卑怯者の恋
青く澄み渡った空には、白い絵の具でもこぼしたような雲がぽつぽつと浮かんでいる。さんさんと降り注ぐ太陽に照らされた木々が緑色に輝いていて、吹き抜ける風はひやりと冷たいけれど心地良かった。学校からほんの一時間ほどバスに揺られただけなのに、やや高地にある自然公園の空気は、なんだかやけに澄み切っている気がする。
五人一組のグループに分けられたわたしたちは、これから班ごとにカレーを作らなければならない。
同じ班の男子に「蓮見さん、野菜切っといてくれる?」と頼まれたわたしは途方に暮れていた。目の前にはジャガイモやニンジンの入ったカゴがある。五人分ともなるとかなりの量だ。えーと、とりあえず皮を剥けばいいのかな……。
「蓮見さん、わたしも一緒に野菜切るよー」
そう言ってニコニコと声をかけてくれたのは、同じ班の
坂倉さんは鼻歌混じりに、包丁で器用にジャガイモの皮を剥いている。わたしは皮剥き機がないと、野菜の皮を剥くことができない。おっかなびっくりのわたしの手つきを見て、坂倉さんは吹き出した。
「もしかして、蓮見さんって不器用?」
「うん。じ、実は……」
何の取り柄もないわたしはてんで不器用で、小学校の頃も調理実習で指を切ってしまったことがある。あのときの朔ちゃんはわたし以上に大騒ぎして、涙ぐむわたしの手を引いて保健室にすっ飛んでいった。
「意外だなあ。お料理とかできそうなのに」
「……わたし、こういうの全然だめなの……坂倉さん、上手だね」
「律でいいよ。わたしも柚子ちゃんって呼んでいい?」
わたしはこくこくと何度も頷いた。呼び捨てにするのは気が引けたので、二人で協議をした結果「
わたしはニンジンの皮を剥きながら、ついつい朔ちゃんの姿を探してしまう。少し離れた水道で、お米を研いでいる朔ちゃんを見つけた。わたしの知らないきれいな女の子が、親しげに朔ちゃんに話しかけている。朔ちゃんが何事かを答えると、彼女は朔ちゃんの肩をバシバシと叩いて笑った。わたしはおなかのあたりにモヤモヤしたものがわだかまるのを感じる。
「あの子、毎日迎えに来てるよね。柚子ちゃんの彼氏?」
わたしの視線の先に気付いた律ちゃんが、にやにやしながら尋ねてくる。わたしは力なく首を横に振った。
「ううん……幼馴染」
「あ、そうなんだ!? ちょっと怖そうだけど、あんなにイケメンの幼馴染がいるなんて羨ましいなあ」
「や、やっぱりかっこいいよね! 全然怖くないよ、すっごく優しいの」
思わず前のめりになったわたしに、律っちゃんは「めちゃめちゃグイグイくる」と肩を揺らして笑った。さすがに恥ずかしくなったわたしは、小さく咳払いをしてニンジンと向き直る。
「たしかにかっこいいけど、わたしは王子派かなあ」
「王子? ……もしかして、朝比奈くんのこと?」
「そう! 七組の朝比奈碧くん。もしかして知り合いなの?」
「うーん、まあ……」
わたしは曖昧に言葉を濁す。知り合いといっても、朝比奈くんとは一緒にパンを食べたあの日以来、まともに会話をしていない。廊下ですれ違えば会釈くらいはするけれど、彼はいつもたくさんの人に囲まれていて、わたしごときが近付ける雰囲気ではないのだ。
「いいなあー。私も一回でいいから喋ってみたい」
「朝比奈くんって有名なの?」
「そりゃそうだよ! 入学式のときから、すっごいイケメンがいる! って噂になってたよ」
そうだったのか。わたしは周囲の噂に疎いし、朔ちゃん以外の男の子は目に入っていなかったから、全然知らなかった。
わたしがぽかんとしていると、律っちゃんはわたしの袖を引いて、少し離れたところにいる集団の中心を指さした。
「ほら、あそこにいる。お近付きになりたいなんて大それたことは全然考えてないけど、目の保養だよねえ」
そう言って律ちゃんは、ありがたやとばかりに両手を合わせて拝んだ。朝比奈くんはクラスメイトらしき男女に取り囲まれて、にこやかな笑みを浮かべていた。アプリで加工されたみたいな、キラキラとしたエフェクトが背後に見える気がする。高級感のあるブルーグレーのシャツはシンプルなのに大人っぽくて、彼によく似合っていた。
わたしたちがぼんやりと朝比奈くんを観察していると、渦中の人物はふいにこちらを向いた。ぱちりと目が合ったので、わたしはぺこりと頭を下げる。ぱっと表情を輝かせた朝比奈くんは、小走りにこちらに駆け寄ってきた。
「蓮見さん!」
気のせいではなく周囲がざわついて、視線がわたしに集まった。注目されることに慣れていないわたしは、つい真っ赤になって俯いてしまう。
「こ、こんにちは……」
「久しぶり。あれから全然喋れてなかったから、気になってたんだ。元気だった?」
「お、おかげさまで」
「あ、四組の坂倉さんだ。こんにちは」
突然朝比奈くんに名前を呼ばれた律っちゃんは、「ヒェッ」と叫んでその場で固まってしまった。王子様が放つキラキラオーラは、至近距離で浴びるには眩しすぎる。隣の班の女の子たちが、わたしたちを見てヒソヒソ話をしているのが横目に見えた。
朝比奈くんはわたしの耳元に唇を寄せると、小さな声で囁く。ギャーッという女子の悲鳴にも似た声が遠くから響いた。
「高辻くんと仲良くやってる?」
「う、うん……」
「よかった。またいろいろ話聞かせてよ。じゃあまた」
そう言って爽やかに片手を上げた朝比奈くんは、野風のように颯爽と立ち去っていった。残されたわたしたちは、ただただ呆然とするばかりだ。前回で多少慣れたとはいえ、やはり間近で見る王子様の圧はすごい。
「なんか……すごい……かっこよかったね」
圧倒的なイケメンを前にすると、人間は語彙を失ってしまうらしい。律っちゃんの感想に、わたしは「そうだね」と頷いた。
「なんで私の名前、知ってたんだろう……」
「学年全員の顔と名前、覚えてるらしいよ」
「に、人間じゃない……」
律っちゃんはほうっと息をつくと、小さく肩をすくめて「やっぱり、遠くから見てるのが一番かも」と笑った。その気持ちは、ちょっとだけわかる。
包丁を持ってジャガイモに向き直ると、背中にちくちくとした視線が刺さるのを感じた。隣の班の女子たちが、わたしのことをチラチラ見ている。「高辻くんがいるくせに」「どっちが本命なの」みたいな声が聞こえてきて、わたしは下唇を噛んで俯く。もしかすると、変な誤解をされてるのかもしれない。そんなんじゃないと否定する勇気もなくて、わたしはただ黙っている。
「痛っ」
女子の声に気を取られていると、うっかりジャガイモを切る手を滑らせてしまった。包丁でざっくりと指が切れる。裂けた皮膚から、ぷっくりと赤い血が溢れ出してきた。少し遅れて、鋭い痛みがやってくる。
「あ……やっちゃった」
「柚子ちゃん、大丈夫!? 早く洗ってきた方が……」
わたしが「大丈夫」と答えるより先に、背後から伸びてきた手がわたしの手首をがしりと掴む。見ると、怖い顔でこちらを睨みつけている朔ちゃんが立っていた。朔ちゃんはわたしが怪我をしたとき、いつも怒っているみたいな表情をする。そういえば、小学校の調理実習のときも同じような顔をしていた。
「さ、朔ちゃん」
「馬鹿、なにやってんだ」
朔ちゃんは小さく舌打ちをすると、わたしの手をぐいぐい引いて水道へと連れて行く。勢いよく水を出して、傷口を洗い始めた。冷たい水で感覚が麻痺しているせいか、痛みはほとんど感じない。
「おまえもう包丁持つなよ。不器用なんだから」
「大丈夫だよ」
「昔調理実習でも指切って、べそべそ泣いてただろ」
「昔の話だもん……」
「傷、残ったらどーする」
そう言いながら、朔ちゃんはわたしの指ではなくて額を見つめていた。何と答えていいかわからずに、わたしは下唇を噛み締める。
――ごめんな。
このあいだ聞いた、朔ちゃんの悲痛そうな声を思い出す。朔ちゃんはきっと、未だにわたしの傷に縛られている。抱かなくてもいい罪悪感を抱いて、必要以上にわたしを守ることで罪滅ぼしをしようとしている。
ほどなくして血が止まったので、朔ちゃんは蛇口をひねって水を止めた。どこから持ってきたのか絆創膏を取り出して、丁寧にわたしの指に巻きつける。
ふいに視線を感じて振り向くと、さっきまで朔ちゃんと話していたきれいな女の子が、じっとこちらを見ている。理知的な切れ長の瞳の奥には、隠しきれないわたしへの憎しみが滲んでいた。きっと彼女は、朔ちゃんに甘やかされて守られているわたしに嫉妬しているのだろう。
……ごめんなさい。それでもわたしは、この立ち位置を譲るつもりは毛頭ない。
「……ありがと、朔ちゃん」
わたしの言葉に、朔ちゃんは不機嫌そうに眉を寄せたまま、わたしの髪をぐしゃりと撫でた。ただそれだけのことで、わたしはどうしようもなく嬉しくなってしまう。
罪悪感を盾にして、彼のそばから離れないわたしはずるい。わかっているけど、わたしはどんな手を使ってでも、朔ちゃんの一番近くに居たい。
「じゃあおれ、戻るから」
「うん」
「もう怪我すんなよ」
「気をつけるね」
朔ちゃんはやや名残惜しそうに、クラスメイトの元へと戻っていった。さっきのきれいな女の子に何かを尋ねられて、言葉少なに答えている。会話はここまでは聞こえてこなかった。
律っちゃんのところに戻ると、野菜は既にすべて切り終えており、大鍋の中に投入されていた。申し訳ないことに、わたしは全然役に立てなかった。「ごめんなさい」と平謝りすると、律っちゃんは「ほとんど終わってたから」と笑ってくれる。
「それにしても高辻くん、ほんとに優しいんだねえ。すぐ飛んできたからびっくりした。なんか、愛を感じちゃった」
律っちゃんはそう言ってうっとりと目を細めたけれど、わたしは曖昧に頷くことしかできなかった。彼の行動原理が愛ではないことくらい、わたしはよくわかっている。
――いっそ、傷が残ればいいのに。そうしたらまた、朔ちゃんはわたしに優しくしてくれるかな。
そんな最低なことを考えながら、わたしは人差し指に巻かれた絆創膏をそっと撫でた。
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