第6話 信仰(3)
「ふぁ……んん……」
朝日が瞼を刺激する気配とともに、僕は目を覚ました。
僕の工房には日射を与えたくないものも多いので、全ての窓に厚手の布を引いている。しかし、ただの温泉宿にそんなものがあるわけもない。日の光で目を覚ますというのは、案外久しい感覚であった。
「よく寝ていたな」
声の方に目を向けると、鏡越しにジョゼットと目が合った。あまり寝られなかったのか、目の下に隈が目立ち、なんだか目つきが悪く見える。
それより、こんな大きな鏡台が部屋にあったのか。全然記憶にない。
複雑な表情で黙り込む僕の姿に、ジョゼットの髪を梳いていたベルがくすくすと笑った。
「朝市で骨董屋を見つけて買ってきたんです。もう、大変だったんですよ。朝からガストン様と二人がかりで」
「……それ、持って帰るのか?」
「いえ。お世話になったので、宿に寄贈なさると」
鏡台はそこそこの逸品に見えるが、王族の金銭感覚を庶民が理解しようとしても無駄なことだ。この件について、それ以上考えるのはやめておいた。
「ガストンは?」
「朝ご飯を買いに行ってます。また朝市を回っているんじゃないでしょうか」
「アンリは……」
「隅っこで寝てます」
ベルが示す方を見ると、毛布の塊がひっ転がっていた。中身は確認するまでもない。
「ガストンが戻ったら、今後のことを話す。アンリも起こしておけ」
ふと、ジョゼットの声音に険があることに気付く。棘がある、というほどのものではないが、何かを押し隠しているような、そんな含みがある。腹の立つ言動はしょっちゅうだったが、こういう態度は初めてだ。
何かに怒っている――いや、怒る直前なのか。腹の中で湯が煮えくり返っているのに、湯気が口から出ることは抑えているような、そんな印象を抱いた。
僕は、急に背筋が汗ばむのを感じた。
昨日の時点では、ジョゼットは疲労していたものの、機嫌自体は良かった。では、今朝になって何かが起こったということか。
表情がわかりやすいベルの方は、どうも事情を把握していないと見える。ジョゼットの異変には気付いているようだが、自分からそれについて問い質すことはなかった。
考えていても仕方がない。ガストンが戻ればわかることだ。
僕は黙って頷くと、毛布にくるまったアンリを起こしにかかった。
* * *
程なくして、ガストンが帰ってきた。
彼は、一人ではなかった。
「……そういうことか」
経緯はわからなかったが、事情はある程度察することができた。この村で一番避けたかった事態だ。だから、タラスコに寄るのは嫌だったのだ。
ガストンが連れてきた人物は二人だった。
一人はニコラだ。タラスコの司祭であり、山中で僕たちと出会った、中年の男である。
そしてもう一人は、黒い髪を三つ編みに結った少年。年の頃は十と少しといったところか。湖面のように静まり返ったその瞳を見るまでもなく、彼が昨日のフードの少年であることは理解していた。
「昨晩、私はこの子と……ロシェと、話をしてきた。ガストンが、蔵に運ばれるロシェを見たと言ってな。明日の儀式まで、一睡もしないというではないか。暇つぶしの相手にでもなってやろうと思ったのだ。……それだけのつもりだった」
ガストンが彼を見たというのは、アンリと鍛冶場に出かけた時のことだろう。何気なく不眠の儀のことを聞いて、何気なくジョゼットに話した。好奇心旺盛なお姫様は、興味が疲労を上回り、夜になって宿を抜け出していたということだ。
そして恐らく、ロシェから直接聞いたのだろう。
この祭りで行われる、儀式の内容を。
こんな子供が『竜の腹』に立ち入って、一体何をするのかということを。
「マルク、そしてニコラよ。虚偽は許さん。その代わり、私の早合点であったなら、好きに嗤ってくれ」
ニコラは、不思議そうな顔で頷いた。
口の中に、苦いものが広がっていた。僕は返事をせず、ただジョゼットを見つめ返すことで、続きを促した。
「この村の祭りというのは……子供を竜の生贄に捧げるものなのか」
恐らく彼女は、持ち得る精神力の全てを自身の抑制に回していただろう。彼女の声に震えはなかったが、それは危うい均衡だった。
当然、その後の事態も予想できた。それでも、僕は答えるしかなかった。
「その通りだ」
右の頬が炸裂したような感触がしたかと思うと、僕は床に倒れ伏していた。
目の前にあるのは、握りしめたジョゼットの拳。華奢なその手に血が滲んでいた。
「ジョゼット様、その言い様には恣意的なものがあります。ロシェが臨む儀式は、婿入りです。生を受けた時から決まっていた、竜の神子の使命を果たす時が来たまでです」
止せばいいのに、ニコラがジョゼットに反論する。制止したかったが、血の味が広がる口を開けても、思うように声が出なかった。僕は諦めて、痛みが緩むのを待つことにする。
「恣意的なのはどちらだ! 一人で竜の下へ行き、二度と戻らぬというではないか! それが生贄でなくて何とする!」
「神子は竜の怒りを鎮め、大地を巡って天に昇ります。いつか遠く空の果てで、再会も叶いましょう」
「そのような言葉遊びは求めておらんわ! 子供を死なせておいて、良心の痛みが露とも無いと言うのか!?」
「ロシェは神子として育ち、この日を待ち焦がれておりました。自らを貢物として、健全で洗練された身体を作ってきたのです。その晴れの姿を見送るわたくし共が、それを憐れむなどあろうはずがありません」
「貴様は……! 貴様らは、そこまで……!」
ジョゼットの拳が、再びギュッと握られる。
しかし、二度目の爆発の寸前、ガストンがそれを制止した。
「ジョゼット様。お気持ちはわかります。しかしまず、正確に事情を把握しなければ」
ガストンの視線が僕の方に向けられる。上手くやれと、暗に告げるような目つきだった。
今のほんの少しのやりとりだけで、ガストンはニコラという人間を概ね把握したのだろう。彼は紛れもなく善良な民であり、先の発言に悪意はおろか誤魔化しもない。ただ、この村の慣習に染まりきっている。この村の常識を否定するものと交わったことがないのだ。
どうしても、外の人間が求める答えを引き出すには時間がかかる。
「……わかっているよ」
血の味は収まっていないが、咳をしたら声は出るようになった。
僕は何から話したものかと思案しながら、ゆっくりと起き上がった。
「この慣習を説明する前に、そもそも竜とは何なのか、はっきりさせておこう。前にも話題に上がった、竜の起源に関することだ」
「……いいんですか? 話したくなさそうだったのに」
「儀式のことに話をつなげたくなかっただけだ。もう関係ない」
ベルは神妙な面持ちで、俯くようにうなずいた。
優しい彼女が、この慣習について憤りを覚えるのは当然だ。珍しく責めるような口調だったことに、僕はむしろ安堵していた。
「ヴォルドがかつては貧しい国土だったことは知っているな? 雨は乏しいか過剰かの両極端で、土地は痩せ、動物も少ない、そんな時代があったことを」
「無論だ。国と呼べるかどうかも怪しい、集落の寄り合いだった頃だろう。もう何百年も前の話だが、それを豊かな地へと整備した一族が、ヴォルド王家の起源だ」
ジョゼットが当然とばかりに答える。
これはヴォルド王国の歴史の始まりであり、同時に王権の根拠でもある。書に残したか口伝かは知らないが、当然受け継がれている知識ということだ。
「それなら、その方法は伝わっているか? この地に、どうやって恵みをもたらしたか」
「灌漑や焼畑のような、個々では昔から活用されていた方策を、大規模に、かつ計画的に行ったと聞く。集落間を有機的に連動させた功績と、その際に培った伝手により、国家統一の足掛かりを作った」
「……なるほど。この辺りは、大雑把になってくるわけだ」
大規模で組織的な取り組みがあったことは間違いないが、事はそう単純ではない。もっとも、ジョゼット自身は教わったことをそらんじているだけだろう。曖昧にぼかして伝わっているというのが妥当な線か。
「大雑把だと?」
「貴方が言ったことに間違いはないが、本来行われた大事業を隠すため、違った印象を与えるように話を丸めているんだと思う。そういう……なんていうか、地に足がついた方策だけでは覆らないような、そんな土地だったんだよ、ヴォルドは」
「……これらの前に、突拍子もない手段が用いられたというのか」
ジョゼットの眉間に深くしわが寄る。
幼少から与えられ、既に定着した知識の否定というのは、元来困難なものである。それでも、ジョゼットの切り替えは早かった。
「まさか、ここで竜が出てくるのか……?」
正解だ。
竜は環境を変える。その話を覚えていたのだろう。
僕は重々しく見えるよう、ゆっくり頷いた。
「この土地の貧しさ、その原因は、慢性的なマナの不足にあった。マナの廻りも停滞気味で、淀んでいた。それを解決するために生み出されたものが、今もヴォルドに棲まう五頭の竜の起源だ」
「ちょっと待ってください! あれは、人が作ったものなんですか!?」
「そういうことになる。……いや、竜を作ったかと言えば微妙なところなんだが、竜が生まれるきっかけを作ったのは人間だ」
ベルが興奮気味に口を挟むのも無理はない。実際のところ、人間は今、竜の被害に対して有用な対処をできずにいる。それを同じ人間が、しかも大昔に作ったとあれば驚くのは当然だ。
「……よくわかりません」
少し迂遠な言い方になってしまったからか、ベルが説明を求める。
しかし、僕が答えるよりも先にジョゼットが口を開いた。
「竜を直接生み出したのではない。作ったのは、マナの生成機構だな」
またもや正解である。やはり鋭い。
「そうか……以前、竜は大量のマナを発散し続けていると言っていたが、本来の順序は逆……。マナを発散する機構が、竜として動き出してしまったのか」
「あっ……だから、きっかけ……!」
ガストンとベルが、それぞれ理解に達する。
アンリがついてきているかどうかはわからなかったが、気の抜けた茶々も入れてこない。感覚的には事情を掴んでいるのだと判断して、僕は話を続けた。
「この時に用いられたマナの生成機構……正確には増幅機構かな。これが、呪紋の始まりと言われている。ヴォルドの初代国王は、最古の呪紋士だった。あまり知られてはいないけどね」
「では、竜も呪紋の産物なのか」
「元を辿ればそうなる」
そしてそれは、意図されたものではなかった。
「ヴォルドの四方と中央に配置された始祖の呪紋は、当初こそ思惑通りにマナを生成し、少しずつ国土を豊かにした。それこそ、焼畑やら灌漑やらといった手段をとれる程度にね。だけど、始祖呪紋は制御が効かない代物だった。……作った当初は、マナは恩恵を生むだけのものという考えだったんだろう。抑制の必要があるとは思っていなかった」
しかし、それは誤っていた。あまりにも高濃度で集積したマナは、自然には起こりえない現象を発生させてしまった。
状況としては、分け身の発生に近い。それが、五箇所の始祖呪紋全てで起こったのだ。
「始祖呪紋は、周囲のマナを纏って肉体を生成し、自立した活動を始めてしまった。もっとも、この段階においても、マナを増幅して放出するという、本来の機能は失っていなかった。しかし、自らが司るマナを増やすためならば、周囲の環境や動植物を破壊することまで始めてしまったんだ。……その強力無比な存在を、いつしか人は竜と呼ぶようになった」
竜に属性があるのは、単なる呪紋であった頃の名残だ。
ヴォルドの北端、『竜の腹』には、地のマナを生み出すための始祖呪紋が配置されていた。地の竜は、今もその古い指令に従い続けているのだ。
同様に、ベルの故郷を襲った竜が棲む南の地には、火のマナを放出する始祖呪紋が置かれていたはずである。
「そのような明確なきっかけがあるのであれば、竜が活動を始めた時に、対処しようという動きがあったはずだ。討伐ではなく、呪紋を消すという方向でも進められただろう」
「でも、そんな話は聞いたことありません。それどころか、呪紋がきっかけで竜が発生したことも知られていないし……そもそもそんな凄いことができた呪紋が、王都で廃れているのは不自然です。かつての王様が開発した技術なんでしょう?」
ジョゼットとベルの意見はもっともである。実際、それには事情があるのだ。
「竜が発生したのは、初代国王の存命中だった。彼は竜を正しく脅威として認識し、自分が作った始祖呪紋を無効とする呪紋を開発、それを剣に宿した。討伐を実行しようとしたんだ。しかし、同じ頃に別の脅威が現れる」
「別の脅威……?」
「ヴォルドの周囲を取り巻く他国の手だ。今まで見向きもされなかった枯れた土地が、急に豊かになったと聞いて、侵略が始まったんだ」
そして、その脅威はあっさりと振り払われる。
討伐を予定されていた火の竜ラーヴァが、進軍してきた隣国の部隊を完膚なきまでに焼き尽くしたのだ。
「竜の討伐に、待ったがかかった。竜は確かに強大で危険な存在だったが、国の四方に陣取る彼らは、居るだけで強固な盾になり得たんだ」
当時は国力に乏しかったヴォルドにとって、それは無視できない要素だった。
王都として発展しつつある中心部において発生した水の竜が、比較的穏やかな気性であったことも、討伐推進の動きを鈍らせた。本来土地に紐づけられた呪紋であったからか、竜たちが大移動することがないというのもわかってきた。
さらに言えば、元々始祖呪紋を管理していた一団が、竜を鎮める手段を見出すという例も報告された。
「初代の王は、竜の討伐を先送りにすることを決めた。多少の被害があるにしても、竜は残しておいた方が、国の安定につながると判断したからだ」
「……呪紋が王都で廃れたのは、竜の発生に関わる記録を薄めるためか。王族が噛んでいるというのは、知る者が少ない方が良い……わが先祖ながら、小賢しいやり口よ」
ジョゼットが忌々しそうに吐き捨てる。
彼女の言うとおりだ。竜の発生以降、呪紋に関する知識は少しずつ規制されていった。今では古い村や町に資料が残るばかりで、呪紋士を名乗る者など数えるほどしかいない。
そうして、竜と呪紋の関係性は、次第に忘れ去られていった。元々始祖呪紋を管理していた一部の団体を除いて――
「とはいえ初代の王とて、何一つ対策を講じず、後世に丸投げしたわけではない。さっきも言ったが、始祖呪紋を打ち消す呪紋自体は作っていたわけだからね。彼は、その時に制作した数本の剣を『鍵』と称して、王室に伝えることとした」
「つまり、それがジョゼット様の持っている……」
「あの装飾剣が、十中八九そうだろう。もっとも当の王族は、その剣の何たるかを失伝しているようだが」
僕がベルの剣に施した、急造の対竜呪紋とは訳が違う。
その存在の根幹を断つ、正真正銘の竜殺しだ。
僕にはその剣に施された呪紋の痕跡は見えないし、実際どういう仕組みで竜由来のマナを斬っているのかまではわからない。しかし、状況から考えれば、その線が最も現実的だ。
竜由来のマナを斬るというよりは、呪紋というシステムそのものを無効化しているのかもしれない。そうであれば、ジョゼットが豆岩をうっかり破壊してしまったことにも説明がつく。
「……竜の発生のこと、それからこの剣のことはわかった。そろそろ、この村の悪習について話してもらおうか」
悪習ときたか。余程、腹に据えかねているようである。
「このタラスコは、始祖呪紋の管理を任されていた一団が作った村だ。始祖呪紋が竜となってからも、ずっとこの地で見守り続けている。竜を鎮める手段をいち早く見つけ、王都から忘れられてもなお、竜の被害を抑え続けてきた」
「鎮める手段だと? それが生贄だとでもいうのか?」
「婿入りです、ジョゼット様」
ニコラが律儀に口を挟む。
ジョゼットが彼をじろりと睨むが、ニコラとしても、この表現の違いは譲れない部分らしい。温和そうな下がり眉の間に、精一杯のしわが寄っていた。
「……地の竜は、自らが暴れて被害を出すような性質はなかったが、放っておくと際限なく毒素を垂れ流す厄介な存在だった。草木も水も汚染され、それを口にした魚や動物、そして人間を蝕む。その毒が流れ出る限り、ヴォルド北部は安住の地にはなり得なかった」
「それは地の竜の性質としておかしくないですか? 毒で漬けて土が豊かになるとは思えません」
「それは人としての感覚だ。植物はそもそも、地のマナを吸い上げて別のものに変換しているわけだからね。そして、死んだ動植物はやがて土に還る。地のマナを増やすだけが目的なら、理に適っているんだよ」
質問をしたベルはいまいち納得できていない様子だが、これはそういうものだとしか言いようがない。
そして重要なのは、これが人にとって害であったという一点のみだ。竜の毒についての合理性など、今論じたところで不毛である。
「この毒の流出だが……原因はやはり、溢れ出る竜のマナだったらしい。そして、マナの受け皿として生身の人間を用意することで、およそ一年の間、毒の流出を抑えられることが分かった。受け皿として最適な年齢が十歳であることや、性別は男の方が良いということも明らかになっていった。タラスコの民はこの術を一連の儀式として組み上げ、何百年も行い続けてきた」
それが、竜の婿入りである。
「何故十歳の少年なのか……はっきりとした理由はわからない。地の始祖呪紋を作り上げた頃の王が十歳だったからだとか、人を構成するマナは十歳の時にピークを迎えるだとか、色んな説はあるけど、どうせ真相はもう闇の中だ。何はともあれ、効果は確かにあった。この婿入りの儀式を始めてから、『竜の腹』をはじめとしたヴォルド北方に、毒が流れ出すことはなくなったんだ」
反論や質問に上手く答える自信がないため、僕はここまで早口で言い切った。
僕が提示できる情報は事実のみだ。これをしたら、ああなった。入力と出力。それ以上のことは、どうしたって推測が混じる。
そういう僕の意図は組んでくれたのか、ジョゼットは婿入りの儀式が確立された経緯については、それ以上踏み込まなかった。
「……いつまで、こんなことを続けるつもりだ」
代わりにジョゼットが口にしたのは、この体制を変えるつもりがないタラスコの民への怒りであった。
「毎年毎年、我が子を奪われる父母がいるのだろう。何百人もの子供が、理不尽に未来を奪われてきたのだろう。そんなことが許容されていいわけがない。村の男は何をしていた。愛する者を失うというのに、剣を握ることもできんのか。せめて、王都に陳情の一つでも出せんのか。こんな奥地でひっそりと、竜の餌を生産し続けるような生き方……残酷だと思う者が、一人もおらんというのか!」
「いるはずがございません」
嘆きにも似た彼女の叫びは、きっぱりとした否定に阻まれた。
ニコラではない。声の主はロシェ――まさに明日、婿入りに臨む竜の神子その人である。
ジョゼットの表情が、ぐしゃりと崩れた。
「私が神子に選定されたことを、父母は誉れ高く思っております。友人にも祝福されながら育って参りました。私自身、この誇らしい任を授かった喜びを胸に、明日という日を心待ちにして生きてきました。タラスコの民は尊き大地の担い手。どうか王女様、私に成すべきことを成す御赦しを下さいませ」
礼儀正しく、深く頭を下げるロシェ。ジョゼットの目線がせわしなく彷徨い、何かを叫ぼうと開かれた口からは、虚しいほどに浅い呼気の音しか出てこなかった。
ロシェから滲み出る教養は、彼が大切に育てられたことを物語っている。その純朴さは、彼が愛されて育ってきたという事実を強調する。
ジョゼットは竜の婿入りを悪習と断じた。確かに、外から見れば、それが当然の捉え方なのだろう。
しかし実際のところ、タラスコの民は誰一人助けを求めていない。ジョゼットの言う「生贄」でさえ、一切の不満を抱いていないのだ。さらに、彼らの献身は、事実としてヴォルドの地を守り続けてきた。
率直な話、文句を言われる筋合いはないのだ。
「……随分と冷静ですけど、マルクさんは何とも思わないんですか」
言葉の出ないジョゼットを案じたのか、ベルが僕に質問をぶつけた。
「確かに、彼らに不満はないのかもしれない。でも、私はそう簡単に納得できません。彼らの犠牲を知らずにのうのうと生きておいて、と思われるかもしれませんが、それでも子供を竜に差し出し続けるなんて儀式、はいそうですかと納得したくないです。マルクさんだって、そういう思いはあるんじゃないですか。大体、マルクさんは地の竜に一度は殺されかけたって話していたじゃないですか。こんな風習があるって知った時、マルクさんだって……」
「ベル。それは違うんだ。逆なんだよ」
もうこれ以上誤魔化していても仕方がない。それに、棘のある彼女の声を聞いていたくなかった。
「僕は、かつて竜の神子だった。竜に身を捧げることを心から望んでいた。そうではない視点を得たのは、死に損ないの『竜気憑き』になった後なんだ」
故に、婿入りの儀式を知ったときに怒りを覚えたジョゼットやベルとは、抱く感情の前提が違う。
ロシェと同じように、この村で大切に育てられ、大地に溶けることを至上として生きてきたのだ。そこに疑問が入り込む余地はない。
しかし、何の間違いか、僕は生き残ってしまった。十歳が終着点だったはずの人生は、僕が『竜気憑き』となったことで、幕が閉じなかったのである。
僕は、次代の竜の神子が婿入りに臨む際に保護され、訳の分からないまま村に帰還した。拒まれはしなかったが、居心地が悪かったのは覚えている。両親も、友人も、どう迎えたものかと困惑していたのだ。僕としても、この村ではこれ以上、何一つやることがないのだろうという予感があった。
程なくして、僕は村を出る決意を固める。外ならば、何か自分に意味が見つかるかもしれないという、子供らしい安易な思考ではあった。
自分の意味などという大層なものを得たかと言えば、それは今でもわからない。ただ、結果として僕は多くの知見を得た。タラスコが如何に狭い世界であったか、そして閉ざされた場所であったか、村を出なければきっと知ることはなかっただろう。
ベルの言う通り、今となっては、竜の婿入りを神聖で潔白な儀式として認識してはいない。
それでも、頭からすべてを否定されるような慣習ではないという思いがあった。
「そういう信仰の下に生きて、そういう歴史を刻んできたんだ。それは悪いことなのか? 正さなければいけない過ちか? 悪意どころか、諦めさえもここにはない。皆が納得して築いてきた文化なんだ。……それでも貴方は、この在り方に介入するっていうのか?」
僕は強い口調で、ジョゼットに詰問した。
ベルも、ガストンも、口を開かなかった。胸の内に思いはあるだろうが、ここからは主の判断次第であると、二人とも腹を括っている。
アンリは眠そうな瞼の奥で瞳を光らせながら、ジョゼットに目を向けている。ニコラとロシェは、抗議するというよりは祈るような面持ちだ。
この部屋に集まった全員の視線を受けながら、ジョゼットは長考し――やがて、重々しく宣言した。
「それでも、だ。ガストン、撤収は取り消す。竜討伐を継続するぞ」
なんとなく、その答えが返ってくるような気はしていた。
「それは、ロシェのためか?」
「この子だけではない。ロシェと、彼に続く子らのためだ。そして、今まで命を散らしてきた者たちへの弔いでもある」
「本人たちは、そんなことを望んでいない」
「これは私の望みだ。竜を討ち、古い慣習に終止符を打つ。今は自己満足でいい。批判も甘んじて受けよう。だが、いつか必ず、私の考えは伝わる」
「本体を仕留めれば、分け身も残らず消え失せるぞ。ここで住む動物たちはどうなる? リンドブールの産業は? 村人の暮らしをどうするつもりだ?」
「言われずとも、保護に動く。まとめて面倒を見てやる」
「やってから言え。人が死ぬぞ。時期尚早だ」
「今やらねば、ロシェが死ぬ。私がここを離れれば、婿入りは予定通り行われるのだろう。順序は変えられん」
「この人数と装備で挑むつもりか? 勝ち目があるとは思えない」
「竜殺しが二振りある。一本は貴様が作った即興だがな。そう悲観したものではない」
「……どうあっても聞かないつもりなんだな?」
「分かりきったことを訊くな」
強い意志を宿した瞳が、青く燃えている。先ほどまでの感情的なだけの荒れた眼差しとは違う。信念に基づく、決意の輝きがある。
人を惹きつける光だ。しかし、同時に危うくもある。
――僕は、どうするべきなのだろう。
目を閉じて自問してみる。
僕とて愛国心というやつはある。当たり前に、この国とそこに暮らす人々が幸せであればいいと思う。ガストンのような優秀な男が、正しく忠義の騎士であるのは健全な国の証だ。ベルのような身の上の女が、善意の下で保護され、王女の傍付きにまで取り立てられたという話は、実に誇らしいことだと思う。アンリのような暢気な奴が、のらりくらりと過ごせる懐の広さも愛おしい。
ジョゼットの力になってやりたいという気持ちはある。しかし、彼女の背を押すのが本当に「力になること」なのかという思いが同居する。
ならば、僕はどうするのが正解だ?
「…………わかった」
深い思案の末、僕はジョゼットの青い瞳に向き合った。
「最終確認だ。貴方は竜という環境を破壊する覚悟があるんだな?」
「それが悪しきものならば」
一瞬の躊躇いもなく、彼女は断言する。
その言葉の重みを――きっと、理解することなく。
いいだろう。こちらも踏ん切りがついた。
どうせ一度死んだ身だ。ひとつ、こんなことに命を賭けてみるのも悪くない。
「……君の言葉に従おう。手を貸すよ」
ジョゼットが表情を変えずに頷く。ガストンとアンリは、異を唱えずに目を伏せた。ベルだけは感情を隠そうともせず、顔いっぱいに喜色を滲ませていた。
少しだけ胸が痛む。しかし、やりきらなければいけない。
隠し事はあと一つ。
これが最後の一芝居だ。
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