第2話 竜の腹(2)

 始まったのは、一方的な蹂躙だった。


 驚くことではない。予想通りの結果だ。

 誓って言うが、僕は自分の知識を出し惜しみしていない。爪と牙に猛毒があるため、けして触れてはいけないこと。小さく見える翼だが、その羽ばたきによる暴風は侮れないこと。尻尾の動きが非常に速いため、背後はかえって危険なこと。火の竜ほどの征圧力はないが、十分強烈な炎を吐くこと。全て事前に伝えている。慎重に、周到に当たるように、嫌というほど言い含めた。


 その上で、精鋭部隊は手も足も出すことができなかった。


「マルクゥ! まだ整わねえんか!」


 前線を駆け回るアンリが叫ぶ。怒鳴られずとも、わかっている。こっちも忙しいのだ。


「よし。立てるな」


「……恩に着ます、呪紋士殿」


 即効性のある賦活剤と活性の呪紋符の効果で、若い騎士はどうにか立ち上がる。彼は竜の尾の一撃を避け切れず、盾で防いだものの弾き飛ばされ、地面に強く叩きつけられていた。軽傷とは言えないが、自分の所持品で対処できる傷であったことに安堵する。


「早く行け。奴に気づかれたら、また追い回される」


「しかし王女がまだ……」


「余力のある者でどうにかする。あんたは他の奴の面倒を見られるような身体じゃない」


 若い騎士は眉間に深いしわを寄せ、しばし歯を噛みしめていたが――やがて力なく頷いた。

 低木に身を隠しながら、来た道を戻っていく騎士を見送り、僕は再び竜に目を移した。


(……これで、十人。後はもう……彼女だけか)


 負傷者は全員逃がした。――たった一人を除いて。


 王女を庇って炎の直撃を受けた女騎士は、まだ残り火に焼かれていた。確認しなくてもわかる。あれは即死だ。

 当のジョゼットは、彼女の前で膝を折っていた。表情までは見えないが、彼女の背中にあの自信に満ち満ちたオーラはない。


 ジョゼットがああなってから、僕はすぐに撤退の指揮に入った。王女を守るためでも、兵士を生かすためでもない。主のために、迷いなく身を張ったベルに報いるためだ。


 部隊の中心人物であるガストンが、すぐさま同調してくれたのが幸いだった。アンリを中心に、動ける人間で竜の注意を引いてもらい、僕は怪我人の処置を優先した。立てるようになった者は、すぐに下山を促す。比較的怪我の軽い者には、重傷者の運搬を任せる。

 そうやって少人数ずつ、とにかく目立たないように退却を進めた。


 しかし、そうしているうちにも動ける者は減っていく。いたちごっこが終わる頃まで飛び回っていたのは、とうとうアンリとガストンの二人きりだった。


「待たせた、アンリ!」


「ようし! ガストンのおっちゃん!」


「心得ている!」


 アンリが双剣を鞘へ納め、同時にガストンがジョゼットの方へ走る。竜の視線はガストンを追うが、それを許すアンリではない。


「こっちだ、カメ野郎ォ!」


 短剣から噴き出した炎が、長剣から発した風で威勢を増す。御前試合でガストンに放った火槍とは比べ物にならない炎の渦が、竜の顔面に直撃した。

 ダメージはない。しかし目は引いた。


 ガストンはその僅かな隙で、ジョゼットの下へ辿りついていた。


「ジョゼット様、失礼を」


 ガストンがジョゼットを担ぎ上げる。これで後は、僕たちが逃げるだけだ。

 しかし、この段階になって、茫然としていただけの王女が足を引っ張った。


「ベル! この、離さんか、ガストン! ベルがまだ……!」


「お静まりください! もう、遅い……!」


「口答えするな! あの程度の炎で、ベルが死ぬものか!」


 ああ、もう。その不必要によく通る声で騒ぐんじゃない。

 王女の迂闊さに対する叱責を歯噛みで押し殺し、僕は再度竜に視線を向けた。


 竜の注意が、アンリからジョゼットに移っている。


 既に逃げの姿勢に入っていた身体を翻し、僕はガストンの援護に向かった。

 いくらガストンといえど、女性一人を抱えたまま竜の攻撃を捌くのは無理がある。アンリの放った炎が再び竜を襲うが、それは背中の鱗に弾かれただけで、竜はそちらを一顧だにしなかった。


(どうする……!)


 竜の口がガバリと開き、喉の奥からしゅうしゅうと異音が漏れる。アンリの炎とは桁の違う、竜の火炎の前兆。狙いはジョゼットを抱えたガストンだ。まだ遠い。間に合うか――?

 僕は、呪紋をびっしり刻んだ小箱を鞄から取り出し、黒曜石の杖でなぞる。封を開けて、中の青い粉末を摘まんだ。


「急げ、ガストン! 僕の後ろに!」


「ええい!」


 彼と僕の距離は、あと十歩となかった。しかし無情にも、燃え立つ竜の咆哮が放たれる。


(駄目だ、間に合わな……)


「まだだぁぁぁっ!」


 突如、ガストンが加速した。違う、突き飛ばされたのだ。アンリではない。誰だ。煤に塗れた、赤い鎧――

 その意味するところを理解する前に、僕は目の前に粉末を撒いていた。


 バシャアアアアアア!


 竜の炎と粉末が触れた瞬間、水のヴェールが形成された。半球状のそれが盾となり、炎は目の前で霧散していく。

 後ろを振り返ると、ジョゼットと彼女を庇うようにして倒れているガストン、そしてぶすぶすと煙を上げているベルが転がっていた。


(どういうことだ……? いや、考えるのは後か!)


 ベルの復活は衝撃だったが、それについて悠長な説明を待つほど、状況は穏やかではない。この水のヴェールも長くは保つまい。


「マルク! どうなってんだ、こいつは!」


 竜とその炎をぐるりと迂回してきたアンリが、一行に合流する。

 ひとまず、これで何の憂いもなく逃げられる。


「話はここを凌いでからだ。あれに入るぞ」


 僕は竜が這い出てきた大穴を指し示す。今の位置関係なら、あの穴は竜から死角になる。


「巣穴に突入するというのか?」


「あれは巣じゃない。理由なく、奴が穴に戻る可能性は低い。いいから続いてくれ」


「よしきた! おいら一番乗り~」


 ガストンはいまいち信用しきっていなさそうな表情であるが、幸いアンリがすぐさま従ってくれた。軽い調子で穴に飛び込む彼に続き、僕もさっさと下へ降りることとする。


「ジョゼット様、私たちも」


「……うむ。続け、ガストン」


 近くに放り出されていた他の兵士の荷物を拾い、ベルが僕の後を追う。彼女に促されてジョゼットが、少し遅れてガストンが続いた。


 穴の中は緩やかな勾配となっており、足元は悪いが、すぐさま落下するような危険性はなさそうだった。


「仕上げだ」


 僕は鞄から三粒の豆を取り出し、地面に放った。そしてすぐさま、杖の石突でそれらを強く地面に押し入れる。

 その瞬間、豆は爆発的な速度で蔦を伸ばして葉を茂らせ、僕たちが通ってきた穴を覆った。


「うえぇ、真っ暗になっちまった」


「誰か、ランプを」


「こう暗くては探せません……」


「アンリ、火」


「おお、任せろ」


 すぐ隣で短く刃鳴りがする。ガストンや竜を狙った炎とはまた違う、ちろちろとした控えめな灯火がアンリの短剣から沸き上がった。


「ありがとうございます。便利ですねぇ、それ」


 うへへと笑うアンリの顔は、短剣の灯に照らし出されて実に不気味である。

 ベルも同じことを思ったのか一瞬表情が引きつっていたが、特に口に出すことはなく、先ほど拾い上げた革袋を漁り始めた。


「……蔦が、岩のように。面妖な」


 ベルが荷物をひっくり返している脇で、ガストンが先ほど僕の撒いた豆をコツコツ叩く。その硬質な音は、明らかに植物が出す音ではない。

 彼の比喩は実際、的を射ていた。先ほどの豆は、育ち切ることで周辺の鉱物と同化するようにできている。即席の盾、あるいは目くらましの道具だ。


「そんなことより、私はあの成長速度が気になるのだが……」


「変換、促進は呪紋士のお家芸だ。あまり難しい技術じゃない」


 ジョゼットはしきりに首を傾げているが、そうしたいのはこっちの方だ。どう考えても、それを上回る異常が真横にいるではないか。


「あぁ、よかった。アンリさん、火を少し……はい、結構です。ありがとうございます」


 無事にランプを発見し、点火するベル。ほう、と息をつく横顔からは、疲労こそ見て取れるものの、言ってしまえばそれだけだ。竜の吐く炎が直撃してこの程度というのは、流石に常軌を逸している。鎧で着固めているとはいえ、衣服の損傷も明らかに少ない。


 あの炎に対して、特殊な防御が働いたのは間違いなかった。


「……」


「アンリ、気持ちはわかるがやめろ」


 火の灯った短剣をベルに近づけるアンリを制止し、僕は改めて彼女に向き直る。


「とりあえず礼を言っておく。君がいなければ、王女もガストンも間に合わなかった……だが、説明はしてもらってもいいか? 正直、未だに君が立っていることが信じられない」


「……うん、まあそれはそうですよね。しかし、どう説明したものか」


 ベルはぽりぽりと頬を掻く。やはりそこには火傷の痕すらない。


「ベルはな、如何なる炎も寄せ付けぬ特異体質の持ち主なのだ」


「……混乱しているのはわかるが、出まかせを言うのはやめてくれ。大体、それならどうして貴方が放心する必要があったんだ」


「流石に目の前で大炎上されたら気が動転してしまった。ベルの一発芸のことなど、すっかり忘れていた」


「……おい、ベル。この王女では話にならない」


 先ほどのショックで、頭のネジがいくつか外れてしまったのかもしれない。いまいち目の焦点が合っていないジョゼットを押しのけ、僕はベルに詰め寄った。


「ええと、ですね。実はジョゼット様の言うことはあながち間違っていないのです」


「……何?」


「にわかには信じ難いことかと思いますが……」


 ベルが左手の手袋を外す。そしてその手を、未だに火が揺れている短剣にかざした。


「アッツイ! アツイーッ!」


「おわー! ちょ、マルク、おいら悪くねえぞ!」


「だ、大丈夫です。大丈夫……ほら」


 掲げられた彼女の左手には、火傷どころか痕すら残っていない。熱がっていたことから、感覚ごと遮断しているわけではなさそうだが、彼女が火に耐性を持っていること自体は事実らしい。


 となると、先ほどの火炎の直撃も物理的なダメージはなく、高温のショックで意識を飛ばしたに過ぎなかったということか。信じがたいが、現状の情報を咀嚼すればそうとしか思えない。


 この件についてはガストンも知らなかったようで、彼もまたベルの手のひらをしげしげと観察していた。


「どういう仕掛けだ……?」


「それが私にもよくわからなくて……あ、きっかけは覚えてるんですけど」


「そんなことよりマルク」


 唐突に会話を断ち切るジョゼットに、僕は抗議の目を向ける。もっとも、彼女がそれを意に介している様子はなかった。ベルは困ったように眉をひそめて笑っていた。


「……この驚きを『そんなこと』と切り捨てるだけの内容だったら、言ってみてくれ」


「うむ。すっかり和んでおるが、ここは安全なのか? 先ほどは勢いでこの中に入ったが、竜がここを掘り返さない保証はあるまい」


 ジョゼットが、蔦が変質した石の壁をコツコツ叩く。


 思ったよりはまともな質問だった。それに、声音が幾分正常に戻ってきている。彼女が嫌味を気にしている様子はないが、僕は一旦ベルの件を置いておくことにした。


「さっきガストンにも言ったが、ここは巣穴じゃない。単なる奴の通り道、そして食事の跡だ。奴は比較的硬い地盤を選び、岩や土を食いながら移動する。既に掘られた穴に竜が戻るというのは、僕の知る限りでは一度もないことだ」


「ほう。竜の生態には謎が多いと言っておったはずだが、そう言い切れる材料があるのか」


 やはり、彼女の語り口は理知的なものに戻ってきている。傲岸不遜なのは変わらないが、僕は少し安心した。


「リンドブールの男なら、竜洞……ああ、こういった穴のことなんだが、誰だって一度はここに入るんだ。何せこれは、村の経済を支えていると言っても過言ではないからな」


「竜洞は、イイ石がたっくさん取れるんよ~。ウチは野菜とかあんまり育たないから、これで回ってるわけ」


「安定して産出される上質な鉱物資源が、リンドブールの経済を支えている。そしてその多くは、竜の掘った穴から採掘されるんだ」


「そして、村の鉱夫が竜に遭遇した例はない、ということか」


 ガストンの言葉に、僕はこくりと頷く。


 リンドブールでは、竜洞を利用した鉱物採取が比較的安全な仕事とされている。山に入って帰らない人間はいなくはないが、それは山に潜む別の脅威が原因になっていることが多い。どちらかといえば、狩猟などのほうが危険という認識が一般的である。


「しかし、奴は先ほどまで私たちを襲っていただろう。あれの知能がどの程度かは知らんが、獲物がここに逃げたと理解したら追ってくるのではないか」


「奴から見えない位置だったから、ここに飛び込んだ」


「わからんぞ。穴を掘って移動するような奴だろう。臭いや音で察しているかもしれん」


「それならもう一つ根拠を示そう」


 なおも言い募るジョゼットに、僕は入り口をふさぐ石の壁を指し示した。


「さっき穴を塞いだ豆。今は石みたいになっているけど、あくまで植物だ。ここに来るまでに話しただろう。ここの竜は土と岩石が好物で、植物が嫌いだ」


「……ピンとこない」


「王女、貴方の好物は?」


「木苺のたっぷり入ったパンケーキだ」


「嫌いなものは」


「ベルが真っ黒に焦がした卵焼き」


「ちょっとジョゼット様!」


 もぉ~、とベルがむくれる。料理下手なのか。いや、そんなことはどうでもいい。


「食卓にパンケーキが所狭しと並べられている中、一か所だけ真っ黒な卵焼きが置いてある。避けるだろう、普通」


「そこだけ焼き尽くす。視界に入るのも許せん」


「ひどい!」


 駄目だった。この威勢だけはある暴力の化身に、歩み寄ろうとしたのが間違いだった。


「まあ、仮説と言ってしまえばそこまでなんだが……故あっての判断だというのは、一応理解してほしい。竜がどこかへ行くまで、そうだな……半日ほど待ってから、ここを出るってものだろう。それまでは体を休めて……」


「本当に安全なのだろうな。ふん! ふん!」


「頼むからもう少し慎重に……」


 やたら高価に見える剣の鞘で、ガツンガツンと豆岩の壁を叩くジョゼット。

 見ていられなくなって、僕はため息とともに腰を下ろした。


「あっ」


 それと同時に、素っ頓狂なベルの声が聞こえた。

 いやな予感がした。


「すまん、マルク。穴が開いてしまった」


「そんなバカな……」


 岩石の壁が、あんな非力な打撃に屈するわけがない。

 そう思ったのも束の間、ジョゼットとベルの目の前の壁から、ずるりと黒い突起が飛び出してきた。


「うぇぇ! 冗談だろぉ!」


 アンリが飛び退き、ガストンが構える。

 これは、竜の爪だ。豆岩の壁を貫通している。いや、今しがたできた穴を突っついているのか。


「ちょっとマルクさん! 話が違いませんか!」


「ぐっ……!」


「マルク、こりゃあ奥に行くしかないような!」 


 アンリの言うことはもっともだ。竜洞は『通り道』の性質上、必ず出口が二つある。こうして一つが押さえられても、時間をかければ脱出自体は可能だ。


 こんな狭いところで竜と正面から向かい合うなど、正気の沙汰ではない。とにかく今は、逃げの一手である。


「豆! さっきの豆はもうねえのかよう!」


「わかっている!」


 アンリに急かされるまでもなく、僕は鞄から目当てのものを探り出して足元に撒く。杖の石突でついてやると、豆は瞬く間に蔦を伸ばし、葉を茂らせた。


「マルクさん! 石になってない! ただの豆!」


「嫌がらせならこっちの方がいい! ……はずだ」


「はずって! しっかりしてくださいよ~!」


「こっちだって想定外が続いてるんだ!」


 石にしたところで、竜が壊そうとしているなら飴細工も同然だ。物理的な効果について、石でも植物でも大差はない――はずである。

 ベルが抗議したくなるのも無理はないが、僕だって全知全能ではない。焦っているのは同じである。


「そら見たことか。私の推測が正しかった」


 そして、腹の立つ表情でこちらを煽るジョゼット。調子が戻って来たのは結構だが、こいつは今の窮状を理解しているのだろうか。


「悪かったよ。暴力性が竜に似ているんだな」


「ははは! 褒めるな、褒めるな!」


 こちらの皮肉は意にも解さない。無駄なエネルギーの消費らしいので、これ以上言い返すのは止めておいた。


 僕は喋りながら全力疾走を続けられるほどの体力自慢ではないのだ。

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