幼馴染の危機管理能力

 毎朝窓越しに見ている柚子の部屋に足を踏み入れるのは、夏休みに入ってからはじめてだった。

 ふわりと鼻をくすぐる香りはやけに甘く、柚子の匂いだ、と変態のようなことを考える。実のところ柚子はあんまり几帳面なタイプではないし、前に来たときはもっと散らかっていた気がするけれど、掃除をしたのか部屋には余計なものがなく、綺麗に片付いていた。


「朔ちゃん、座ってて。おやつ持ってくるね」


 柚子はそう言っておれをベッドに座らせると、パタパタと軽い音を立てて階段を下りて行った。しんと静まり返った部屋に、クーラーの稼働音だけが響いている。

 八月も半ばに差しかかり、夏休みも終わりが近づいてきた。部活をしていないおれは、単発のバイトをしたり、友人と遊びに行ったり、たまに柚子の世話を焼いたりしてそれなりに有意義に過ごした。柚子もクラスの友人と遊びに行ったようで、「楽しかったよ」と写真を見せてくれた。男の姿はなかったようなので、ちょっと安心した。どうやら柚子は、夏休みに入ってから朝比奈王子と会っていないらしい。

 そんな柚子は、休み明けの試験の存在に今になって思い至ったらしく、今になって「朔ちゃん、一緒に勉強しようよ」と泣きついてきた。おれは一学期末の試験結果がよかったこともあり余裕をぶっこいていたのだが、柚子の頼みなら仕方ない。きっちりと予習をしたうえで、柚子の部屋へとやって来た。

 ふと、ベッドの上におれが取ってやったぬいぐるみが転がっているのを見つける。がしりと頭を掴んで持ち上げてみたが、相変わらず顔がへしゃげていて、どこが可愛いのかよくわからない。やたらと大きな目も不気味だ。

 ここに置いてあるということは、柚子は毎晩こいつと一緒に寝ているのだろうか。「朔ちゃんだと思って大事にするね」と言った柚子の言葉を思い出す。うっかり妙な想像をしてしまって、おれの背中に変な汗が流れた。そっと元の位置にぬいぐるみを戻す。


「おまたせ」


 部屋に戻ってきた柚子は、危なっかしい手つきでお盆をテーブルの上に置いた。お盆にはお茶のグラスとどら焼きが乗っている。「ここのどら焼き、美味しいんだって」と柚子はご機嫌な様子で言った。いつのまにか喉がカラカラに渇いていたおれは、慌てて冷たい麦茶を流し込んだ。

 ……なんで幼馴染の部屋に来るのに、こんなに緊張しなきゃいけないんだ。今までだって、何回も来たことあるだろ。

 一緒にプールに行ったあの日から、どうにも調子が狂っている。おれが柚子に妙な感情を抱くことなど、あってはならないことなのに。

 両手でどら焼きを食べている柚子は、「美味しいー!」と幸せそうな笑みを浮かべた。おれは甘いものを食べているときの柚子の顔が好きだが、今日ばかりはあまりの無垢さに、余計に罪悪感が募ってしまう。


「これ、ほんとに美味しいよ。つぶあんが濃厚で生地がふわふわなの。朔ちゃんも食べて!」

「そんなに美味いなら、おれのぶんも食えば?」

「ええ? 朔ちゃん、昔はわたしのぶんのおやつも取ってたのに……」

「い、いつの話をしてんだよ」


 黒歴史を掘り返されて、おれは頭を掻いた。昔のおれは、柚子をいじめて泣かせることに喜びを感じるとんでもない悪ガキだったのだ。柚子の泣き顔が見たくておやつを取り上げたことは、一度や二度ではない。ひねくれていた当時の自分をぶん殴りたくなる。


「……申し訳ないとは、思ってるよ」


 いろんな意味で、おれは柚子に償っても償いきれないほどのことをしてきた。おれはこの子が幸せになるためならなんだってする。それ以上のことを、望んではいけない。

 柚子はふいに立ち上がると、おれの隣にぽすんと腰を下ろした。ふわふわの髪から甘い香りが漂ってしたところで、おれは現状のまずさに思い至った。階下に柚子の母さんはいるものの、ここは密室で、二人きりで、並んでベッドの上に座っている。

 慌てて立ち上がろうとしたおれの腕を掴んで、柚子は「どうして逃げるの?」と悲しげな目を向けてきた。やめてくれ、おれはこの世で一番その顔に弱いんだ。無理やり視線を引き剥がして、深い溜息をつく。


「……柚子。おまえ、もうちょっとこの状況に危機感持てよ」

「き、危機感?」

「男と部屋で二人きりで、ベッドに並んで座るのはダメだろ」

「……相手が朔ちゃんでも?」


 柚子がおれの顔を覗き込んできた。透き通ったビー玉のような大きな瞳には、少しの警戒の色も見えない。おれのことを心の底から信頼して、安心しきっている目だ。


「こないだ、変な奴につけられたんだろ」

「……もしかして、旺くんから聞いたの?」


 柚子は気まずそうに目を伏せる。朔ちゃんには知られたくなかったのに、と付け加えられた言葉に、ますますむかっ腹が立ってくる。

 なんで、おれに何も言ってくれなかったんだ。中学の頃は、一目散におれのところに飛んできてくれたのに。そんなエゴ丸出しの怒りをぶつけるわけにもいかなくて、おれは下唇を緩く噛んだ。


「なんともなかったよ。気のせいかもしれないし」

「なんかあってからじゃ遅いだろ」

「わたしのこと、どうこうしようなんていう男の人なんていないよ」


 まるで危機感のない柚子に、おれの苛立ちは募っていく。柚子は何もわかっていないのだ。怒りにも似た感情が、じりじりと焦げつくように腹の底に燻り始める。


「……今、どういう状況かわかってる?」

「え」


 おれはそのまま、柚子の肩を軽く押した。ほとんど力を入れていないのに、華奢な身体はいとも容易くベッドに沈み込んだ。ふわふわの癖っ毛がシーツの上に広がる。細い手首を掴んで縫い留めると、呆然と口を開いた柚子がこちらを見上げていた。何が起こったのかわからない、という表情だ。おれは耳元に唇を寄せると、小さな声で囁いた。


「……こういう状況だよ」


 その瞬間に白い頰は真っ赤に染まり、桃色の唇がわなわなと震えた。大きく見開かれた瞳は、緊張とも恐怖ともつかない色で揺れている。普段は抑圧している嗜虐心が頭をもたげてきて、おれは小さく息を飲んだ。

 分厚い前髪がやや乱れ、普段は隠された額の傷が僅かに覗いている。おれが柚子に残した、未だに消えない傷跡だ。それを見た瞬間、おれはようやく我に返った。慌てて、掴んでいた柚子の手首を解放してやる。


「……わかったか? 男ってのはこういうことばっかり考えてる生き物なんだよ」


 自戒をこめてそう諭したけれど、柚子はベッドに横になったまま動かなかった。もしかするとショックを受けているのかもしれない。しまった、と申し訳ない気持ちになる。


「ごめん。やりすぎた」


 柚子の顔を覗き込んで詫びると、柚子は惚けたようにぼうっとした目つきで遠くを見ていた。ややあって、消え入りそうに小さな声で「朔ちゃん」と名前を呼ばれる。


「……さ、朔ちゃんも、男の子だよね」


 柚子の言葉に、おれは「うん」と頷いた。柚子は不安げな表情で、おれのことを見上げている。


「朔ちゃんも、わたしに……そういうこと、したいと思うの?」


 自分の腹の底にある醜い欲を言い当てられたようで、おれの心臓は激しく波打った。

 おれの脳裏に、おやつを奪われて泣いていた柚子が、朔ちゃんと一緒にいたいと泣いていた柚子が、変質者に遭遇して泣いていた柚子が、浮かんでは消えていく。喉がカラカラに乾いていくのを感じながら、おれはゆっくり口を開いた。


「……おれは。おれだけは、柚子に絶対そういうことしない」


 おれがすべきことは、柚子への罪滅ぼしだ。他の男と同じような醜い欲を柚子に向けるなんて、絶対にあってはならない。おれは一生かけて、世界一大切なこの女の子を守ると決めている。


「……うん。わかってる」


 そう言って頷いた柚子の表情はまるで人形のように強張っていて、何の感情も読み取れない。おれは腹の底に澱む欲望にしっかりと蓋をすると、細い腕を掴んで柚子を助け起こした。

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