「一番かっこよくてすごい朔ちゃん」

 ここ数日、おれはすこぶる機嫌が悪かった。柚子と王子が中庭で話しているのを目撃して以来、どうにも調子がおかしい。あの光景を思い出すだけで、じりじりと腹の底が焼かれるような気持ちになる。

 中庭で手を取って見つめ合う二人は、おれの目から見ても似合いのカップルに見えた。周囲の評判を聞く限り王子は文句のつけようがない男だし、おれには柚子の恋を応援しないという選択肢はない。ないのだけれど、気付けばおれは二人のあいだに割り込んでいた。自分でも、どうしてそんなことをしたのかわからない。


 ――朔ちゃんは、わたしのこと応援してくれる?


 ……応援するに、決まっている。おれにとって、柚子の笑顔以上に優先すべきものはないのだから。それなのにどうして、こんなにも腹が立つのだろうか。


「高辻くん、幼馴染ちゃん来てるよ」


 昼休み、おれの前の席にやってきた三橋が声をかけてきた。唇を軽く尖らせて、どこか不満げな顔をしている。

 三橋の指差す方を見ると、扉からひょっこり顔を出した柚子がいた。柚子がおれのクラスまでやってくるのは珍しい。好奇心混じりの視線を浴びせられ、柚子は気まずそうに前髪を弄っていた。おれは無遠慮に柚子を見る輩をギロリと睨みつけてから、彼女の元へと向かう。


「柚子、どした? ちゃんと昼メシ食った?」

「た、食べたよ。ねえ朔ちゃん、お願いがあるんだけど」


 最近柚子の「お願い」をよく聞いている気がするな、とおれはぼんやり考えた。先回りして「いいよ」と言ったおれに、柚子は「まだ何も言ってないのに」と苦笑する。


「あの、もうすぐ期末試験あるでしょ? わたし、中間の結果さんざんだったから……勉強、教えて欲しいな」


 柚子はそれほど不真面目な方ではないのだが、あまり要領が良くないのか、成績の方は今ひとつだ。おれの成績はそこそこ、クラス全体でも中の上といったところである。周囲から「意外だ」と思われていることも知っている。


「いいよ。おれもそろそろ試験勉強しようと思ってた」

「ありがとう、朔ちゃん」


 柚子がぱっと表情を輝かせた。嬉しそうな柚子の顔を見ていると、さっきまでのイライラが嘘のように失せていくのを感じる。おれもつられて笑みを返すと、柚子は「えへへ」とはにかんだ。

 ふと、クラスの連中が柚子を見ていることに気がついて、おれは柚子を隠すようにさりげなく移動する。柚子の笑顔をそうそう安売りしてたまるか。見せもんじゃねーぞ、どうしても見たいなら金払え。


「じゃあ、今日の放課後にしようよ」

「わかった」

「……わたしの部屋来る?」


 そうする、と頷きかけて――先日抱きついてきた柔らかな身体を思い出してしまった。おれの胸板に押しつけられていた、ふにゃふにゃでマシュマロみたいなふたつの膨らみ。ぶんぶんと頭を振って煩悩を追い出していると、柚子は瞬きをして「どうしたの?」と尋ねてくる。


「いや、なんでもねー……今日おまえんち、誰かいんの」

「え? いないよ、お仕事だもん」

「じゃあだめだ。図書室行こう」


 今この状態で、柚子の部屋で二人きりになるのはまずい。何がまずいかははっきりわからないけれど、とにかくまずい気がする。

 おれの言葉に、柚子はちょっと残念そうに「はーい」と答えた。ふわふわの髪を揺らして、隣のクラスへと帰っていく。その後ろ姿が完全に見えなくなってから、おれは自席へと戻った。おれの前に座っていた白河が、幽霊にでも会ったような顔でこちらを見ている。


「なに?」

「いや……高辻、幼馴染相手にはあんな顔すんだーと思って」

「はあ? どんな顔だよ」

「いっつも無愛想なツラしてるくせに、なにあのゲロ甘スマイル? そういうのもっと周りに振り撒けよ、たぶんモテるぞ」


 ゲロ甘スマイル、と言われて反射的に頰を押さえた。そんなに緩んだ表情をしていたつもりはなかったのだが、一体どんな顔をしていたのだろうか。改めて指摘されると、ちょっと恥ずかしくなる。


「高辻くーん、こっち向いてー」


 おれたちの話を聞いていたらしいクラスメイトの女子から、からかうような声が飛んできた。おれは横目でそれを一瞥すると、ニコリともせず白河に向き直る。残念ながら、柚子以外の奴に振り撒く愛想は今のところ持ち合わせていない。

 白河はそんなおれを見て、「うーわ、腹立つ男……」と忌々しげに舌打ちをした。



 放課後、おれはいつものように柚子を迎えに行った。篠崎は相変わらずおれを冷めた目つきで睨んだ後、「じゃあ柚子、またね」と言って帰っていく。おれには挨拶のひとつもなかったが、いつものことなのでどうでもいい。

 柚子と連れ立って図書館に向かう。試験前ということもあってか、勉強している生徒たちの姿もそこそこ見えた。おれと柚子は奥にある席に腰を下ろして、細長い机の上に勉強道具を広げる。


「柚子、どれが一番苦手?」

「数学……」

「どこがわかんねーの?」

「どこがわからないのかがわからない……」


 柚子がしゅんと眉を下げた。柚子の数学アレルギーはかなり重症だ。本人曰く、数字の並びを見ているだけで眠気が襲ってくるらしい。決して地頭が悪いわけではないと思うのだが、苦手意識が強いのだろう。


「とりあえずね、ここ……問題文が理解できない……」


 柚子が教科書を広げるのを、おれはどれどれと覗き込む。声をひそめて簡単に解説をすると、柚子はうんうんと真剣な表情で頷く。シャーペンを持って問題集を解き始めた柚子を、おれは頬杖をついて眺める。

 中三の頃、「朔ちゃんと同じ高校に行きたい」と言った柚子に、おれはつきっきりで勉強を教えてやっていた。おれの成績がそこそこなのは、柚子に勉強を教えるために必死になった結果である。おれのモチベーションの大半は柚子を起因としているのだ。柚子のためなら、おれはどんな努力も厭わない。

 ……実際のところ、おれが柚子と一緒の高校に行きたかっただけかもしれないが。

 勉強を教えてやると、いつも柚子は「朔ちゃんはすごいね」とキラキラした目を向けてくれた。「朔ちゃんが一番すごくてかっこいい」という何の衒いもない柚子の言葉は、くすぐったくも嬉しかった。柚子に褒めてもらうために、おれは今までどれだけ努力を重ねてきたのだろうか。

 しばらくのあいだ、おれは自分の勉強もそこそこに、柚子のことばかりを盗み見ていた。ふわふわとした癖っ毛が顔にまとわりついて邪魔そうだ。髪を掻き上げてやりたくなったが、余計なお世話だろう。柚子は相当集中しているらしく、おれの視線に気付く様子もない。


「あれ、蓮見さん」


 勉強を始めてから、一時間ほど経った頃だろうか。ふいに声をかけられて、柚子は弾かれたように顔を上げた。おれも振り向いて見ると、そこに立っていたのは朝比奈王子だった。柚子はひそひそ声で「こんにちは」と挨拶をする。朝比奈はおれの方を見て、ニコリと笑みを向けてきた。思わずたじろぐぐらい綺麗な顔だ。


「高辻くんと一緒だったんだ。仲良いね」

「別に、ただの幼馴染だよ」


 朝比奈に妙な誤解を与えるのは柚子に申し訳ない。おれがきっぱり否定すると、奴は「ふうん」と頷いた。含みのある表情に、おれはやや苛立つ。悪い奴ではないのだろうが、どうにもいけ好かない奴だ。


「試験勉強してるの?」

「うん。朔ちゃんに教えてもらってるの」

「そうなんだ。あ、蓮見さん。ここ間違ってるよ?」

「え、うそ」


 柚子の手元を覗き込んだ朝比奈が、トントンとノートを指で叩く。


「これは、こっちの公式当てはめるんだって」

「あ、なるほど。朝比奈くん、頭良いね」


 素直に朝比奈を褒めた柚子に、おれは面白くない気持ちになった。くるくるとシャーペンを回しながら、柚子の賞賛を受けるのはいつもおれの役目だったのに、と子どもじみたことを考えてしまう。


「よかったら、また今度教えてあげるよ」

「ありがとう。でも大丈夫だよ」

「じゃあまたね。高辻くん、邪魔してごめん」


 おれはふてくされた表情を浮かべたまま、「別に」と答えた。我ながら態度が悪い。しかし朝比奈は満足げに微笑んで、その場から立ち去っていく。カウンターに座っている図書委員の女子が、王子にうっとりとした眼差しを向けるのがわかった。あいつの周りだけ、明らかに空気が違う。


「……あいつに、勉強教えてもらうの?」


 おれの問いに、柚子はふるふると癖毛を揺らして首を振った。

 

「ううん。だって、朔ちゃんが教えてくれるもん」


 その言葉に、おれの自尊心は保たれた。あいつはおれより頭が良いのだろうし、柚子にとっては(いろんな意味で)あいつに教えてもらった方がいいのだろう。それでもおれはまだもう少しだけ、柚子に頼られていたい。柚子にとって、「一番かっこよくてすごい朔ちゃん」でありたい。


「……おれ、絶対あいつより良い点取る」

「ほんとに? 朝比奈くん、特進クラスだよ」


 どうして張り合ってるの、と柚子がおかしそうに笑う。その質問に、おれは答えることができない。カチカチとシャーペンをノックすると、まともに読んでいなかった教科書とようやく真面目に向き合った。

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