスマホから顔を上げる。
「……おい、高辻。おまえに客だぞ。すっげえ美人」
クラスメイトにそう声をかけられて、おれは教室の外に視線をやった。扉のあたりに、黒髪セミロングの女生徒が立っている。どこかで見た覚えがあるな、と思案して――昨日、柚子と一緒に居た先輩だと思い出した。なるほど昨日はそれどころではなかったが、言われてみるとかなり美人だ。おれの好みではないし、別に興味はないのだが。
先輩は無表情のまま、じっとこちらを見つめている。座ったままでいると軽く手招きをされたので、おれは渋々立ち上がった。クラスメイトの注目が、おれの一挙一動に一身に集まっているのを感じる。廊下に出たおれが目の前で立ち止まると、美女はゆっくりと口を開いた。
「ゆずちゃん、今日は休みなの?」
「……はあ。風邪ひいたみたいで」
あんたのせいで、と付け加えるほどおれは鬼ではなかったが、先輩は言外の意図を感じ取ったらしい。「ごめんなさい。申し訳ないことしちゃった」と悲しげに目を伏せる。
「何の用ですか。おれ、あんたの名前も知らないんすけど」
おれは正直、ぶつける先の見つからない怒りを抱えていた。彼女が朝比奈からもらったというネックレスを、柚子はどんな思いで探していたのだろうか。もちろん先輩は柚子の気持ちなんて知るよしもないのだろうけど、それでもおれは腹を立てていた。柚子のことを悲しませ苦しめる人間が、おれは例外なく憎らしい。
「私、二年七組の石蕗花梨。ゆずちゃんに謝りに来たんだけど、教室にいなかったから。今日、ゆずちゃんに会う?」
「……見舞い行きますけど」
「悪いけどこれ、ゆずちゃんに渡しておいてほしいの。昨日のお礼」
「え」
先輩から手渡されたのは、有名な洋菓子店の紙袋だった。デパ地下にあるような高いやつ。たしか柚子は、ここのフィナンシェが大好物だったはずだ。まじまじと見つめていると、四角く折り畳まれた紙を手渡される。
「あとこれ、私の連絡先。これもゆずちゃんに。言っとくけど、あなたに教えるわけじゃないから」
つっけんどんに付け加えられて、ついカチンとくる。んなもん、わざわざ言われなくてもわかってるっつーの。つくづく感じの悪い女だ、とおれは内心で毒づいた。
「じゃあ、私はこれで。碧に見つかったら面倒だから、もう戻る」
そう言って先輩はセーラー服のスカートをひらりと翻して、スタスタと歩いて行った。まるで海を割るモーゼのように、廊下にたむろしていた生徒の群れがさっと一斉に彼女を避けていく。美人すぎて腫れ物扱いされる人間を、おれは生まれてはじめて見た。
クラスメイトの好奇の視線を、背中にひしひしと感じる。このまま教室に戻ると、彼女との関係を問い質されるのはわかりきっている。柚子のことも心配だし、今日はこのまま早退してしまおうか……そんなことを考えていると、背後からがしりと肩を掴まれた。
「高辻くん! 花梨、もう行っちゃった!?」
振り向いて見ると、朝比奈王子が息を切らして立っていた。おれが「もう帰った」と答えると、王子は忌々しげに舌打ちをする。
「ちっ、花梨が一年の校舎に来るなんてレアなのに! もうちょっと早く気付けばよかった!」
……こいつも、舌打ちとかするのか。王子の王子らしからぬ様子に、おれは少なからず驚いたが、今はそんなことはどうでもいい。おれの肩をしっかりと捕まえている手を、乱暴に振り払った。
「花梨、高辻くんに何の用だったの?」
王子はにこやかにそう尋ねてきたが、瞳の奥には油断ならない光が潜んでいる。砂糖菓子のような仮面でコーティングされているが、どうやらただの善人ではなさそうだ。おれは奴の視線をまっすぐ跳ね返す。
「おれに用事じゃねーよ。柚子にこれ、渡しといてくれって」
「そっか。花梨、いつのまに蓮見さんと仲良くなったんだろう……」
王子がほっとしたように頰を緩める。まったくもってわかりやすい男だ。おそらく、自分の気持ちを隠すつもりもないのだろう。こいつが石蕗花梨のことをどう思っていようがどうでもいいのだが、柚子の気持ちを考えるとムカムカしてきた。
「おまえ、柚子のことどう思ってんの?」
尋ねてから、ちょっと踏み込み過ぎだったかもしれない、と後悔した。小学五年の頃、クラスメイトの女子がおれを取り囲んで「○○ちゃんのことどう思ってるのよ」と詰問してきたことを思い出す。当時のおれは「おれに言いたいことがあるなら直接来いって言っとけ」とそいつらを追い返したが、これではあいつらと同レベルではないか。おれは小学生女子か。
王子は動揺した様子もなく、唇の端を吊り上げた。顔が良いことは否定しないのだが、こいつの笑みからはなんとなく計算高さが漂っていて苦手だ。
「その言葉、そっくりそのまま返したいんだけど」
「はあ?」
「高辻くん、蓮見さんのことどう思ってるの?」
予想外の切り返しに、おれは動揺した。
似たような質問を投げかけられたことは一度や二度ではないし、そのたびにおれは迷わず「ただの幼馴染だ」と答えてきた。相手は柚子の好きな男だ。妙な誤解を招かないよう、今回もそう即答した方がいいに決まってる――けれども。返事は喉に引っかかったまま、いつまでたっても口から出てこなかった。
「自分で気付いてないの?」
「なに、が」
「高辻くん、蓮見さんのこと僕に――いや、他の誰にも、絶対渡したくないって顔してる」
おれはみぞおちのあたりをブン殴られたような気持ちになった。今まで気付かなかった――必死で気付かないようにしてきた、己の心の奥に潜む独占欲が。看過された途端にひょっこりと顔を出して、大声で叫んでいる。
――当たり前だろ。柚子はおれの幼馴染だ。おれの、おれだけのものだ。
「……おれ、は……」
王子は顔色ひとつ変えず、笑みを湛えたままおれを見つめている。こちらの内面を見透かすような瞳が恐ろしくて、おれはふいと視線を逸らした。
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