一番近くで守らせて欲しい

 二十時を回るとすっかり日は暮れていたけれど、昼間のうちに真夏の太陽を嫌というほど浴びたアスファルトはまだ熱を持っていて、むっと蒸し暑かった。冷房の効いた電車から降りたばかりの身体が、すぐに汗ばんでいく。

 高校一年の夏休み。友達も少なく部活もしていないわたしは引きこもってばかりいたけれど、今日は珍しくクラスの女の子たちとスイーツビュッフェに行っていた。わたしが甘いものが好きだと知って、律ちゃんが誘ってくれたのだ。茉由ちゃん以外の友達と遊びに出かけるのはかなり久しぶりで、緊張したけれど楽しかった。

 改札を出たところで、右手に持っていたスマートフォンが短く震えた。邪魔にならないところに移動してから立ち止まって見ると、いくつかメッセージが届いていた。メンバーは今日会っていた女の子四人だ。楽しかったね、また行こうね、蓮見さん意外と食べるから面白かった、というメッセージに、わたしの表情は綻ぶ。返事は家に帰ってからにしよう。

 わたしの家の門限は二十時だけど、今日はお母さんにお願いして特別に許してもらったのだ。早く帰った方がいいよね、と思いわたしは足早に歩いていく。

 大きなスーパーもある駅前は明るくて賑やかだけれど、そこから少し離れた住宅街はかなり静かだ。街頭の光が頼りなく足元を照らしている。サンダルの踵をコツコツと鳴らしながら歩いていると、ふと背後から嫌な気配がした。身体にじっとりとまとわりつくような視線を感じる。こわごわ振り向いて見たけれど、視界に捉えられる範囲には誰もいなかった。気のせいかな、と思い再び歩き出す。

 カラカラ、と自転車の車輪が回る音が聞こえてくる。わたしの後ろから聞こえてくるけれど、いっこうに追い抜いてはこない。わたしが歩くスピードと同じ速さで、一定の距離を保ちながらついてきている感じ。熱帯夜だというのに、わたしの背筋はぞくりと震えた。

 わたしはスマートフォンを見るふりをして、比較的明るい街灯の下で立ち止まる。わたしの気のせいだったら追い抜いてくれるだろうと思ったのだけれど、車輪の音はぴたりと止まった。わたしは怖くて振り向くことができない。アプリを立ち上げて、朔ちゃんに電話をかけようとしたところで――ふと、思い出した。

 中学生の頃、塾の帰りに変質者に遭遇したことがある。真っ黒い長いコートを着た男の人は、わたしの目の前でそれをばっと広げた。その下には何も身につけていなくて、男の人の下半身が露わになっていた。わたしはわあわあ泣き喚いてなんとかその場から逃げ出して、一目散に朔ちゃんのところに行った。

 泣きじゃくりながら状況を報告すると、朔ちゃんの顔色はみるみるうちに変わった。今までに見たことがないくらいに怖い顔をして、「そいつのこと、ブッ殺してやりたい」と呻いた。その日から朔ちゃんはますます心配性になって、毎日わたしのことを送り迎えしてくれるようになった。 

 ……わたしはいつまで、朔ちゃんに頼るつもりなんだろう。いつまでたっても一人では何もできなくて、朔ちゃんに守られてばかりで。本当にここままでいいのかな。こんなに頼りないわたしのことを、朔ちゃんは好きになってくれる?

 ――いつまでも、朔ちゃんに頼ってたらだめだ。わたし一人で、なんとかしなきゃ。

 わたしはスマートフォンをしまうと、小走りに駆け出した。走って帰れば、五分もしないうちに家に着く。再びカラカラと回りだした車輪の音が不気味に響いて、どんどん大きくなっていく。距離を詰められている、と思ったそのときだった。


「あれ、柚子?」


 正面から歩いてきた人影が、わたしにそう声をかけた。朔ちゃんの声だ、と思ったわたしはほっと胸を撫で下ろす。一目散に駆け寄ると、思わず抱きついてしまった。顔を上げて、街灯に照らされた顔を見たところで――あっと声をあげる。


「お、おうくん」


 そこにいたのは朔ちゃんではなく、朔ちゃんの弟の旺太郎おうたろうくんだった。ふたつ歳下の中学二年生で、わたしは彼のことをまるで本当の弟のように思っている。旺くんのがわたしのことを姉扱いしているかは、甚だ疑問なところだけれど。


「ご、ごめんね。朔ちゃんと間違えちゃった」


 わたしは慌てて飛びのいた。旺くんは顔色ひとつ変えず「いーよ。おっぱい当たってラッキー」としゃあしゃあと言ってのける。数年前まではもっとピュアで可愛かった気がするのだけれど、中学生になってからすっかり毒されてしまったみたいだ。

 それにしても少し会わないあいだにかなり背が伸びて、ますます朔ちゃんに似てきた。水泳部に入っているらしく、健康的にこんがり日焼けをしている。旺くんと話しているうちに、いつのまにか背後の気配は消えていた。


「旺くん、こんな時間にどこ行くの?」

「コンビニにアイス買いに行くんだよ。ガッツリチョコミント食いたい」


 旺くんはわたしの顔を覗き込んで、「柚子、なんでさっき急いでたの?」と訊いてきた。少し悩んだけれど、わたしは正直に答える。


「……気のせいかもしれないんだけど、なんか変な人がついてきてる気がして」

「マジ? 柚子、変態にモテそうだもんな」


 ひどい言い草だ。わたしが頰を膨らませると、旺くんはくるりと踵を返して歩き出す。わたしは慌てて追いかけると、「コンビニ行かないの?」と声をかけた。


「先に柚子のこと送ってく」

「あ、ありがとう。ごめんね」

「このまま柚子のことほったらかしたら、朔太郎に殴られそうだもん」


 旺くんも昔は「兄ちゃん兄ちゃん」と朔ちゃんの後ろをついて回っていたのに、三年ほど前から反抗期にさしかかったのか、朔ちゃんのことを「朔太郎」と呼び捨てるようになった。ちなみにわたしは子どもの頃からずっと「柚子」と呼ばれている。もしかすると、歳上だと思われていないのかもしれない。


「朔太郎、ほんとに柚子のこと好きだよなー」

「そんなことないよ。朔ちゃん、わたしのこと心配してくれてるだけだよ」

「でも柚子は朔太郎のこと好きなんでしょ?」


 ずばりと気持ちを言い当てられて、わたしはアワアワと慌てふためいてしまう。そんなわたしを見て、旺くんは「わっかりやすー」と笑う。


「さ、朔ちゃんには言わないでね」

「言わないよ。兄弟で恋バナするなんて気持ちわりー」


 旺くんの答えに、わたしはほっと胸を撫で下ろす。この恋心を朔ちゃんに知られてしまったら、きっと朔ちゃんは自分の気持ちに関わらず、わたしのことを受け入れてしまう。朔ちゃんがわたしのことを好きになってくれるその日まで、わたしの気持ちは絶対に秘密だ。


「あんなん、おっぱいでも触らせてやれば一発じゃん」

「お、旺くん……どこでそういうの覚えてくるの」

「あいつ、絶対ムッツリだよ。押せばいけるって」


 弟である旺くんに言われると、そういうものなのかな……という気もしてくる。ビキニ作戦はそこまで響かなかったみたいだけど、もうちょっと頑張ってみた方がいいのかな。


「それに朔太郎、ロリ巨乳好きだし」

「ろりきょにゅう?」


 旺くんと話しているうちに、家の前に着いた。ちょっと怖い思いもしたけれど、無事に帰れてほっとした。わたしはもう一度旺くんにお礼を言ってから、家の中へと入っていった。





 リビングのソファに寝転びながら、おれはつけっぱなしになっているテレビをぼんやりと眺めていた。母は「頭痛がひどい」と言って、早々に床についている。最近あまり体調が良くなさそうだが、夏バテだろうか。

 リアルタイムで放送されている「コンビニアイス総選挙」という番組の思惑にまんまと乗せられたおれは、どうしても今すぐイチゴジェラートバーが食べたくなってしまった。柚子が以前に「これが一番美味しい」と推していたものだ。

 ジャンケンで負けた弟がコンビニにアイスを買いに行ったのは、もう二十分も前のことだ。家から一番近いコンビニまでは歩いて五分程度だが、どっかで寄り道でもしているのだろうか。遅い、とイライラしていると、玄関から「ただいまー」という呑気な声が響いてきた。


「遅ーよ! おれのイチゴジェラートバー!」

「はいはい、買ってきたってば」


 旺太郎は面倒臭そうにコンビニ袋からアイスを取り出すと、ぽーんとこちらに投げて寄越した。寝転んだままそれをキャッチしたおれは、袋を剥いてジェラートに齧りつく。


「どっか寄ってたのか?」

「コンビニ行く途中で柚子に会ったから、家まで送ってきた」

「柚子に?」


 おれは眉を顰める。そういえば、今日はクラスの友達と遊びに行くと言っていた。ケーキをおなかいっぱい食べるのだとずいぶん張り切っていたようだったけれど、こんな時間まで出かけていたのか。

 ダイニングチェアに腰掛けた旺太郎は、スプーンでチョコミントアイスをすくいながら続ける。


「なんか、駅から変な奴についてこられてたんだって」

「はあ!?」


 旺太郎の言葉に、弾かれたようにソファから飛び起きた。おれの動揺をよそに、旺太郎は涼しい顔でアイスを食べている。


「なんだよそれ。大丈夫だったのか」

「ふつーに家まで送ってきたよ。怖がってたみたいだけど、意外と平気そうだった」


 おれの脳裏に、かつて露出狂に遭遇してわんわん泣いていた柚子の顔がよぎった。あの日のはらわたが煮え繰り返るような怒りが蘇ってきて、おれは拳をぎゅっと握りしめる。

 今回はたまたま旺太郎がいてくれたことには感謝したが、その場に自分がいられなかったことを心底悔やんだ。電話の一本でもしてくれれば、すぐに飛んで行ったのに。いまさらのようにスマホを確認してみたけれど、柚子からの連絡は来ていなかった。

 なんですぐにおれのことを呼んでくれなかったんだ、と怒りにも近い感情が湧き上がってくる。おれはいつだって、柚子の一番近くで柚子のことを守りたい。そんなの、おれのエゴでしかないことはわかっている。

 いつかそう遠くない未来、柚子のことを一番近くで守ってくれる奴が現れたときに――おれは素直に、その役目を明け渡すことができるんだろうか。


「しかし久しぶりに会ったけど、柚子胸でかくなったよなー。そりゃ変態にも狙われるわ」

「……どこ見てんだよエロガキ」


 おれはそう言って旺太郎を睨みつけたけれど、その言葉でうっかり柚子の水着姿を思い出してしまったおれも同レベルなのかもしれない。これでは柚子をつけ狙う変質者と同じ穴の狢だ。

 そんなことばかりをモヤモヤ考えてしまって、柚子イチオシのイチゴジェラートバーの味も、ちっともわからなかった。

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