幼馴染の贔屓目

 休日だというのに朝八時に目を覚ましたおれは、まず部屋のカーテンを開けた。朝の日差しが寝起きの目に眩しく、しょぼしょぼと瞬きをする。大きく伸びをしてから、いつものように隣家の窓に視線をやった。言うまでもなく、柚子の部屋である。

 おれと柚子の部屋の窓はちょうど向かい合っており、もしカーテンが開いていた場合、おれの部屋からは柚子の部屋の様子がよく見える。小学校の頃に「糸電話で会話してみよう」と二人でやってみたが、結局「ふつうに叫んだ方が早い」という結論に至った。試してみたことはないが、頑張れば屋根を伝って柚子の部屋に侵入することもできるだろう。当然、試してみるつもりはない。

 毎朝毎朝柚子の部屋を見ているのは、別におれがストーカーだからというわけではない(ちょっとストーカーじみている自覚はあるが)。なんとなく身体に染みついた癖のようなものだ。たまにタイミングよくカーテンを開けた柚子が顔を出して「おはよう!」と笑ってくれることもあり、そんなときは「今日は良い日になりそうだな」と思う。

 おれは階下に降りると、朝食のパンを食べてから手早く身支度を整えた。おれの私服のバリエーションは著しく少ないので、消去法で適当な黒のTシャツとデニムを選ぶ。今日は柚子と買い物に行く予定になっている。

 週末、買い物に付き合って欲しい。申し訳なさそうにそう言ったのは、柚子の方からだった。聞けば、来週の遠足に着ていく服がないから買いに行きたいのだと言う。「好きな人に可愛いと思ってもらいたいから」と柚子は言った。柚子にとってみれば、好きな男に私服を見せる数少ない機会である。そりゃあ、少しでも可愛い格好をしたいのだろう。

 どちらにせよ、柚子にお願いをされたおれに断るという選択肢はほぼない。ふたつ返事で請け負って、土曜の九時に家まで迎えにいくと約束した。

 リュックに財布とスマホを放り込むと、スニーカーを履いて家の外に出た。十歩も歩かないうちに、柚子の家の前にたどり着く。平日は毎朝柚子を迎えに行っているが、休日にここに来ることはあまりない。インターホンを押すと、柚子の母さんが顔を出した。


「あらあ朔ちゃん、おはよう」

「おはようございます。柚子、起きてる?」

「起きてるわよ。朝からバタバタ準備してて……柚子ー! 朔ちゃん、来てくれたわよー! ごめんねえ、休みの日にまで」

「いや、全然」

「朔ちゃんが毎朝迎えに来てくれるから助かってるのよー。あの子、朝弱いから」


 柚子の母さんは明るく快活な印象のある美人だ。顔つきもキリッとしており、柚子とはあまり似ていない。幼いときから知っているおれをまるで実の息子のように可愛がってくれて、とても良くしてくれている。大事な一人娘に一生消えない傷を残したおれのことを、憎んでいてもおかしくはないはずなのに。


「朔ちゃんになら、柚子を安心して任せられるわ」


 そう言って、柚子の母さんはニッコリ笑った。おれは何があっても、その信頼に背くわけにはいかないのだ。


「さ、朔ちゃん、おはよう。ごめんね、まだ髪とかしてない……」


 スリッパをパタパタと鳴らして、二階から柚子が降りてきた。白いブラウスの上にベージュのキャミワンピースを合わせている。柚子の髪は柔らかな癖っ毛で、ふわふわと好き放題に跳ねている。


「髪、やってやろうか」

「え? ……い、いいの?」

「いいよ」


 おれはスニーカーを脱いで家に上がると、柚子とともに洗面所へと向かう。

 柚子は不器用なので、いつも寝癖を直すのが精一杯のようだが、おれは手先の器用さにはそこそこ自信がある。スマホで動画を見ながら、三つ編みを作って髪を捻って、頭の後ろで簡単にまとめてやった。分厚い前髪には触れなかった。その下に傷が残っていることを知っているからだ。


「はい、できた。こんなんでいいか」

「わあ、朔ちゃんすごい。ありがとう」


 鏡越しの柚子が、まるで花が咲いたかのように笑う。その笑顔を、好きな奴にも見せてやればいい。そんな可愛い顔を見て、惚れない男はいないだろうから。


「じゃあお母さん、いってきまあす」

「はい、いってらっしゃい。気をつけてねー」

「いってきます」


 柚子が白いスニーカーを履くのを待って、おれたちは並んで外に出た。そういえば、休日にこうやって二人で遊びに出掛けることなんて、今までほとんどなかった気がする。

 おれたちが住んでいるのは閑静な住宅街で、服を買うような場所はほとんどない。結果、電車に乗って街へ出ることになる。平日の朝ほど電車は混んでおらず、おれたちは並んで座ることができた。ぽかぽかと穏やかな陽射しが車窓から降り注いで心地良い。

 目的の駅に到着して電車から降りると、どこの改札から出ればいいのかと柚子がまごまごしていた。おれは昨日のうちに調べておいたので、「柚子、こっち」と柚子の腕を掴んで引く。柚子はきらきらと尊敬の眼差しでこちらを見上げてきた。


「朔ちゃん、すごいね。わたし、このあたり全然来たことない」


 正直言って、おれだってほとんど来たことがない。柚子にいいカッコをしたいがゆえに、しっかり調べておいただけだ。柚子に尊敬の眼差しを向けてもらえたなら、昨日のうちに予習をした甲斐があったというものだ。

 おれはそんな内心をおくびにも出さず、「迷子になるなよ」と言って小さな手を握った。柚子は頰を染めてこくんと頷く。

 改札を出てすぐのところに、巨大なファッションビルがあった。ここから先の道案内はできないぞと思っていたのだが、柚子は事前に行きたい店を調べていたらしい。「四階に行こう」と言ってエスカレーターに乗る。おれは柚子の真後ろについて行った。

 当然のことながら、女性向けのブランドばかりが入ったフロアに男の姿はほとんどなく、おれはちょっと居心地が悪かった。柚子もあまり慣れていないのか、物珍しげにキョロキョロと周りを見回している。


「柚子、何買うの」

「どうしよう……遠足だから、動きやすい服の方がいいよね」


 来週の遠足の行き先は、バスで一時間ほどの場所にある自然公園である。みんなでカレーを作ってドッヂボールをするらしい。高校生にもなって何をさせるんだ、と思わないでもない。


「何かお探しですか?」


 柚子がハンガーにかかったグレーのパーカーを手に取った瞬間、若い女性店員に声をかけられた。柚子は狼狽え、目を泳がせて真っ赤になっている。柚子は人見知りで引っ込み思案だ。さっとおれの背中に隠れてしまった柚子の代わりに、おれは口を挟んだ。


「……動きやすくて可愛い服を探してるんですけど」


 かなり漠然としたおれの言葉に、店員は「かしこまりました」とニッコリ笑った。柚子に向かってあれこれ質問を投げかけて、柚子は言葉少なにそれに答えている。いくつか服を見繕った店員は、挙動不審な柚子の手を引いて試着室へと連れて行く。不安げにこちらを振り返った柚子に向かって、おれは頷いてやった。こんなところに男一人で取り残されるのは正直かなり居心地が悪いが、柚子のためなら仕方がない。試着室の前で、おれは手持ち無沙汰に突っ立っている。カーテンの向こうからごそごそと衣擦れの音が聞こえて、おれはなんだか妙な気分になってしまった。


「彼女とお買い物ですか? いいですねー」


 柚子に服を薦めた女性店員は、口角を綺麗に上げたまま話しかけてくる。おれは首を横に振った。


「いえ、ただの幼馴染です」

「そうなんですか? すっごくお似合いなのに」


 おれは何と答えていいのかわからず、視線を虚空に向けた。柚子がおれの彼女だなんてとんでもない。柚子にはおれよりももっと相応しい男がいるはずだ。もっと顔が良くて頭が良くて優しくて、誠実で理性的な――と考えたところで、王子の顔が頭に浮かんだ。なんとなく苦々しいものがこみ上げてきて、おれはぐっと唾を飲み込む。


「……朔ちゃん、朔ちゃん。そこにいる?」


 試着室のカーテンの向こうから、柚子の声が聞こえてくる。おれが「いるよ」と答えると、柚子はカーテンからひょっこり顔だけを出した。


「服は可愛いけど、あんまり似合ってないかも……」

「お客様、よろしければ見せていただけますか?」


 店員の言葉に、柚子はおずおずとカーテンを開いた。カーキのショートパンツの上から、花柄のシャツワンピースを羽織っている。白くて細い脚が、短い丈のボトムからすらりと伸びていた。


「わあ、可愛い! とってもお似合いですよ!」


 店員の声に、お世辞じみた響きはなかった。多少のセールストークはあるのだろうが、柚子に向かってあれこれと誉め言葉を並べている。おれもおおむね同意だった。おれは女性の服装についてそれほど詳しいわけではないけれど、動きやすそうだし派手すぎず地味すぎずで、ちょうどいいのではないかと思う。


「……朔ちゃんは可愛いと思う?」


 柚子が不安げに問いかけてきた。可愛いからそれにすれば、と答えようとして――おれは口を噤む。彼女が参考にすべきは、きっとおれの意見ではない。


「柚子の好きな奴は、どういうのが好みなんだよ」


 おれの問いに、柚子は露骨に目を泳がせた。「えーと」と口ごもり、長い前髪を弄っている。


「あ、あんまり知らないの。さ、朔ちゃんは、どういうのが好き?」

「おれは似合ってればどんなんでもいいと思うけど……」

「これ、わたしに似合ってるかな?」

「うん」


 そりゃあ当然、とても似合っている。素直に頷くと、柚子はぱっと表情を輝かせた。「じゃあ、これにする」と言って、試着室のカーテンを閉めてしまう。……だから、おれの意見を聞いてどうするんだ。

 柚子は店員に選んでもらった服を一式購入したらしく、会計を済ませてほくほく顔で戻ってきた。おれたちを見送る店員もほくほく顔をしていた。店側にとってはチョロい客だったのだろう。おれは柚子の手から商品を奪い取った。


「ありがとう、朔ちゃん。すごく参考になった」


 わたし、せっかくだからカバンも買いたいなあ。そう言っておれのシャツの袖を掴む柚子は可愛い。おれの目には柚子が何をしていても何を着ていても、世界で一番可愛く見えて困る。これが幼馴染の贔屓目というやつなのだろうか。やっぱりおれの意見はあまり参考にしない方が良さそうだ、とおれはこっそり溜息をついた。

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