第6幕 神を蝕む悪意―5



 尚も暴れ狂う純白の大狼の眼下、天井が大きく開いた神社の拝殿は、数々の供物が放つ呪力の光によって、眩く輝いている。


 行使される、魂鎮たましずめの呪術。虎鉄はその為に必要な呪力を、儀式場の中央に祓魔刀を突き立て、それを介して注ぎ込み始めた。


 しかし妖狐の持つ強力な呪力の青色でさえも、真っ白な光にかき消されそうになっている。

 足りない。虎鉄は感覚で理解する。この呪術を行使する為には、妖狐の力を以てしても莫大な量の呪力が必要だ。


 考える暇もなく周囲から湧き出る、途轍もない呪力の奔流。それに耐えながらも、虎鉄はなんとか気を保ち、呪力の放出を続けた。



《のう まく さん まんだ ぼだ なん あびら うんけん》



 榊の声が聞こえる。それはこの場に満ちる呪力により増幅され、意味を持った呪文となって響き渡っている。


 その言葉が持つ意味は、虎鉄には分からない。

 だが、それが何なのかは分かった。いにしえより伝わる仏教から派生した宗教の一つ、秘匿され続けていた密教が用いていたと言う『真言マントラ』だ。


 その言葉一つ一つが呪的な意味合いを持ち、儀式を通じて神に祈る、文字通りまじないの為に用いられていた物。


「ぐぅ――――っ!!」


 真言マントラと呪力が互いに増幅を続け、意思を持つ生き物の様に儀式場の狭い領域内を渦巻き、凄まじい風圧とも呼べる衝撃となって、中央に立つ虎鉄に襲い掛かる。



《おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん》



 視界の端で錫杖を振るう榊から、尚も続けられる真言マントラ。流麗な声が拝殿の中で反射し、やまびこの様に、何度も何度も虎鉄の耳に届いている。


 儀式場のそれ自体が一つの白い呪力の塊になり、その中心に立つ虎鉄だけを包み込んでいた。


 膨大な白と、弱々しい青。二つの光が辺りを照らし、増幅され、増幅され――――




 ――――そうしていると、視界はただ真っ白な光に覆われ、何も見えなくなってしまっていた。



 一度見たことのある光景。妖狐が凜の魂を繋ぎ止めた際に見せた、『白い世界』に似ている。



 自身と、妖狐の呪力。命とも呼べるその全てが、祓魔刀から流れ、失われて行く。



 同時に周囲の呪力が虎鉄を包み、同化していく。



 肉体と精神、そして外界との境界が曖昧になる。



 意識が、自分が呪力に溶け、そのまま一体化し、消えていく――――





 頭上に見える大狼が放つ物よりさらに明るい、真っ白な光が背中側から溢れ出しているのが分かる。


 何か分かるかも――――そう言い残し、今も尚光り輝く神社の中に入って行った彼らを守る為に、今こうして家原は大量に展開した紙札に呪力を流し続け、祓魔式を精一杯発動し続けている。


「――――うぅ……まだ……通せません……!!」


 今、建物内では一体何が起こっているのだろうか。振り返っても、ただ真っ白に輝きながら渦巻く強大な呪力しか見えないのだ。

 そして維持し続けている結界の外には、赤い角を持ったおぞましい姿の狼達が、光り輝く拝殿で起こる何かを止めようと、鋭い牙を突き立て続けているのが見える。


 確証はない。それでもきっと、あの場所で彼らは大狼を止める為の何かをしている。


 その為にも、決してここを通す訳にはいかない。自分を守る為に傷つき、命まで懸けて戦ってくれた彼は、きっとあの光の中で戦っている。



「私が――――私が、御門君達を守るんです――――!!」



 昔から自分という人間が嫌いだった。内気で、弱くて、何をするにも上手くいかなくて。

 両親から陰陽寮に通うように言われた時は、自分を変えるチャンスだと思った。

 それでも結局変えられなくて、ただ淡々と、誰とも話す事すら出来ずに過ぎていく日々。


 このままではだめだと思い、勇気を出して受けた御祓おはらいでも、結局誰かに守られて。そんな自分が嫌いだった。


 だからこそ、今だけは。

 誰かの役に立ちたい。

 自分を好きになりたい。


 そう思わせてくれた彼を守りたい。その一心で、家原は印を結び続けた。



 結界を破る攻勢は尚も激しく、なんとか壊れかけた個所に集中的に呪力を注ぎ、何度でも修復する。


 背後から溢れ出す光は更に強くなって行く。


 そして、突然爆発的な呪力の波が拝殿の中から押し寄せ、境内に散らばる瓦礫や倒れた木々を、強烈な勢いで吹き飛ばした。


「――――きゃ……!!」


 家原は髪を揺らしながらなんとかその場で踏ん張り、そしてその呪力の源に目を向けた。



 瞳に映ったのは、恐ろしい程に美しい輝き。




 それは、青。夜よりも暗い、あお色の呪力だった。







《のう まく さん まんだ ぼだ なん あびら うんけん》



 虎鉄が意識を失いかけた瞬間、榊の真言マントラが再度響いた。

 涼やかで、無機質な声。だが確かな力を持った呪文だ。


 虎鉄は歯を食いしばり、血を流しながら辛うじて意識を繋ぎ直した。


 真っ白になり、感覚が消え失せた、呪力だけが満ちた空間。


 その中で気づいた。誰かが自身の肩に、手を触れている。


 その温かい感触と、聞こえて来る榊の声だけが虎鉄を現世へ繋ぎ止めている。


「――――ぐぅ……おぉぉぉぉお!!」


 神が持つ物に近い呪力にあてられ、正気すら失いかけていた虎鉄。しかし再度吼えながら、祓魔刀を握る両手に力を籠めた。


 ――――まだ、俺は死んでいない……何も出来ていない……!!


 虎鉄の意志に呼応して、妖狐の呪力が全身から力強く溢れ出した。

 先程の戦いで受けた傷口が痛む。だがその痛みが、逆に虎鉄の意識を強く保たせてくれる。


 白い世界と、それが持つ呪力さえも喰らい尽くさんとする程の勢いで、虎鉄から青い呪力が放たれ、混ざり合い、白と青が一つの力となる。



《おん そちりしゅた そわか――――おん まかしりえい ぢりべい そわか》



 そうして最後の真言マントラが唱えられた瞬間、黒い狼が低い遠吠えを発した。

 真っ白だった視界が一気に晴れると同時に、虎鉄と儀式場を囲っていたすべての呪力が握りしめた祓魔刀へと集まる。


 それは、空の色にも似た、藍色の呪力。

 

 虎鉄は突き立てていた祓魔刀を儀式場から抜き取り、そのまま天高く掲げ、上空へと解き放った。



「――――はあぁぁぁぁぁぁ!!!」



 祓魔刀から放たれた呪力は儀式場の効力で更に増幅され、光り輝く光柱となって天へと昇った。

 純白と青が混ざり合い、螺旋を描きながら一直線に頭上へと向かう。


 莫大な呪力を用いた、魂鎮めの呪術。それは音も無く宙を突く、一本の光の槌。


 大狼の大顎に目掛けて放たれたそれは、家原の結界をいとも簡単に破り、角を持つ眷属を、大狼を穢す赤黒い呪力を、そしてそのまま雲へと突き抜けて行く。



 光に貫かれた、純白の大狼は鳴いていた。しかしそれは先程までとは違い、一切暴れ回る事も無く、ただ天高く咆哮を続けながら、ゆっくりと、実体を薄めて行き、周りを駆け、主を守っていた眷属達と共に、その姿を現世では無いどこかへと散らして行った。



 静寂に包まれた薄暗い拝殿の中。輝きを放っていた供物や大狼が消え去り、ただ壊れた天井から月明りだけが辺りをうっすらと照らしている。


 そして人の身に余る程の呪力を放出し、自身の肉体と精神を酷使した虎鉄は遂に力尽き、その場にばたりと崩れ落ちた。


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