探し物はなんですか
上空を覆う灰色の雲は分厚く、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。九月に入ってもまだまだ残暑は厳しく、昨日までは真夏並の暑さだったというのに、今日はかなり気温が下がっている。涼しいのはいいことだけれど、空気が湿っぽくどんよりしていて、わたしはなんだか気が滅入ってしまった。
夏休みが終わり、二学期が始まった。朔ちゃんとわたしの関係は相変わらず、彼はわたしのことをこの上なく大事にしてくれている。その理由がただの罪悪感でしかないことを、わたしは痛いほどにわかっている。夏休みのあいだに女の子として意識してもらうはずだったのにな、とわたしは溜息をついた。
――わかったか? 男ってのはこういうことばっかり考えてる生き物なんだよ。
朔ちゃんがわたしの部屋にやって来たあの日。ベッドに押し倒されたわたしを見下ろす朔ちゃんは、わたしの知らない男の人の顔をしていた。手首を押さえつける力は強くて、身動きひとつ取れなかった。ちょっと怖かったけれど、全然嫌じゃなかった。男の人は苦手だけど、朔ちゃんにならきっと、何をされても受け入れられる。心の底から、そう思ったのだ。
――おれだけは、柚子に絶対そういうことしない。
放たれた朔ちゃんの言葉は、わたしの心臓をぐさりと刺した。わかっていたけれど、彼はわたしのことを女の子として見ていないし、これからも見るつもりはないのだと、きっぱり宣言された気がした。
……わたしはたぶん、朔ちゃんに「そういうこと」をされたいと思っている。
そんな自分がはしたなくて恥ずかしくて情けなくて、泣きたくなった。わたしは頭を抱えて、その場でじたばたしてしまう。幸いにも、周囲には誰もいなかった。
今日も委員会があるという朔ちゃんには、「終わるまで待ってろ」と言いつけられている。朔ちゃんが所属している体育委員会は、普段はそれほどでもないけれど、体育祭を間近に控えたこの時期は忙しいみたいだ。
いつものように時間を潰そうと中庭にやって来たけれど、タイミング悪くポツリと雨の雫が落ちてくる。慌てて引き返そうとしたところで、わたしはぴたりと足を止めた。
小雨が降る中にも関わらず、その人は傘もささずに中庭に居た。信じられないくらい美しい、水晶でできた女神像のような人。朝比奈くんの幼馴染で想い人で、名前はたしか――花梨先輩だっけ(どうしよう、苗字が思い出せない)。
彼女はセーラー服のスカートが汚れるのも構わず両膝をついて、ガサガサとツツジの植え込みを掻き分けていた。何か、探し物でもしているのだろうか。
朔ちゃんから「今日雨降るぞ」と言われていたので、鞄の中には折り畳み傘が入っている。わたしは傘を取り出して、小走りに花梨先輩の元へ駆け寄って行った。
「あっ、あ、あの……ぬ、濡れちゃいますよ」
わたしは花梨先輩に傘をさしかけると、小さな声でどもりながらも声をかける。引っ込み思案なわたしにしては、かなり勇気を出した方だ。
花梨先輩はゆっくりと顔を上げて、こちらを向いた。長い睫毛に縁取られた大きな目が、ぱちぱちと瞬かれる。間近で見ると、卒倒しそうなくらいに美しい。わたしは意味もなく震えが止まらなくなってしまった。
「……誰?」
「あっ、い、一年四組の蓮見柚子です……す、すみません」
美女のオーラに圧倒されたわたしは、悪くもないのに謝ってしまう。花梨先輩は無表情のまま「傘、ありがとう」と言った。わたしは声も出せず、こくこくと頷く。
「……碧の知り合い?」
「あおい……あ、朝比奈くん、ですか?」
「一緒に居るとこ、見たことある」
「あ、はい」
わたしが頷くと、花梨先輩は何も訊いていないのに「私、碧の彼女じゃないよ」と言う。わたしが「し、知ってます」と答えると、彼女はやや申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめん。また碧のファンかと思った」
花梨先輩は植え込みに向き直ると、今度は根元の部分を覗き込み始めた。一体何をしているんだろう。わたしはこわごわ尋ねる。
「あ、あのう……何か、探してるんですか?」
「ネックレス。大事なものなの」
「お、落としちゃったんですか?」
わたしの問いに、花梨先輩はぴたりと動きを止めた。氷の仮面のような横顔に、ほんの僅か悲しみの色が浮かぶ。
「……体育のとき、外した隙に。クラスの女子に窓から投げ捨てられたの」
「えっ」
わたしは絶句した。人の大事なものを窓から投げ捨てるなんて、どうしてそんな酷いことをするんだろう。花梨先輩はチラリとわたしの方を見て、自嘲気味に言った。
「私、いつもそうなの。何故か、同世代の女子に嫌われる」
花梨先輩の話を聞きながら、ちょっとわかる気がする、とわたしは思った。彼女は恐ろしいくらいに美しくて、それでいてクールで冷たい印象で威圧感がある。氷の女王様と呼ばれてる、なんていう話も聞いた。誤解されやすいだけで良い子なんだよ、という朝比奈くんの言葉を思い出して、わたしはおずおずと口を開いた。
「ネックレス……わ、わたしも、探します。どんなのですか?」
わたしは折り畳み傘を畳むと、四つん這いになって植え込みの下を探し始めた。花梨先輩が、ぎょっとしたように目を見開く。
「いいよ。あなたには関係ないでしょう」
突き放すような言い方だったけれど、わたしを心配してくれているのはなんとなくわかった。わたしはふるふるとかぶりを振る。
「いいんです。わたし、朔ちゃん……幼馴染が迎えに来るまで、暇なので」
「でも、雨も降ってるし」
「小雨だから、大丈夫です。だって、大事なものなんですよね」
大事なものを捨てられたら、わたしだって悲しい。花梨先輩は下唇を噛み締めると、消え入りそうな声で呟いた。
「……大事な人に、貰ったものなの」
花梨先輩の頰が、ほんのり赤く染まっていた。その反応にピンときたわたしは思わず「それって朝比奈くんのことですか」と尋ねる。先輩は観念したように首を縦に振った。……それって、もしかして花梨先輩も朝比奈くんのことを。
「……ぜ、絶対に見つけましょう。どんなのですか?」
「細いシルバーのチェーンで、小さい羽根のモチーフがついてる」
「わ、わかりました。頑張ります」
ぐっと拳を握りしめたわたしに、花梨先輩は「ありがとう、ゆずちゃん」と言ってくれた。こんなに綺麗な人に名前で呼ばれるのはちょっと恐れ多い。
それからわたしたちは中庭をくまなく探したけれど、ネックレスはどこにも見当たらなかった。だんだん雨足が強くなってきて、半袖のセーラー服がじっとりと身体にまとわりついてくる。濡れた髪も頰に貼りついていた。
「ごめんね、ゆずちゃん。もういいよ」
二十分ほど経った頃、花梨先輩が静かにそう言った。その表情には諦めの色が浮かんでいる。いつのまにか雨は本降りになっていて、わたしたちは二人ともずぶ濡れになっていた。
「で、でも」
「……こんな大切なもの、学校に持ってきた私も悪いの。中入ろう、風邪ひくよ」
花梨先輩は平然としているように見えたけれど、本当は良くないに決まっている。簡単に諦められるようなものなら、とっくの昔に諦めていたはずだ。
……諦められないから、これだけ必死で足掻いている。わたしだって、おんなじだ。
わたしはぐるりと中庭を見回した。植え込みの中もベンチの下も芝生の上も、探せるところはほとんど探し尽くした、気がする。まだひとつだけ探していないところを見つけたわたしは、「あっ」と声をあげた。
「ちょっ……ゆずちゃん!?」
駆け出したわたしの背中に、驚いたような先輩の声が追いかけてくる。わたしが目指したのは中庭にある小さな池だ。あんまり水が綺麗とは言えなくて、やや濁っている。モタモタとローファーと靴下を脱いで、こわごわ池の中に入った。深さはわたしの膝ぐらいまでだから、溺れる心配はない。スカートの裾が水に浸かって、じわりと重たくなった。
「ゆずちゃん、そこまでしなくていいよ」
「か、花梨先輩はそこに居てください」
わたしは水面に手を突っ込んで、ばしゃばしゃと底を掻き回す。木の枝や葉っぱやゴミが沈んでいて、正直あまり気持ちの良いものではない。ふと指先に引っかかるものを感じて、わたしはそれを掬い上げた。華奢なシルバーチェーンが、わたしの手の中できらりと輝く。
「羽根のモチーフの、ネックレス……」
わたしは花梨先輩の方に向き直ると、自分でも信じられないくらいに大きな声で言った。
「せ、先輩! 見つけました! ありましたよ!」
わたしがネックレスを持った右手を掲げると、花梨先輩はその場に膝から崩れ落ちた。池から這い出したわたしは、先輩の元に駆け寄って、両手を取るとネックレスを手渡す。
「見つかって、よかったあ……」
わたしが安堵の息とともに呟くと、花梨先輩の長い睫毛に雨粒がくっついて、瞬きをすると同時に頰に流れた。はらはらと流れていくものが、果たして本当に雨なのかわたしにはわからない。先輩は、やっと戻ってきた大事な宝物を、ぎゅっと両手で握りしめる。
「ゆずちゃん、ありがとう……」
わたしの目をまっすぐに見た花梨先輩は、唇を震わせながら微笑んだ。無表情だと美しさばかりが際立つけれど、笑うと可愛らしさが垣間見える。わたしはたっぷり数秒は見惚れてしまった。
「柚子!」
わたしがぼうっとしていると、突然頭からばさりと何かがかぶせられた。見ると、朔ちゃんがわたしの髪をスポーツタオルでガシガシと拭いている。いつのまに委員会が終わったんだろうか。
「さ、朔ちゃん」
「何やってんだ! ずぶ濡れじゃねーか!」
「えっと、これは」
「ごめんなさい。私のせいなの」
口ごもる私の代わりに、花梨先輩が口を開く。朔ちゃんはそこで初めて先輩の存在に気付いたように、そちらを向いた。ひやりと冷たい怒りを含んだ眼差しだった。
「誰?」
こんなにきれいな人にも、朔ちゃんは少しも遠慮をしない。花梨先輩も怖気づいた様子はなく、まっすぐ朔ちゃんに向き合って深々頭を下げた。
「ゆずちゃんは、私の探し物を手伝ってくれたの。ここまでさせてしまって、本当にごめんなさい」
「花梨先輩、や、やめてください。朔ちゃん違うの。わたしが勝手にしたことだよ」
朔ちゃんの腕を掴むと、彼は花梨先輩を睨みつけた後、「とりあえず、今はいいです」と言って、わたしの身体をひょいと持ち上げた。突然の浮遊感に、わたしは目を白黒させる。わたしのローファーと靴下を回収した朔ちゃんは、荷物よろしくわたしを肩に抱えたまま、スタスタと歩いていく。
「さ、朔ちゃん。わたし、歩けるよ」
「おれ、教室にジャージ置いてるから。とりあえず着替えてから、靴履け」
「わ、わかった……」
「なんで、そんなにずぶ濡れになるまで探してたんだよ」
この体勢だと顔は見えないけれど、たぶん朔ちゃんは怒っている。棘のある口調からそれを感じ取ったわたしは、ぽつぽつと説明を始める。
「花梨先輩、朝比奈くんの幼馴染で……朝比奈くんにもらったネックレス失くしたって言うから、一緒に探してたの。大事なものなんだって」
「……はあ? なんだよ、それ。柚子がそこまでする必要あんのか」
朔ちゃんの声には、隠しきれない怒りが滲んでいる。わたしは彼の背中に向かって「だって、諦めたくなかったんだもん……」と呟いた。花梨先輩だって、本当は諦めたくなかったはずだ。
「……朔ちゃん、わたし。諦めないよ」
彼がわたしに向ける優しさが、ただの罪悪感だとしても。女の子として見られていなかったとしても。わたしはまだこの恋を、諦めたくない。
怪訝そうな声で「何が?」と言った朔ちゃんに、わたしは返事の代わりに「くしゅんっ」と小さなくしゃみで答えた。
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