守る理由

 柚子を無事に教室まで送り届けることは、おれの日々の任務のうちのひとつである。

 ラッシュ時の電車の混雑ぶりは尋常ではない。どこからこれだけの人間が湧いて出てくるのか、不思議に思うほどだ。カーブに合わせて電車が大きく揺れて、人波が押し寄せてくる。扉側に押しつけられそうになるのを、おれは両腕に力を込めて耐えた。おれの身体と扉のあいだには、心配そうにこちらを見上げる柚子の姿がある。


「さ、朔ちゃん、大丈夫? もっとこっち来てもいいよ……」


 柚子がおれの袖を引いたが、おれは無言で首を横に振った。小さくて華奢な柚子を潰してしまうわけにはいかない。

 そのとき電車が駅に停まり、またどっと人が乗り込んできた。既にギチギチだった車内の人口密度がさらに高くなる。あえなく奥へ押し込まれたおれの身体は、柚子の身体とぴたりと密着した。顎の下あたりにあるふわふわした髪の毛から、甘い香りが漂ってくる。

 ――うわ。やば。


「わ、悪い柚子。平気か?」

「う、うん。わたしは大丈夫……」


 俺は胸の前でリュックを抱えているので、柚子の身体にダイレクトに触れてているわけではない。柚子は高校指定の重くて使いづらい鞄を、膝の前で両手で持っている。おれのリュックが柚子に当たって、セーラー服の下の胸をふにゃりと押し潰していた。ついついその柔らかさを想像してしまって、おれは自分をぶん殴りたくなる。馬鹿野郎、柚子に対して一体何を考えてるんだ。

 電車に乗っているのはそれほど長い時間ではないけれど、この沿線は混雑がかなりひどく、痴漢も結構多いと聞く。柚子は一人でも大丈夫だと言うけれど、おれは絶対に柚子を一人で通学させるつもりはなかった。小柄で気の弱い柚子を危険に晒すわけにはいかない。それに不可抗力だとしても、他の男と柚子の身体が密着するのも嫌だった。

 やっとのことで高校の最寄駅に到着して、おれたちは人波に流されるように電車から降りた。ここまで来れば、九割方おれの任務は達成したも同然だ。毎朝のことではあるが、なかなか骨の折れる仕事である。

 駅前にある長い坂を上ると、おれたちの通う高校がある。校門をくぐったところで、柚子は少し前を歩く女子生徒に向かって声をかけた。


「あっ、茉由ちゃん」


 ポニーテールを揺らして振り向いたのは、篠崎だった。柚子にむかってとびきりの笑顔で「柚子! おはよう!」と挨拶をした後で、おれに向かって「なんだ、高辻いたの」とつっけんどんな声を出す。温度差がひどい。おれは「そりゃいるだろ」と篠崎を睨みつけた。


「わかってるわよ、毎朝ちゃんと柚子のこと守ってくれてるんだもんね。そのことに関して〝は〟感謝してる」

「何が言いてーの」

「番犬気取りなのはいいけど、それってほんとに柚子のためなの?」

「はあ?」


 こいつがおれを嫌っているのは今に始まったことではないが、ずいぶんと棘のある言い方だ。バチバチと火花を散らしているおれと篠崎のあいだに入った柚子は、「ちょっと、二人ともやめてよ」とおれたちを嗜めた。篠崎はそれであっさり矛を収めて、「ごめん。ちょっと言い過ぎた」と詫びる。

 おれは柚子をしっかり送り届けてから、自分のクラスへと向かう。教室へ入ったところで、ぽんと軽く背中を叩かれた。


「高辻くん! おはよう」


 振り向くと、さらさらとしたロングヘアを揺らした女子が立っていた。ややつり目がちな切れ長の瞳で、かなり気の強そうな印象を受ける。クラスメイトであることは間違いないのだが、名前がパッと出てこなかった。たしか明後日の遠足で、同じ班だった気がする。


「あー……おはよう」

「今日も蓮見さんと一緒に来たの? 仲良いんだね」


 おれは「まあ」と生返事をしながら、目の前にいる女の名前を思い出そうとしている。ちょうど教室に入ってきた女子が「明日香あすか、おはよー」と言ったので、ようやく思い出した。たしかフルネームは三橋みつはし明日香だ。


「高辻くんって、蓮見さんと付き合ってるの?」


 三橋はおれの反応を窺うように、そう訊いてきた。高校に入学してから一ヶ月と少し、これまでも何度となく繰り返されてきた質問だ。

 おれはちょっとうんざりしながらも「付き合ってない」と答える。否定するのも面倒になってきたが、柚子には他に好きな奴がいるのだから、余計な誤解はできるだけ解いておいた方がいいだろう。


「ただの幼馴染だよ」

「それなのに、一緒に登下校してるの?」


 尚も食い下がってくる三橋に、おれはどうしたものかと思案する。おれと柚子の関係を一言で説明するのは難しい。三橋はおれの真正面に回り込んで、小悪魔じみた仕草で小首を傾げた。ちょっとわざとらしい。


「知ってる? ひそかに高辻くんのこと狙ってる女の子、いっぱいいるんだよ」

「……へえ」

「でも、みんな蓮見さんがそばにいるから諦めてる」


 おれは何も答えなかった。無言で自席に向かうと、三橋は小走りに追いかけてくる。机の上にリュックを置いたところで、三橋はそっと耳元で囁いてきた。


「……でも付き合ってないなら、あたしだって諦めなくてもいいよね?」


 おれはぎょっと目を見張って、三橋の顔を見た。三橋はにやーっと顔いっぱいに笑みを浮かべると、「今日の放課後、遠足の打ち合わせあるから忘れないでね!」と言って自分の席に戻っていく。おれは呆然とその背中を見送った。

 ……今のって、もしかしなくても、そういう意味……だよな?

 自慢じゃないが、おれは生まれてこのかた、まったくモテたことがない。これまで他の女子には目もくれず、柚子のことばかり構ってきたのだから、当然といえば当然なのかもしれない。

 正直言って悪い気はしなかったが、面倒だな、と思う気持ちの方が勝った。今のおれはかわいい幼馴染を守ることに手一杯で、他の女子に割くキャパシティは残っていないのだ。



 放課後、いつものように隣のクラスに柚子を迎えに行こうとして、三橋が「打ち合わせがある」と言っていたことを思い出した。リュックからスマホを取り出して、柚子へのメッセージを打ち込む。遠足の打ち合わせがあるから遅くなりそう、と送信すると、ほどなくして返事が返ってきた。


 ――わかった! じゃあ、図書室で待ってるね。


 その後に、柚子の好きなキャラクター(やたらと目が大きくて、顔のひしゃげた犬だ)のスタンプが送られてくる。もしかすると、先に帰ってるね、と言われるかもしれないと思っていたので、ちょっとホッとした。


「高辻くーん」


 三橋に手招きされたので、おれはスマホを片付けてそちらに向かった。同じ班のメンバーは男女混合の五人だ。どの食材を誰が待ってくるとか、そういった分担を決めるだけならば、そう長い時間はかからないだろう。早く終わらせて、柚子を迎えに行かなければ。


「高辻、今日はカノジョ迎えに行かなくていーの?」


 からかうような口調でそう尋ねてきたのは、同じ班になった白河しらかわけいだった。それほど親しいわけではないが、席が近いのでそこそこ会話はする。おれが黙っていると、三橋が「カノジョじゃないらしいよー」とおれの代わりに答えた。


「え! カノジョでもないのに毎日送り迎えしてんの!? どういう関係?」

「別に、ただの幼馴染」

「ふつーただの幼馴染にそこまでする? あ、わかった。惚れてんだ」

「惚れてねーよ!」


 おれがきっぱり否定すると、白河は「怪しいなあ」と目を細めた。三橋はつまらなさそうに唇を尖らせて、手にしていたシャーペンをくるくる回している。


「でもさ、蓮見さんはそれでいいのかな?」

「え?」


 おれは眉を顰めた。三橋は「別に高辻くんが悪いって言ってるわけじゃないからね」と前置きしてから続ける。


「高辻くんみたいなイケメンが蓮見さんに構ってるの、女の子はあんまりいい気してないと思うよ。わたしも正直、面白くないもん」

「……どういうこと?」

「あんまりやりすぎると、蓮見さんが孤立しちゃうよってこと」


 ――番犬気取りなのはいいけど、それってほんとに柚子のためなの?


 今朝聞いた、篠崎の言葉が脳裏に響く。おれは机の上で、ぐっと拳を握りしめた。柚子は決して、おれに守られることを当たり前のように受け入れているわけではない。それでも周りの人間が、それを理解してくれるとは限らない。もし、おれのせいで柚子があらぬ誤解を受けているとしたら――?


「ごめん。余計なこと言った。あたしの気にし過ぎかも、忘れて」


 下を向いて黙りこくってしまったおれに、三橋は慌ててフォローを入れる。おれは「別に気にしてない」と答えたけれど、腹の底にはどろりとした不安が澱んで消えなかった。



 話し合いを終えたおれは、一目散に図書室へと向かった。想定していたよりも遅くなってしまったが、柚子はまだ待ってくれているだろうか。

 長い廊下を歩いて、一番奥にある扉を開く。放課後の図書室にいるのはカウンターに座っている女子二人組と柚子だけで、他の生徒はいなかった。オレンジ色の夕陽を浴びながら、柚子は机に突っ伏している。おれは音を立てないように、そっと彼女に歩み寄った。

 顔を覗き込んでみると、すやすやと穏やかな寝息を立てている。こんなところで一人で眠るなんて不用心だ。誰かに寝顔を見られたりはしなかっただろうか、と心配になってしまう。

 おれは柚子を起こさないように、額を覆う分厚い前髪にそっと触れる。その下にある傷を、おれはもうずいぶん長いこと見ていない。まるで陶器の人形のように美しい顔に残る、たったひとつの消えない傷跡。おれのせいで、残った傷だ。

 おれのしたことは、決して許されないことだと思う。それでもおれは、隣で柚子が元気に笑っていてくれるなら、ほんの少しだけ救われたような気がするのだ。おれが柚子を守るのは柚子のためではなく、自分が楽になりたいだけだ。きっと柚子もそれをわかっていて、おとなしくおれに守られている。

 おれは彼女の前髪から手を離すと、小さな鼻をぎゅっとつまんだ。「ふぎゃ」と変な声をあげた柚子が、慌てたように飛び起きる。


「さ、さ、朔ちゃん?」

「アホ。こんなとこで爆睡してんなよ」

「び、びっくりしたあ……ふつうに起こしてよ」


 そう言って柚子はぽかぽかとおれを殴ったけれど、全然痛くない。おれは「ごめん」と謝って、柚子の右手首をゆるく掴む。笑顔を作ったつもりだったけれど、あまりうまくはいかなかった。首を傾げた柚子が「どうしたの?」と尋ねてくる。


「……ごめんな」


 前髪に隠れた傷を見つめながら、おれは小声で囁く。柚子ははっとしたように目を伏せたけれど、しばらくするとこちらを向いて微笑む。


「朔ちゃん、一緒に帰ろう」


 そう言って差し伸べられた手を、おれは躊躇いながらも掴む。小さな手は子どものように体温が高くて、ふにゃふにゃと柔らかかった。

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