王子様、現る
ぽかぽかと心地良い日差しを全身に浴びながら、わたしはほっと息をついた。五月の空は薄青色に澄み切っていて、植え込みのツツジの花が美しく咲き乱れている。そういえば昔、朔ちゃんが「濃いピンクのツツジのミツが、一番あまくておいしい」と言っていたけれど、わたしにはちっとも違いがわからなかった。
昼休みの中庭は人が多くて、みんなそれぞれ友達同士で固まってお昼ごはんを食べている。さっきまでわたしの隣には茉由ちゃんがいたのだけれど、急に部活のミーティングが入ってしまったらしい。茉由ちゃんは申し訳なさそうにしていたけれど、わたしは快く送り出した。
学校生活において集団に所属していないと不安になることも多々あるけれど、わたしはこうして一人でぼんやりするのも結構好きだ。もともとあんまり社交的な方ではないし、新しい友達を作るのも苦手な方だった。高校に入学してから一ヶ月が経つ今でも、茉由ちゃん以外の女の子と話すのはちょっとだけ緊張する。男の子と会話するなんてもってのほかだ。わたしはいつも、朔ちゃんや茉由ちゃんの後ろに隠れて守られてきた。このままではいけないなあと、わかってはいるのだけれど。
わたしは膝の上にお弁当を乗せて、もぐもぐと口に運んでいた。中庭では、知らない男の子たちがバレーボールをしていた。ギャーギャーと騒がしい声を上げて、ボールを手や足で打ち上げている。楽しそうでいいなあとほのぼのしていると、男の子の一人が明後日の方向にボールを打ち上げてしまい、わたしに向かって飛んできた。突然のことに避けることもできず、咄嗟に頭を庇う。肩のあたりに軽い衝撃を感じて、跳ね上がったボールはコロコロと転がっていく。
「ごめんね! 大丈夫!?」
わたしの元へ駆け寄ってきたのは、ものすごくきれいな顔をした男の子だった。くっきりとした二重の瞼に宝石みたいな瞳、すっと通った鼻筋はまるで彫刻のよう。色素の薄い茶色の髪はまるで毛並みの良い犬のようで、太陽に照らされてきらきらと光っていた。テレビのニュースで見たイングランドの王子様みたいだ、とわたしは一瞬見惚れてしまう。
「怪我とかしてない?」
心配そうに顔を覗き込まれて、わたしはたじろぐ。わたしは朔ちゃん以外の男の子が苦手だ。モゴモゴと小さな声で「だ、大丈夫、です」と答えるのが精一杯だった。
「……いやこれ、大丈夫じゃないよね」
王子様が指差したのは、地面に無惨にひっくり返ってしまったわたしのお弁当だった。まだ中身が半分以上残っている。エビフライ、最後に大事に食べようと思って残しておいたのに……!
わたしがショックに打ちひしがれていると、王子様は申し訳なさそうに「ほんとにごめん」と頭を下げた。
「僕、購買でパンか何か買ってくるよ。何が好き?」
「え? いや、そんな……い、いいです」
「いいから。うちの購買、焼きそばパンとか美味いよ。お薦め」
王子様の見た目によらない強引さに押し切られ、わたしは思わず「じゃ、じゃあ、焼きそばパン……」と答えた。王子様は「任せて」とウィンクを投げつけた後、颯爽と走っていく。実際にウィンクする人、生まれて初めて見た。それがよく似合っていて、嫌味じゃないところがまたすごい。
わたしは心の中でお母さんに謝りながら、台無しになったお弁当を泣く泣く片付ける。わたしの不注意だけど、食べ物を粗末にするのは悲しいものだ。しょんぼりしていると、ものの五分もしないうちに王子様が戻ってきた。
「お待たせ。これ、リクエストの焼きそばパン。それからこっちは購買のおばさんがオマケしてくれたアンドーナツ」
「す、すみません……」
恐縮しているわたしに、王子様はパンを押しつけてくる。彼は「あんドーナツ、半分こしよう」と笑って隣に腰を下ろしてきた。わたしは恐縮しながら、ぺこぺこと頭を下げる。
わたしはまず、王子様のお薦めである焼きそばパンからいただくことにした。外のパンはふわふわで、ソースの風味が香ばしく、紅しょうがが効いていてとってもおいしい。わたしは今まで自分では甘いパンばかり選んでいたので、惣菜パンを食べたことはほとんどなかった。
「……おいしい! ……です」
わたしが言うと、イングランドの王子は「よかった」と微笑んだ。絵画の如く完璧に整った顔だけれど、笑うと高校生の男の子らしいやんちゃさが表に出てくる。
「あの、本当にすみません……パンのお金、払います」
「いいよ、気にしないで。僕らのせいでお弁当台無しにしちゃったんだし。というか、僕も一年だから敬語使わなくてもいいよ。四組の蓮見さんだよね?」
突然名前を言い当てられて、わたしはたじろいだ。交友関係が著しく狭いわたしに、こんな王子様のような知り合いはいないはずだ。オドオドしているわたしを安心させるように、王子様は付け加えた。
「僕、同級生の顔と苗字は大体覚えてるから……さすがにファーストネームまでは無理だけど」
こともなげに言った王子様に、わたしは仰天してしまった。わたしの高校は一学年に八クラスもある。ひとつのクラスが三十人程度だから、合計でおおよそ二百四十人。……記憶力が良いとか、そんなレベルじゃない気がする。それにひきかえわたしときたら、未だにクラスメイトの顔と名前が合致するかも怪しいところだ。
「僕、七組の朝比奈碧。よろしく」
王子様改め朝比奈くんは、そう言って右手を差し出してきた。十五年間生きてきた中で、初対面の人に握手を求められたのは初めてだ。顔立ちもハーフみたいだし、もしかしたら外国の血でも混じっているのかもしれない。わたしはおずおずと差し出された手を握り返した。
「蓮見さん、いつも三組の高辻くんと一緒に登下校してるよね」
どうやら彼は本当に、全クラスの生徒の顔と名前が一致しているらしい。わたしはボトルに入ったお茶を一口飲んだ後、「幼馴染、なの」と答えた。朝比奈くんの表情が、ぱっと輝く。
「へえ! 僕も幼馴染いるんだ。ひとつ歳上なんだけど」
「そ、そうなんだ」
「後学のために教えて欲しいんだけど、もしかして蓮見さんって幼馴染と付き合ってるの?」
朝比奈くんの質問に、わたしは力なくかぶりを振った。
「……ううん。わたしの片想い」
それもつい昨日、わずかな望みも潰えてしまったばかりだ。朔ちゃんはいるはずもないわたしの想い人との恋路を、心の底から応援しようとしてくれている。
朔ちゃんのわたしへの想いが、ただの罪悪感だとわかってはいるけれど。それでもわたしは、朔ちゃんを諦めることはできない。物心ついたときからずっと、朔ちゃんのことだけを見てきたのだ。いまさら他の人になんて、目を向けられるはずもない。
「そっかあ。僕も」
朝比奈くんの言葉に、わたしはぎょっとして目を見開いた。隣にいる朝比奈くんの顔をまじまじと見つめる。
この、人類の奇跡かというくらい綺麗な顔をしている男の子が、誰かに片想いをしている? とてもじゃないけれど、信じられない。彼ならば軽く息を吹きかけるだけで、どんな女の子でも彼のことを好きになってしまうだろうに。
「……ほ、ほんとに?」
「嘘ついてどーすんの。さっき言った幼馴染、僕の好きな人」
もう十年以上片想いなんだよねえ、と朝比奈くんはのんびり笑っている。わたしはちょっと興奮してしまった。幼馴染に一途に恋をしている王子様だなんて、まるで少女漫画のようで素敵だ。
「でも、全然望みなくて。弟としてしか見られてないんだよね」
「わ、わかる。わたしも、全然女の子として見られてないから……」
「やっぱり? 嫌われてはないんだろうけど、距離が近すぎていまさら恋愛っぽい空気にもならないっていうか……」
「うんうん」
朝比奈くんの言葉に、わたしは力いっぱい頷いた。彼とわたしじゃ基本スペックに差がありすぎるけれど、幼馴染に長年の片想いをしてあるという点においては同じだ。目の前にいる王子様が、なんだか唐突に身近な存在に感じられた。
「僕あんまり知らないけど、高辻くんって蓮見さんのことものすごく大事にしてる感じするよね」
「……うん。大事にはしてくれてるけど……朔ちゃんは、わたしのこと好きなわけじゃないから」
「それって、どういうこと?」
不思議そうに首を傾げた朝比奈くんに、わたしは募り募っていた不安が爆発して、つい洗いざらいぶち撒けてしまった。物心ついた頃にはもう、朔ちゃんのことが好きで好きで仕方がなかったこと。怪我をしてから、朔ちゃんの態度がガラリと変わってしまったこと。好きな人ができたから応援してほしいと言ったら、朔ちゃんが頷いたこと。
わたしは口下手なので、かなりわかりにくい説明だったはずだけれど、朝比奈くんはわたしの話を邪魔することなく、うんうんと相槌を交えながら聴いてくれた。
改めて他人に説明すると、バカなことを言ってしまったものだと思う。好きな人がいる、だなんて――彼の気持ちを試すようなこと、言うべきじゃなかった。わたしはがっくりと肩を落とす。
「それって、そんなに望みないかなあ? むしろチャンスじゃない?」
わたしの話を聴き終えた朝比奈くんは、そう言って腕組みをした。わたしは「え?」と首を傾げる。
「むしろ、蓮見さんに好きな人がいるってわかったことで、高辻くんも蓮見さんが女の子なんだって意識させられたんじゃないかなあ。応援してもらう体で、いろいろアプローチしてみれば?」
なるほど、イケメンが言うと通常の三倍の説得力がある。わたしはぴんと背筋を伸ばすと、縋るような気持ちで「アプローチって、たとえば?」と訊いてみる。
「好きな人のためにオシャレしたいから買い物付き合って、みたいな感じでデート誘ってみるとか」
「な、なるほど……」
それは盲点だった。わたしと朔ちゃんは毎日登下校を共にしているし、しょっちゅう互いの家に出入りする関係ではあるけれど、ふたりで遊びに行ったことはほとんどない。小さい頃はいろんなところに引っ張り回されていたけれど、わたしが怪我をしてからはそれもなくなってしまったのだ。わたしの方から買い物に誘ってみるというのは、良いアイディアかもしれない。
「あ、ありがとう朝比奈くん……参考にします」
「大したこと言ってないけど。よかったら、また僕の相談にも乗ってよ」
「わ、わたしじゃお役に立てないと思うけど……」
わたしが言うと、朝比奈くんは「そんなことないよ」と口角を上げた。至近距離で浴びたイングランドの王子様の笑顔は、あまりにも眩しくてちょっと直視できないレベルだった。
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