雷警報発令中
窓の外で眩い稲光が閃き、ほどなくして激しい雷鳴が轟く。夕方から降り出した雨の勢いは増すばかりで、激しくガラスを叩いていた。
――さくちゃん、さくちゃん。こわいよう。
ぐずぐずと泣きじゃくる、小さな女の子の声が頭の中で響く。おれの幼馴染は、小さい頃は雷が鳴るたびに布団をかぶって部屋の隅で震えていた。高校生になった今は、さすがにそんなことはないと思うが、怖い思いをしていないだろうか。
自室から隣家の二階を確認してみたが、柚子の部屋の電気は消えている。リビングにでもいるのだろうか。再びピカッと空が光り、一瞬ののちにドーンと大きな音が響いた。先ほどよりも近くに落ちたようだ。
「朔ちゃーん! 朔ちゃん、ちょっと来てー!」
階下からおれを呼ぶ母の声が聞こえた。高校生にもなって朔ちゃん呼びはやめてくれ、と何度も言っているのだが聞いてくれない。「柚子ちゃんだって呼んでるじゃない」と母は言うが、柚子は柚子だから別にいいのだ。それに柚子に「高辻くん」とか呼ばれるのは、なんとなくむず痒いものを感じる。
「なに?」
階段を降りて、しぶしぶ台所に顔を出す。母は巨大な寸胴鍋を「はいこれ」とおれに押しつけてきた。中からはカレーの良い匂いが漂っている。
「重っ! なにこれ」
「柚子ちゃんのお父さんとお母さん、今日法事で出かけてるんだって! この天気だし、帰り遅くなるみたいだから。柚子ちゃんのぶんの晩ごはん、持っていってあげて」
ということは、柚子は今日あの家にひとりぼっちなのか。雷が怖いとメソメソ泣いていた小さな柚子の姿を思い出して、なんだか落ち着かない気持ちになる。おれは「わかった」と答えると、右手に傘、左手にカレー鍋を抱えて、玄関から外に出た。
普段ならば多少の雨なら傘もいらないぐらいの距離なのだが、あまりにも酷い土砂降りで、カレーを濡らさないようにするのが結構大変だった。インターホンを押すと、「はあい」という柚子の声が聞こえてくる。「おれ」と言うと、ややあって目の前の扉が開いた。
「朔ちゃん?」
ひょっこり顔を出した柚子は頭からタオルケットをかぶっており、白い頰はやや青ざめていた。もしかして、雷が怖くて部屋の隅で震えていたのだろうか。おれの顔を見るとほっとしたように表情を緩ませて、「入って!」と快く迎え入れてくれる。
「これ、母さんが柚子に持ってけって」
「わあ、ありがとう。おばさんのカレー、美味しいよねえ」
ずしりと重たい鍋を柚子に渡すのは気が引けて、おれはそのままカレーを台所へと持って行った。コンロの上に鍋を置くと、柚子が蓋を開けて中身を覗き込む。「いい匂い」と頰を綻ばせた。
「でも、すごい量だね。わたし一人でこんなに食べられないよ」
たしかに柚子の言う通りだ。柚子はそれほど小食ではないし、意外とよく食べる方だけれど、さすがに一人で完食できる量ではないだろう。食べ盛りの息子二人を持つ母は、女子高生の胃袋の大きさを正しく理解できていないのだ。
「……朔ちゃん、よかったら一緒に食べない? わたし、ごはんいっぱい炊いてるから」
そう言って柚子は、こちらを見上げて首を傾げた。家に帰ればおれのぶんのカレーがあるだろうが、柚子も一人で心細いだろうし、二人で晩飯を食うのもいいだろう。おれが「いいよ」と言うと柚子は「やったあ」と無邪気に両手を上げた。
柚子がカレー皿にごはんをよそってくれたので、おれはその上からカレールーをかける。ダイニングチェアに腰を下ろすと、柚子はおれの正面に座った。
いただきます、と揃って手を合わせてから、スプーンでカレーをすくって口に運ぶ。うちの母さんが作ったキーマカレーは結構美味い。柚子が「美味しいねえ」とニコニコ笑っているので、おれは嬉しくなった。この笑顔が見れたなら、土砂降りの中ここまで来た甲斐があるというものだ。
カレーを食べて(柚子もおれもおかわりをしたけれど、それでもまだ余った)、後片付けまで終えた頃には、時刻は夜の十時を回っていた。ちらりと時計に視線をやってから、おれは柚子に問いかける。
「おじさんとおばさん、いつ帰ってくんの?」
「日付が変わるまでには帰ってくるって言ってたけど……」
ということは、それまで柚子はこの家に一人きりということになる。未だに外は大雨が降り続いており、雷はひっきりなしに鳴り響いている。柚子は窓の外を気にしながら、不安げな表情でおれを見上げた。
「……朔ちゃん、帰るの?」
「……そりゃ、帰るだろ」
おれを見つめる柚子の目が、必死で「帰らないで」と訴えている。まるで捨てられた子犬のようだ。ただそれだけのことで、おれは両足を縫いつけられたかのように、その場から動けなくなってしまった。
できることなら残ってやりたいが、残念ながら帰る以外の選択肢はおれにはない。おれと柚子はもう高校生で、そこらに適当に並んで転がされていた赤ん坊ではないのだ。あまり遅くまで二人きりでいるのはまずい。そのあたりのことを、柚子はきちんと理解しているのだろうか。
「……ごめんな。なんかあったら、連絡しろよ」
そう言って断腸の思いで柚子を振り切り、玄関に向かおうとしたそのときだった。
爆発でも起きたのかと思うほど激しい音と共に、夜の闇がまるで真昼のように明るく照らされる。目が眩むほどの光に、柚子が小さく「きゃっ」と叫ぶのが聞こえた。
「おい、柚子――」
大丈夫か、と口にする前に、おれの胸の中に何かが勢いよく飛び込んできた。「それ」が何なのかを理解した瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。ふにゃりと柔らかなものが、おれの胸板に押しつけられている。甘い匂いが鼻先をくすぐって、ほんの一瞬理性を手放しそうになった。
――この温かくて柔らかくていい匂いのする生き物を、力いっぱい抱きしめたい。
「ゆ、ず」
それでもおれが正気を失わずにいられたのは、おれにしがみつく柚子の身体が小刻みに震えていたからだ。
馬鹿野郎、おれは今何を考えた。ここにいるのは、おれが命を賭けて守らなければならない女の子だ。
おれは小さく息を吸い込むと、華奢な背中をぽんぽんと優しく叩いてやる。
「……大丈夫だよ」
安心させるように、耳元で囁いた。しばらくじっとしていると、腕の中にある柚子の震えが止まり、体温がみるみるうちに上がっていく。
「……ご、ごめんね」
柚子はようやく我に返ったように、そそくさとおれから離れた。まるで茹で蛸のように、首まで真っ赤になっている。おれもなんだかつられて照れてしまって、それを誤魔化すように頰を掻いた。
「……雷、こえーの?」
「うん、怖い……」
「おれがいるのに?」
柚子の顔を覗き込むと、彼女は今にも泣き出しそうな顔で「ううん」とかぶりを振った。
「……朔ちゃんがいるなら、怖くない」
……柚子のそばに居るのが、おれでよかった。あのまま家に帰っていたら、たった一人で怖い思いをさせるところだった。
柚子はおれのTシャツの裾をぎゅっと握りしめると、上目遣いにこちらを見つめてくる。
「あの、朔ちゃん」
「なに?」
「……お父さんとお母さんが帰ってくるまで、一緒に居てくれる?」
ねえ朔ちゃん、お願い。懇願するような柚子の口調に、おれはぐっと言葉に詰まった。おれは柚子の「お願い」にはてんで弱い。彼女の声に強制するような響きはないのに、どうしても抗うことができないのだ。
「……わかった」
観念したように、おれは首を縦に振った。ここに居たとしても、おれが柚子におかしな真似をすることなど神に誓ってありえない。あってたまるものか。
一応、母にも「柚子が心配だからしばらく一緒にいる」と連絡しておいた。すぐに既読がついて、呑気な「りょうかい」というパンダのスタンプが返ってくる。危機感のなさに、ちょっと呆れてしまった。うちの母さんは、おれと柚子が年頃の男女だということをわかっているのだろうか。いつまでも並んで転がされていた赤ん坊だと思っているのではないか。
「朔ちゃん、ありがとう」
ニコニコと無邪気な笑顔を向けてくる柚子もきっと、おれが男だということをきちんと理解していない。先ほど柚子に抱きつかれたとき、おれが何を考えたのかきっと彼女は知るよしもないし、このまま一生知らないでいて欲しい。
柚子の髪からふわりと甘い香りが漂ってきた瞬間、未だ残る柔らかな感触を思わず反芻してしまった。腹の底にあるどろりとした欲が蓋を持ち上げそうになって、慌ててそれを押さえ込んだ。もしかするとおれは、柚子にとって雷よりもよほど危険な存在なのかもしれない。
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