第3幕 変わる日常―3



 結局、もう一度無言に戻ってしまった凜は陰陽寮おんようりょうに着くまで、一言も言葉を発することは無かった。

 虎鉄は何とか許しを得れるよう、数々の謝罪を早足で歩く後姿に投げかけたのだが、どうやらその労力も徒労に終わったようだ……




 凜はどうやら、あの『青い世界』での出来事を現実の物としては覚えていないようだった。


 体に傷は残っておらず、妖狐の呪術の行使によって仮の方法ではあるが魂も繋ぎ止められている。現実の物と思わないことも、当然の流れではあった。


 ――――これでいい。また仲直りすれば、あの屈託のない笑顔を見せてくれるだろう。

 

 虎鉄はいまだ顔の見えない幼馴染の後を追い、木製の年季の入った下駄箱にスニーカーをしまいながら、心の中で呟いた。




「――――おーす、御門みかど! 今日も朝からお熱いねえ!」


 ふいに、考え事をしている虎鉄の肩に腕を掛けられ、野太い声が耳元で響いた。

虎鉄は慣れた手つきでその腕を払い落とす。


「――――朝から暑苦しい、離れろ」


「つれねえなあ、親友だろう?」


「誰が親友だ……」


「はっはっは! 俺とお前の仲だろうに!」


 豪快に笑いながら男は虎鉄の背中を叩く。

 暑苦しい巨漢――――クラスメイトの鬼一吉春きいちよしはるはその見た目通りの剛毅ごうきな性格を遺憾なく朝から発揮していた。


 日焼けした少し浅黒い肌が筋肉を覆い、幅の広い肩の上のスキンヘッドを際立たせる。

 見下ろすような角度からは鋭い目つきがギラリと輝き、道を歩けば皆が避ける程の威圧感を醸し出している。


 一見すると厳つそうな見た目だが、誰かと話すときにはいつもどことなく優しさを感じさせる表情に変わる、そんな男。


 彼は由緒正しき陰陽師の家の出だが、細かいことを全く気にしないタイプの人間であり、所謂熱血漢だ。


 何事にも積極的に関わり、周りの生徒だけでなく、教師に至るまでのほぼ全員から信頼を得ている。

 その性格故に、虎鉄もよく会話をするクラスメイトであった――――殆どは彼から話しかけて来ているのだが。


「おはよう、鬼一君」


「おはようさん、お姫様。なんてな!」


「もー、その呼び方やめてって言ってるじゃん」


「あっはっはっは! お似合いの呼び名だと思うけどな!」


 前にいた凜もこちらに駆け寄り、ごくいつも通りの表情で吉春となれた挨拶を交わしていた。

 その光景に、いつのまにか機嫌を直してくれたのだと思い込み、安堵する虎鉄。

 そんな虎鉄の背中を再度吉春が叩き、話題を振ってきた。


「なあ、御門! お前からも言ってやれよ、大切なお姫様なんだろ?」


「ちがっ、俺と凜はそんなんじゃねえから! 別に何とも思ってなんかねえし!」


「毎日一緒に行き返りまでして、まだそんな事言ってんのかよ! もうちっと素直になってやれよ、なあ姫様――――ありゃ」


 いつもならここで凜が『ほんとだよー!』……などと言い虎鉄をからかって来る場面なのだが――――残念ながら虎鉄の期待とは裏腹に、凜の機嫌はいまだ悪いままであった。


 先程までと打って変わり、頬を膨らませ怒りの感情を滲ませながら虎鉄を睨みつける凜。


「また、そういうこと言うんだ――――」


「そ、そういうことってどう言う……あ、おい」


 凜はぼそりと呟いた後振り返り、それ以上虎鉄に何も言わずに教室へと駆け出して行った。


 あとに残され立ち尽くす虎鉄に、吉春が歩み寄った。


「……喧嘩中か?」


「……そんな所だよ……」


「……スマンな御門、なんか悪いことしちまったみたいだ」


 スキンヘッドに手を乗せ、真剣に申し訳なさそうな表情で言葉を返す吉春。


「いいよ、元から俺が悪かったから……」


「ああ、まあ……そうだろうなあ」


「おい吉春、それどういう意味だよ?」


 遥か前方――――凜の走り去った方向を見ていた吉春は、しまったという表情で話題を逸らした。

 あいにく当の虎鉄は、何も分かってはいないようだが。


「ま、まあちょっとした喧嘩はいつもの事じゃねえか! 元気出せよ御門!」


「い、いちいち叩くなよ……」


 先程の会話から、凜が不機嫌である理由をなんとなく察した吉春が、190cmはあるであろうその体躯を存分に用いて虎鉄の背中を叩き、慰めの言葉を掛けてくる。



 ――――気遣いが痛い……主に物理的に……



 虎鉄は肩を落としながら何度目か分からないため息を吐き、同時にその数を数えるのを諦めた。


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