第1幕 死ねない狐―4



 何かがおかしい。

 見鬼の才がないはずの虎鉄は、住宅街の最中、ふいに言いようのない不安を感じた。

 ただ辺りを見渡しても、その正体を掴むことは出来そうにない。


 ――――俺がおかしいのか?


 何が違うのかが分からない、ただ、どうしようもない異物感。

 こうとしか表現できない何かを、虎鉄は感じ取っていた。

 

 道を間違えたわけでもない。暑さのせいだと言い聞かせようとも思えない。

 もちろん体調が悪い訳でもない様だ。


「でねー、それでねー」


「凜」


「どしたの?」


 虎鉄は得体のしれない違和感に侵され、油汗が噴き出していた。


「虎鉄、すごい汗だよ? 今そんなに暑くないのに」


 暑がりなのはもとからだ、などと心配そうに見上げる凜に返す余裕は虎鉄には無い。今はただ周囲の微かな変化に感覚を研ぎ澄まして、違和感の正体を探るほかなかった。


 虎鉄に見鬼の才は、まだない。ならば妖のせいではない。

 妖の気配さえ感じ取ることが出来ない筈なのだから。

 虎鉄はどんどんと迫る違和感、異物感、嫌悪感、そのすべてを肌で感じていた。


「気をつけろ、何かがおかしい」


「何かって何――――」


 そして、凜が答えた、その瞬間――――――――




 




 それ以外に表現する方法が、無いのだ。

 先ほどまで道の先で輝いていた夕日は消え去り、あたり一面が青く染まっている。

 あんなに騒々しく響いていた蝉の声は一瞬にして消え去り、痛みを覚える程の無音が耳を突き抜ける。


 突如出現した異界。そして空には――――



「なんだよ……あれ!?」



 ――――赤い月が空高く、虎鉄たちを照らしていた。



「どういうことなの、これ……」


 先ほどまでとは微塵も違う景色、世界。取り残されたような感覚。

 青く染まった視界は夜よりも暗く、先が見通せない。


 空高く鎮座する、異様なまでに巨大で、血のように赤い月が二人の周りだけを照らしているようだ。

 普段の感覚がまるであてにならない。ここは、現世うつしよとは異なる場所だ。


 虎鉄と凜は無意識のうちに体を寄せ合っていた。


 ――――これが、違和感の正体? これは何だ? 妖……なのか?


 上手く回らない思考を無理やり働かせて、虎鉄は言葉を紡いだ。


「とにかく、ここから離れよう、ここは、やばい……」


 襲い来る不安を現す語彙力は今の虎鉄にはなく、とにかくこの異様な空間から脱出する術を探るべく、行動を始める。


 数歩先の足元も見えない暗闇を、二人身を寄せ合い歩く。

 まるで水の中に沈められたかのように空気が重い。

 二人の足音だけが嫌に響き渡り、虎鉄たちの不安感を煽る。


「ねえ……多分だけど、妖の仕業だと思うの」


「感じるのか……? その、妖の気配みたいな」


「感じるよ。本当に微かにだけど……」


 虎鉄は感じていたのが、やはり妖の仕業なのだろうかと考える。


 ――――じゃあずっと感じていたあの違和感は一体……?


 虎鉄はぬぐい切れない不安を誤魔化す様に、足取りを早くした。





 凜は虎鉄を連れ、少し開けた物陰に向かう。

 凜は虎鉄に少し離れるよう言い、指先を宙に滑らせた。祓魔式の陣が淀みなく描かれて行くことを、見鬼の才がない虎鉄でも見て取れる。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 凜は汎用呪文を呟いた後、ポケットからおもむろに取り出した探知用の式神――人を模した形の紙に祓魔式を描いたもの――に呪力を流し込み、展開した。


《行って》


 凛の号令に反応し、数体の式神達は一斉に暗闇に飛び出して行った。

 こうしてできた擬人式神ぎじんしきがみは術者と視覚等の感覚を共有することができる。これにより周囲を探索、呪術の元である妖を見つけ出すことができるのだ。


 物陰になっているおかげか、二人は何とか一息つく余裕ができた。

 虎鉄も凜にならい、転がっていた鉄パイプに唯一まともに用いることが出来る祓魔式である、付呪文を描き始める。


 完全なる無音の世界の中、虎鉄がペンで呪文を描く音だけがあたりに響く。しばらくの静寂の後、先ほどの凜の言葉に疑問を持った虎鉄は問いかけた。


「こんな大規模なことができる妖なんているのか……?」


 数秒の静寂の後、不安そうな表情を抑えながら凜が呟いた。


「分からないけど――――」


「――――きっと、こうやって驚かすだけの弱っちい奴だよ!」


 凜は虎鉄に笑いかける。震える肩を抑え、不安を隠しつつもいつも通りの屈託のない笑顔で。


 虎鉄には見鬼の才がない。凜ももちろん知っている。

 だからこそ、妖なら大丈夫だと、少しでも不安がらせないようにさせてくれていることを虎鉄は理解していた。


 力のない自分。泣きそうになりながら笑う幼馴染。

 今の虎鉄にできる最大限の事は、一つしかなかった。


「だからね、大丈夫だよ! 虎鉄は私が――――」


「――――俺が!」


 虎鉄は凜の肩に触れ、割り込むように語りかけた。


「俺が守るから、大丈夫だ」


 虎鉄に今できることは、たったこれだけしかないのだ。

 妖の仕業であれば、その姿を見ることすら出来ない自分が全く役に立たない事は分かりきっていることだ。

 だからこそ、恐怖を紛らわすための言葉を、精一杯の笑顔と共に口にする事しか出来なかった。


「――――ありがとね……! 虎鉄!」


「――――っ! 別に、さっき言われたことだし……」


「へへっやっぱ照れて……」


「て、照れてないわ!」


 触れた肩から凜の体温が伝わってくる。

 嬉しそうに笑う凜、それを見て、虎鉄自身も緊張を解すことが出来た。

 それと同時に、幼馴染の少女の力になれない自分に対する歯がゆさも、ひしひしと感じていた。




『――――


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