第2幕 式神契約―3



「やった……」


「かっかっか。やりおるのう!」


 目の前に直立していた赤黒く、恐ろしく、残忍な鬼は跡形もなく消え去った。

 絶え絶えの息の中で瞬きをした瞬間、突然白い光が虎鉄の目に差し込む。


「――――っ……」


 消え去った怪物の作り出した物だったのだろうか。今まで囚われていた『青い世界』は唐突に消えて無くなり、気づけば街灯が照らす住宅街の片隅に立ちつくしていた。


 それと同時に、鬼を喰らい満足したのか、体に湧き上がっていた呪力とともに、右手の刀は掠れた祓魔式の刻まれた、折れ曲がった鉄パイプへと姿を戻していた。


 相当無理をさせた虎鉄の体に疲労が押し寄せ、途轍もない重さとなってのしかかって来る。

 妖狐の力により発現したからか、はたまた疲れからなのか。今の自分からは、見鬼の才をほとんど感じられなくなっていた。



 辺りに見えるのは、ごく普通の住宅街、街灯の灯るいつもの道。

 鈴虫の声が聞こえる。漂うのは満月の夜の、淡い夏の香り。

 巨躯の怪物と繰り広げた激闘の跡は、何一つ残っていない。

 今までまるで夢を見せられていたかのように、急激に現実に引き戻される。

 いや――――



「凜――――――――!!」


「おぉい、まずは私と話すところじゃろうが!?」


 膨れっ面の妖狐に目もくれず、虎鉄は壁に寄りかかる様に倒れた凜の元へ駆け出した。


「おい、凜っ! しっかりしろ! 大丈夫か!?」


 羽のように華奢な彼女を抱きかかえる。

 返事はなかった。


 冷たい。こんなにも蒸し暑い筈のに。

 傷跡は無い、血も出てはいない。

 だと言うのに、半袖の制服から伸びる細い手足や眠る様に穏やかな表情の顔は、死人のように血色が悪い。

 支える腕に、脈拍すらも感じない。


「どうして――――っ!」


 虎鉄はとっさにスマートフォンのあるポケットに腕を突っ込み、ダイヤル機能に手を触れ――――


「無駄じゃぞ? そやつ、


「――――――――は」


「呪力が底を尽き掛けておる。こうなればもう手遅れじゃろうな」


「おぬしが呼ぼうとしておる、その、なんじゃったか……きゅうきゅうしゃ? とやらも間に合わんじゃろうに」


 虎鉄には妖狐が発する言葉の意味を理解できない。理解したくない。


「そもそもじゃ! 呪力の傷をおったのじゃぞ? 普通の治療でこの小娘が助かるとも思えんがのう」


「ふざけんな!!」


 虎鉄は妖狐の言葉に激しくいきどおった。

 ――――だって、そんなはずがない。

 自分はこの通り五体満足で動けているのだ。

 こんなこと、あっていいわけがない。


 陰陽塾で習った、あやふやな心肺蘇生法を試す。

 唇に触れ、人工呼吸。それから、心臓マッサージ。

 冷汗が止まらない。

 それから、気道を確保するんだったか。

 それから、いや、人工呼吸の前にしなきゃダメだろう。

 それから、それから――――


「くそっ……くそっ!!」


「認めねえぞっ! 凜が死ぬなんて!!」


 諦めない、虎鉄は、諦められない。




「…………ふぁあ」


 いかにも興味なさげな顔をして、妖狐は虎鉄の後ろに腰を下ろす。

 まったく主様は何をここまで必死になって小娘一匹を助けようというのか。


 数百年生きてきた自分。そもそも自分。

 妖狐にとって、今となっては関わりの無い他人の生き死になど、まさにどうでもいいことなのだ。


 ――――まあ、身内の者ならばその限りではないが。それに先ほどまでの主様の様子、やはり覚えてはいないようじゃしの……


 妖狐の中に一抹の寂しさが芽生える。

 それと共に初めて感じる、悲しみにも似た感情。これは――――嫉妬?


「かかっ、面白いのう」


 必死で半ばむくろと化した小娘を助けようとしている、かつての主。

 やはり人間とかかわるのは良いことだ。

 妖の身では知りえぬことを山ほど教えてくれる。

 この身さえ焦がすほどの、愛情も。そして、怒りさえも。


「本当に覚えておらんのじゃの」


 妖狐は呟き、青白く輝く満月を見上げた。


 焦らなくてもいい。そういう『契約』だったではないか。かつて交わした契約はまだ残っているのだから。

 妖狐は自分のの為、成すべき事を考えた―――――


 目の前にいる男は紛れもなく自分の主――――その筈だ。

 しかし人格が違うのなら、ひとまず別人として扱うべきなのだろうか?

 万が一にも本当に別人の可能性は?

 それならば今の主との契約は?

 そもそもこの男は、先刻交わした契約をきちんと果たしてくれるだろうか?

 それなら――――――――





「――――そうじゃ!!」


 突然、虎鉄の後ろに座り込んでいた妖狐が急に立ち上がり、明るい声色で叫ぶ。全くと言って良い程に緊張感のない声色に、虎鉄の苛立ちが膨れ上がる。


――――だが、知ったことか。


 虎鉄は見向きもせず、凜の救命を続けようとするが、


「よい。わかったぞ。私がその小娘を助けてやろうぞ!」


 妖狐が楽しそうに自分の胸を叩き、鼻息を鳴らしている。

 その言葉に、虎鉄の手が止まる。


 妖が助けてくれる。さっきはそれで助かった。

 だが少し冷静になれば、妖が人間を助けるだと?

 誰が聞いてもバカバカしい話だろう。


 それでも――――


 虎鉄の僅かばかりの奮闘もむなしく、凜が起き上がる気配は一向にない。その手を取る以外に、この場で今の自分に出来ることはもはや何も無いのだ。


 自分が無力であることをつい先刻、虎鉄は痛いほどに味わい、知らしめさせられたばかりなのだから……


 虎鉄は振り向き、楽しそうにこちらを見つめる妖狐と向き合う。


「助けてくれ。頼む……」


 どうしようもない無力感にさいなまれ、泣きそうになる声を抑えながら、虎鉄は妖狐に助けを求めた。


「礼などよいよい。いわゆる契約の対価というやつじゃ」


「……対価?」


「言ったじゃろう? 私を殺してくれと。私は願いを叶えてもらえるのじゃ! もちろん、主様にも私に願いを言う権利はあるじゃろうて?」


「ああ、さっき呪力を貸したのは別じゃぞ? あれはあくまでそのための手段にすぎんからの」


 シャリンと鈴を鳴らしながら、妖狐が虎鉄に近づく。

 妖狐が歩くたびに、小柄な体に伸びる長い白髪がふわりと、優雅に夜風に揺れる。


「主様とは『契約』を交わしたのじゃ。これはそれ相応の、私からの礼じゃ。ありがたく受け取るがよい」


「まあ、方法は――――私に任せてもらうがの」


 不穏な言葉を口にしながら、妖狐は凜を挟み、虎鉄と向かい合わせになる場所で振り向いた。


 力なく座り込む虎鉄の前で、妖狐は白い満月を背に、嗤う――――




「これは対価。そして、主様を縛る、『枷』じゃ――――」


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