第2話 側仕えの日常
部屋を退出してから私は今後の仕事内容をサリチルから教えてもらう。
七日後に行われる舞踏会のために貴族の名前は全て覚えないといけない。
数枚の木簡を渡されて、最低限これだけは覚えろということらしい。
私は冷や汗をかきながら、内心の動揺を隠そうと努める。
何故なら──。
──字が読めないよぉ。
農村ではほとんど文字を使わない。
使える者はいるが、役に立たないため物好きしか覚えないものだ。
持って帰ることは許可されたので、後で弟に教えてもらおう。
勉強は苦手だが小金貨のために頑張ろうと袋に詰めていく。
「先ほどは主人が申し訳ございませんでした」
聞き間違いかと思った。
先ほどの話を聞く限り、側仕えは本来だと貴族がするものだ。
そうなると筆頭側仕えの地位に立つこの男は貴族ということになる。
まさか平民の私にお貴族が謝罪をするなんて露にも思ってなかったのだ。
「い、いいえ。私の方こそかなり失礼な──」
「確かにあれはよくはありません」
頭を上げたサリチルは真剣な目で見つめてくる。
怒っているとかではなく、指導として厳しい言葉を向けた。
「レーシュ様は下に対してあまり厳しくはしないですが、敵対するものには容赦がありません。そして今後エステルさんは貴族社会で主人と共にしていきます。同じような言葉を何度も浴びせられることだけは覚悟してください」
「はい……」
今になって冷や水を浴びたかのように自分の行動に恥じてきた。
貴族社会では平民の命なんぞ軽い。
ただ解雇されるだけならまだしも、弟や村の人々にまで危害が及ぶかもしれないのだ。
暖炉の焚き火の音が静かな空間で音を鳴らす。
ふーっとサリチルが息を吐き、元の温和な表情に顔が戻っていた。
「まあ、お茶の淹れ方や足運びなどはおいおい覚えていきましょう。エステルさんにはそれ以上のことを期待していますから」
「はぁ……」
何はともあれまだ魅力的な賃金をもらえるうちはこの家で頑張っていこうと思う。
使用人が他にいないため私一人で部屋全てを掃除しないといけない。
優先順位を決めて、五日の間に一巡するように計画を立ててもらった。
まずは玄関の拭き掃除を行うため、前の使用人が着ていた服を貸し出された。
青を基調としたドレスは動きやすいようにされているが、掃除で高価な服を着るのは客人を迎え入れる可能性があるからだろう。
白いエプロンを身に付けて、早速仕事に取り掛かる。
先ほど見た時は玄関も綺麗に見えたが、隅っこなどは汚れが溜まっている。
雑巾でどんどん汚れを取っていく。
部屋がいくつもあるのでどんどん仕事を進める。
──馬蹄の音だ。
チラリと窓から外を見ると豪華な馬車が屋敷の前に止まり、太った貴族が出てきた。
客人が来るとは聞いていなかったため、呼びに行くか迎え入れるのかを考えていると、いつの間にか正装へ着替えたレーシュとサリチルが階段から降りてきた。
「おい」
私は雑巾を持ったまま呆けているとレーシュから声を掛けられた。
そこで仕事中ということを思い出してすぐに掃除へ戻ろうとした。
「すみません! すぐに掃除を──」
「いらん、それよりも客人にお前を見せるわけにいかないからどこか部屋の中でも掃除しておけ」
私は見せるに値しないということだろう。
かなり失礼な物言いだが私も面倒ごとはごめんだ。
先ほどサリチルから注意されたばかりなので同じミスをするつもりはない。
笑顔を無理矢理作ってすぐさま移動する。
小部屋に入ってから誰もいないことを念のため確認した。
「ふぅ……」
手を握りしめて怒りを発散させる。
貴族というのを甘く見ていたつもりはなかったが、想像以上に人の神経を逆撫でする。
しばらくして貴族が出ていく気配を感じたので、私はまた掃除へと戻るため、倉庫から出て一階に降りていく。
ちょうどレーシュも見送りが終わって、サリチルを連れて玄関から現れた。
「クソデブ、今に見てろ。必ず目にモノを見せてやる」
「よく我慢なさりました」
「何が、私がいなければお前は生きておらぞ、だっ! ふざけるな!」
悪態を吐いているレーシュをサリチルが必死に宥めている。
レーシュと目が合うと、わざとらしい大きな溜息を吐いた。
「まあ、この田舎娘を見ると反論もできないが」
余計な一言を残す彼に、私は頬を震わせながら愛想笑いをした。
しかしサリチルは補足を加える。
「そう言いながらも、あの方の目に触れないように避難させたではないですか」
「サリチル!」
どういうことか聞こうとしたが、怒った声でサリチルの言葉を非難する。
サリチルも少し笑いながら、“失言でした“、とそれ以上何も言わなかった。
二人は私を置いて執務室まで向かっていくのだった。
日も暮れて掃除も一段落した。
掃除の道具を片付けて、私はサリチルの部屋へと向かう。
筆頭側仕えのため、彼だけは専用の部屋があるらしい。
何か書き物があるようだが、わざわざ私のためにその手を止めてくれた。
「ご苦労様です。今日は初日から大変でしたね」
「そ……いいえ、良い一日でした」
思わず本音が漏れかけたが、サリチルから嘘を使い分けるようにするように言われているのだ。
今後貴族社会で側に仕えるため、使用人のせいで主人に恥をかかせないようにするためだ。
あんな主人ならいくらでも恥をかかせたいが、そこは大人としての良識によって心の奥底に潜める。
ただ一点だけ気になったことがあった。
「そういえば、私をあの太ったお貴族様から隠したとはどういう意味でしょうか?」
「エステルさん、もし名前が分からない場合には、“殿方”と言いましょう」
まためんどくさい呼び方だが、忘れないように頭の中で反芻させる。
サリチルは私が言い方を変えない限りは教えてくれないようだ。
「失礼しました。えっと、先ほどきた太った殿方から私を隠したとはどういう意味でしょうか?」
「太ったは余計です。まあ、今回は大目に見ましょう」
困ったと苦い顔をしていたので、私はもっと練習がいるようだ。
「レーシュ様はとある理由で先ほどの上級貴族様の庇護下にあるのです」
「庇護下ということは守ってもらっているのですか?」
「ええ、貴族とは上との繋がりが生命線です。ただーー」
少し目を伏せ、あまり良くない感情を表に出ないように隠そうとする。
「こちらの足元を見られて、段々と要求するお金も増加しています。それで側仕えの方々は皆さん、あの方のお側で働くことになったのですが、あの様子だと年齢も高齢な好色な方々にあてがわれたのでしょう。他にも側仕えが残っていれば、農民とはいえエステルさんもその嗜好に合った方へ奉仕させられます」
「絶対に嫌です!」
なんとも生々しい話だ。
もしそんなことになればすぐさま逃げ出すが、少なからずレーシュが私を守ってくれたことだけは分かった。
いけすかない男だが、クズではないようだ。
「はは、こちらもその気はないのでご安心を。さて、あと夜のことですが、今日は私も起きていますが、エステルさんなら特に心配していません。あの時の光景を忘れることができませんからね」
「はは、大袈裟ですよ。ただの“小竜“でしたから」
移動中のサリチルを襲っていた魔物を撃退したことで今日の就職先を得たのだ。
あまり強くない魔物だったが、お貴族様だとおそらくそういった守る術を知らないのだろう。
しかし側仕えなのに、戦う能力がないのはいいのだろうか。
「ふふ、ただのですか。心強い限りです」
私は仕事に戻る前に、魔道具と呼ばれる変わったブローチで魔法の適性があるのかを調べられた。
しかし残念ながら魔法の才は無いらしく、文字が読めない私に唯一分かるのは、文字の横にSが何個か載っていることだけだった。
ただ、サリチルの顔が驚愕してような気がしたのは気のせいだろうか。
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