第2話 竜の腹(1)
酒宴の翌々日、僕は正式に先遣偵察隊への参加を言い渡された。
準備期間は二日。身辺整理するほどの財も縁もない僕にとっては、長すぎる程の余暇である。せいぜい、向かいのリリおばさんが大事にしているリンゴの木に、防虫の呪紋を施した肥料を与えるくらいしかやることがなかった。
闇色をしたローブを羽織り、持って行けそうな呪紋具を詰め込んだ鞄を肩にかける。竜が棲む北の禿山――『竜の腹』の深くで切り出した黒曜石をあしらった杖は、呪紋の励起を加速し、効力を強化する、謂わば僕の切り札だ。革紐でベルトに括り付け、しっかりと右手に握っておく。
「準備はできたかい、マルクの旦那ぁ」
ひょっこり顔を覗かせたアンリは、双剣の他には食糧すら持っていなさそうなほどに軽装だ。そういった必需品はジョゼットらで用意するという話だが、不用意に過ぎると僕は思う。はぐれるかもしれないし、何なら一人で逃げることになるかもしれないだろうに。
もっとも、そういった極限状態における彼の行動についてなど、どうでもいいことだ。どうせこいつは勝手に生き残る。
「ああ、もう出るよ」
「雇われが遅刻ってわけにもいかないからねぇ。さぁ、出発! フラムとバンもご機嫌だ!」
炎の短剣フラムと、風の長剣バン。
アンリ自身が打った傑作に、僕が呪紋を施した武器である。納刀状態から特殊な抜剣をすることで、片や炎を、片や風を生み出す。仕組みとしては至ってシンプルだが、アンリの技量の補助としてはこの程度の方が良い。僕がアンリと商売を始めて半年程した頃、彼から頼まれて制作したものだった。
もっとも、この双剣に意思はない。断じてない。
「どしたの? 売れ残ったキャベツみたいな顔になってるぜい」
「君と会話していると、鮮度が下がるようだ」
たはー、と呑気に笑うアンリに、僕は肩を竦めた。
* * *
僕とアンリを含む十五名で編成された先遣偵察隊は、『竜の腹』へと徒歩で出発した。
馬は、竜の咆哮ひとつで散り散りになる可能性がある。長い行軍の予定はないため、物資は基本的に人力で運搬することになっている。
隊列を先導するのは、僕と同じく山に慣れているアンリである。その後ろに武装した騎士が三人続き、ジョゼットとガストンがそれを追う。そこからは武器に加えて物資を背負った騎士たちが続き、殿が僕というかたちになっていた。
「てっきり、ジョゼット様はマルクさんを先頭におくものと思っていましたが」
「僕が断固拒否した。矢面に立つのは御免だ。いつでも逃げられる場所にいたい」
「撤退の段取りが重要というのは理解できます。良い判断かと」
屈託のない表情で、ベルがそんなことを言い出す。
彼女に自覚があるかどうかは定かではないが、何やら一人では逃げ辛くなった。ジョゼットとは違った意味で、ベルもなかなか厄介な相手である。
「前しか見えない人ですからねぇ、ジョゼット様は。マルクさんのように後ろ向きな方が近くにいた方が、私も安心です」
聞こえとるぞー、と隊列の前の方から声がする。すみませーん、と返すベルの態度は、主君へ向けたものというよりは、やんちゃな妹への対応のように見えた。
「……」
ベルが無遠慮なのか、ジョゼットが寛大なのか――いや、恐らくはその両方だ。この赤づくめの女騎士がどういった経緯で傍仕えをしているのかは不明だが、強固な信頼関係を感じた。
「それにしても、本当に木が少ないですね。遠目から見ても、あまり緑豊かには見えませんでしたが」
「まあ、ここに棲んでる竜は土とか岩石とかが好きだからな。そういう性質の土地になる」
「そういう性質に……なる、ですか?」
ベルが首を傾げる。そうか、こういう話も初めてか。
竜の討伐を目指す一団としてどうなのかとも思うが、ここで一兵士を責めても仕方がない。
別の言い方を頭の中で探っていると、隊列をかき分けてジョゼットが最後尾までやって来た。
「私のいないところで、何やらおもしろい話をしようとしているではないか。貴様、ベルにばかりいい顔しおって」
「……単純に、僕は貴方が苦手なんだ。ベルに対しての言動が、僕のいつも通りだよ」
「無礼な奴だ。しかし、私は貴様のそういう部分を気に入っている。遠慮なく、ドンと来るがよい」
追い払おうとしても、立て板に水ときた。厄介すぎる。
ベルはそんな僕に同情の笑みを向けながら、まあまあと場を執り成した。
「それで、どういうことなんですか? 竜の好みとか、土地がどうとか……」
「そうだ、聞かせてもらおう。わかりやすく頼むぞ」
「……別に大した話をするつもりじゃないからな」
ここで口をつぐむほど、王女に意地悪をしたいわけではない。というか、本当に雑談程度の話題なのだ。それについては断りを入れておく。
「『竜の腹』に棲む竜の名くらいは把握しているな?」
「地の竜デュラテールでしたよね。はい、なので土とか岩石が好きっていうのは、なんとなくわかるんですが……」
「故に草木の少ない岩山を棲みかにしている、ということではないのか? 木の竜アルベイラは迷い森の奥に潜むというし、火の竜ラーヴァは火山の中に巣を作るという。棲みよい場所に居ついただけだろう」
その方が自然に思えるのは当然だが、実際のところは異なる事情がある。順序が逆だ。
「そうだな……では、話に上がった火の竜を例としよう。わかりやすいからね」
火の竜ラーヴァは、ヴォルドの南の果てに位置する火山群に巣を作っているとされる。先ほどジョゼットが言った通りだ。
そして、その火山群に辿り着くまでには、広い砂漠を越えなければならない。ラーヴァの活動域は、そのほとんどが高温の乾燥地帯である。
「イメージから言って、火の竜が暑くて乾燥した地域に棲みついたように思うのは無理もない。実際、今のヴォルド南部はそういう気候だからな。けれど、竜が現れる前のヴォルド南部は、どちらかというとじめついた地域だったんだよ」
「……知りませんでした。私、南の生まれなのに……」
頬を赤らめ、ベルがううぅと唸る。
書物がなくとも口伝くらいはありそうなものだが、まあヴォルド建国以前の話だ。その気になって動かなければ、知り得ない情報なのかもしれない。
「それで? まさか、その気候の変化は竜の仕業だとでも言いたいのか?」
「よくわかっているじゃないか」
そんなわけがない、と噛みついてくるかと思ったが、ジョゼットは案外面白そうに僕の言葉に頷いてみせた。
「ほう……ほう。それはまた、どういう仕組みだ」
「詳しく説明すると長くなるが、竜が常に放出しているマナが影響している。マナはわかるか?」
「ぼんやりと。魔術を使う時に集める目に見えないエネルギーのようなもの、くらいの認識だ」
「……まあ、とりあえずはそれでいい。火の竜ラーヴァは、炎の魔術に使うようなマナを常に垂れ流しているんだ。それも大量にね。その結果、周辺環境が徐々に変化し、高温低湿の気候に変わっていった」
「言い換えれば、竜が自分の好みの環境を作り上げた、ということですか……」
火の竜が暑くて乾燥したところにやってきたのではない。
火の竜がやってきたから暑くて乾燥したところになったのだ。
恐らく最もわかりやすい、竜と環境変化の事例だ。
「そして、この山に木が少ないのも、竜の性質が影響していると言うのだな」
「火の竜ほど極端じゃないけどね。地の竜デュラテールは、土と岩を好む。本来豊かな土は豊かな植生を育むものだけど、多すぎる地のマナは、植物の生育を阻害する。植物が育ちすぎると土が痩せる原因になるからだろう。ここでは、草木よりも土や岩の方が上の立場なんだ」
「周りを自分が棲みやすいように作り変える……かぁ。何だかとんでもないですねぇ」
「まあ人間とて、住みよい環境作りくらいはする。そういうこともあるだろう」
ジョゼットの言葉は的外れでもないが、やはりスケールが異なる。自然現象そのものに人間が介入するというのは、まだまだ夢物語の範疇だ。人間と同列のものとして竜を考えようとしているのであれば、それは危険である。
まあ、その辺りの認識については、嫌でもこの旅で理解できるはずだ。恐らく、デュラテールに見えるまでもなく――
「マルク、備えろぉ!」
最前列を歩いていたアンリの、鋭い警告が走った。
普段の彼からは考えられないような逼迫した声。
僕は一瞬前まで考えていたことの全てを放棄し、右手の杖を握りしめた。
「何事か、アンリ!」
すぐさまジョゼットが前列に舞い戻る。腰の長剣を抜いたベルがそれに続く。偵察隊は流れるような所作で、半円形の陣を組んだ。
その隙間から見え隠れする、岩場の不自然な盛り上がり。
(……早かったな)
まだ山の中腹にも至っていない。偶然の遭遇だとすれば運が悪い……いや、撤退を考えるなら、幸いか。
問題は、ジョゼットも配下の兵も、戦う気満々で陣を形成している点である。
「後退しろ、王女! この距離は危険すぎる!」
「少しくらい突っついても構うまい! 行くぞ!」
警告はしてみるが、ジョゼットは聞く耳もたない。騎士たちの威勢のいい返事が、酷く空虚に聞こえた。
さて、どうするか。僕は速度を増す心臓の音を聞きながら思考する。
強行偵察という話だが、このまま戦闘を始めれば間違いなく死人が出る。正直一人で逃げ出してしまいたかったが、ベルの屈託のない笑みが過ぎり、その考えを手放した。
「来るぞ!」
大柄なガストンの五倍はありそうな岩石をいくつも押しのけ、それはのっそり姿を現した。
黄褐色のごつごつした鱗。ルビーのように輝く真っ赤な眼。
爪と牙は黒曜石よりも尚黒く、しゅうしゅうと絶えず煙を放っている。
翼は体躯に対して非常に小さく、およそ飛行に適したものには見えない。手足と首は短いが尻尾は長い。
胴体の太いトカゲ、あるいは尻尾の長いカメのような姿といえよう。しかし、大きさが桁違いだ。
その威容こそが、竜たる所以である。
腹の底まで震える、重厚な咆哮が響き渡った。
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