第3幕 変わる日常―2



 霊山として奉られる枳殻山きこくさんふもと、住宅街につながる大きな田んぼを貫く一本道の途中。古びたバス停のベニヤ屋根の下に置かれた小さなベンチに、黒髪の少女が本を読みながら腰かけていた。


 広大な平野を突き抜ける清々しい朝の空気が、肩口で二つに結び、体の前に垂らした黒髪をさらさらと揺らしている。

 照りつける陽の光。その陰でたたずむ美しい少女。

 その陰と陽の対比は、まるで絵画を切り取った風景かのようにも見える。


 いつも通り待っていてくれた幼馴染の姿に胸をなでおろし、虎鉄は近づいて行った。


「――――お、おはよう」


「……おはようございます」


 よそよそしく、それでいて棘のある口調で凜が挨拶を返した。


 ――――まぁ、とりあえずこうなるよな……

 誰がどう見ても分かる。凜は今不機嫌だ。

 虎鉄は次に返すべき言葉を考えた。


 しかしそんな虎鉄に見もくれず、凜は陰陽寮指定の手持ち鞄に読んでいた本をしまい、そのまま早足に歩き去ってしまった。


「お、おい待ってくれよ!」



 ――――――――そして、今に至る。





「……あのー、倉橋、さん?」


「何」


「……怒ってる?」


「そうだね」


 無言で歩き続け、住宅街を抜けて狭い山道にまで差し掛かったころ。

 言葉を慎重に選びながら、虎鉄は恐る恐る凜の後ろ姿に話しかける。


「い、いやー。昨日は大変だったな~! いきなり凜が倒れるもんだから、俺、家まで連れて帰って看病したからな~!」


「それで?」


「そ、それで凜が苦しそうにしてたから、これはどうしたもんかと思ってな! ひとまず体に変なとこがないか調べなきゃってな~!」


「それで?」


「そっそれで……」


『かっかっか。大変そうじゃのう、主様?』


 誰が聞いても白々しく、言い訳じみたものに感じるであろう虎鉄の言葉に冷たく返事を返す凜。


 事の発端を作り出した張本人はふわふわと横に浮かび、楽しそうに嗤っている。

 ――――こいつ、誰にも見えてないからって……

 怒りを顔に出さぬよう努めて無視しつつ、虎鉄は凜に釈明を続けた。


「まあ、こういうの、なんて言うんだっけ? 医療行為だし? それにほら、汗とかも拭いてあげなきゃだし? 仕方なく服を脱がせ……」



「へぇ……」



 服、という言葉に反応して。

 凜は後ろ姿からでも分かるほどに怒りと羞恥がごちゃ混ぜになった感情をあらわにする。


「そっそうだろ!? 仕方なかったんだ! 不可抗力、医療行為だ! やましい気持ちなんて一切」


「――――ヘンタイ」


「なぁっ!?」



「だってそうじゃん! おかしいもん! あんなところで、その、し、下着まで脱がすなんて!」



 遂にその怒りを表面に表しながら凜が振り向き、蝉の声もかき消すほどの大声で虎鉄に迫る。


「そもそも私が倒れたっていうなら、病院にでも連れて行くでしょ! なんでわざわざ虎鉄の部屋まで連れていかれなきゃならないのさ!」


「それに、それに……変な夢も見るし……」


「ゆ、夢って、どんな夢だった?」


 虎鉄が尋ねた瞬間、凜の端正な顔立ちが更に真っ赤に染まりあがる。



「――――しっ知らない! 覚えてないし! バカ! チカン! ヘンタイ!!」


「言いすぎだろ!!」



 不名誉な呼び方を命名され、虎鉄は食い気味に突っ込む。


「言いすぎじゃないもん! 絶対ヘンな事しようとしたもん!!」


「確かに私、虎鉄の部屋で襲われそうになるまでのこと何にも覚えてないけど、絶対おかしいよ! やっぱり、その、え、えっちな事とかしようとしたんでしょ!?」


 虎鉄の脳内に昨晩の画が浮かぶ。頬の染まった色っぽい表情。ずり落ちたタオルケットから覗く、陶器のように白い素肌――――――――

 ――――だ、だめだ。考えちゃだめだ。何とか凜の怒りを鎮めなければ……。


「ち、違う! 言ったろ!? 医療行為だよ! 俺にやましい気持ちなんて一つも無かったよ!」


「じゃあなんで赤くなってんのさ!」


「あ、暑いから、だけど……?」


「嘘!」


「本当だよ! 俺は何もしてない! 俺が――――」



「――――!!」



 ――――瞬間、足を止め理由を追及していた凜の顔から一気に表情が抜け落ち、そのまま無言ですたすたと早足で歩き去ってしまった。


「お、おーい、凜さん?」


 先程までと打って変わり、またも無言に戻る幼馴染。

 地雷を踏んでしまったことに全く気付けていない虎鉄は、急いでその後姿を追いかけた。





 後ろで何とか弁解しようとする幼馴染の少年。

 もはや弁明ではなくただの謝罪へと話題を変えていく虎鉄の言葉を聞き流しながら、凜は確かめる様に唇に手を当てた。



 夢の中で。凜の唇に確かに触れた、温かい感触――――――――



「――――バカ」



 凜は今の表情を決して見られないよう、振り返らず歩みを進めた。


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