3 白い少女と懲罰室の謎(2)

「何だったんだろう、あの人……」

 澄は扉の外で、小さく呟いた。学年が分からなかったから、取り敢えず敬語で話したけれど、実際は何年生なのだろう。この学校の生徒は全員、この校舎で授業を受けているから、彼は年上でも年下でもおかしくない。昔から背が低かった澄にとって、自分より背が高い年下というのはそう珍しくもない存在なのだ。

 さて、これからどうしようか。澄は階段を上りながら考える。光の球を消して、地下一階に着く。確かこの階には、資料室がいくつかと、第二・第三の実験室や、第二音楽室なんかがあったはずだ。

 実験室がある方から、聞き覚えのある声がする。これは……錵の声だ。それに、もう一人、まだ聞いたことのない女性の声もしている。澄はそちらの方に歩いていった。

 どうやら声がしているのは第二実験室からのようだ。澄は扉を叩いた。

「はい、どうぞ」

 澄が何かを言う前に、知らない女性の声が答えた。澄は「失礼します」と言いつつ、おずおずと部屋の中に入っていった。

 廊下と違って、黒い床と濃い灰色の壁。いくつかの少し大きなテーブルと、背もたれのない小さな椅子が並んでいる。教卓は、大きな黒板の前の、様々なものを推せた一際大きなテーブルだ。

 その部屋の中で、扉に一番近いテーブルの傍に錵と、渋い赤の髪を緩く巻いた女性がいた。そのテーブルの上にはいくつかの実験器具と、シンプルで細い黒の杖が置いてある。赤い髪の彼女は暖かな微笑みを浮かべて挨拶した。

「あら、あなたは一年生ね? 私は遊部みたま。理科系、とくに生物分野を担当しています。よろしくね」

「一年の見抜澄です。よろしくお願いします」

「あら、もしかして、見抜先生と見抜さんの?」

「ええ。清は私の祖母、通は祖父です。生前はお世話になりました」

 遊部が軽く頭を下げるのに合わせ、澄も礼をした。遊部の背中の中ほどまである髪が揺れる。

 遊部は、年は三十くらいか。身長は百七十センチといったところだ。瞳は濃いが柔らかなピンク色、少し細めの垂れ目と、綺麗な垂れ眉。黒い袖のひらひらとしたブラウスと、暗い赤のコルセット、ボトムスは同じ色のミモレ丈のスカート。黒いストッキングと、暗い赤のパンプスを履いている。襟元には黒のジャボに、暗い赤の硝子飾りを留めていた。右手に、軽く畳んだ白衣を掛けている。

 制服の上から白衣を羽織った錵が、澄に話しかける。

「どうしたんだ、見抜。実験部に用があるなら、今日じゃなくて明日、第三実験室が活動場所だよ。合唱部なら、三階の第一音楽室に行くといい」

「いえ、そうではなくて、知っている声が聞こえたので気になってきただけで……」

 実験部とは何だろう。今度調べてみようか。そんな風に澄が考えていると、錵は相変わらずの無表情だったが、少しだけ眉根を寄せた。

「……君はどこにいたんだ? まさか一階まで聞こえていたわけじゃないだろう? 授業でも部活でもないのに、一年生が地下にくるなんて、相当に珍しいことなんだが」

「あ、地下二階を訪ねていたんです。上に戻る途中で、お二人の声が聞こえまして」

「地下二階って……元懲罰室かい?」

 澄が頷くと、遊部は笑んだまま少しだけ目を鋭くした。

「……地下二階の階段の前には、結界が張ってありますよね?」

「あ、はい。褒められたことではないでしょうけど……見てみたら、意外と通るのが簡単だったので……。構内図にはあんまり記述が無かったから、気になって」

 眉を下げて薄く笑む澄に、遊部は額を押さえた。

「うーん、やっぱりもう少し頑丈なものにするべきかしら……。侵入常習犯もいるし、おまけに入ったばかりの一年生にも破られるし……立ち入り禁止ってことにしてるのに……」

「あ、いえ、破ってはないです。鍵の呪文が分かったから、それを使って抜けました。……とはいえ、立ち入り禁止だったんだし、せめて許可を取るべきでしたよね。今後は気を付けます」

「……あの部屋に入ろうと思ったら、そうそう許可は出ないよ。生徒会長の私でも、一度行ったきりだ。そのときも少しだけ見てすぐに出てしまった。……あそこはとにかく気が滅入るから……」

 錵が顔を顰める。澄は眉を少しだけ上げた。

「そんなに許可が出ないものなんですか? 私さっき、男の子に会いましたよ。学年とかは分かりませんけど……。彼は、しょっちゅう出入りしているような口振りでしたよ」

「……千尋くんね? 茶色の三つ編みに、赤い目の子」

 遊部の問いに澄が頷くと、教師と生徒会長は顔を見合わせ、深く深く溜め息を吐いた。

「……彼は、高等部普通科三年の縫針ぬいばり千尋。ぬいぐるみが大好き過ぎて、そのせいで問題を起こすことがあるんだ」

「初等部から在籍していて、懲罰室が使われているころはよく入れられていたのだけれど……何が気に入ったのか、懲罰室じゃあなくなった後も、よく出入りするようになってしまって」

 彼、今もあの部屋にいるのかしら? 遊部は笑みを消して問う。澄は目をぱちぱちと瞬かせて頷く。遊部はもう一度大きく溜め息を吐くと、白衣のポケットから黒い手袋を取り出しながら言った。

「ごめんなさいね、錵さん。実験の続きは、また今度にしましょう」

「いえ、ありがとうございました。自分でももう少し頑張ってみます」

 錵が礼を言う傍らで、遊部が手袋を嵌めた指を振る。白衣は畳まれて教卓の上に。彼女のボトムスはいつの間にか、黒い細身のスラックスに変わっていた。髪は頭の上の方でお団子にまとめられていた。襟元のジャボは取り外され、遊部がもう一度指を振ると、ところどころに赤の装飾がなされた、黒猫の被り物になっていた。

「それじゃあ、私は千尋くんのところに行ってきますね。錵さん、施錠をお願いします」

「はい、先生」

 遊部は黒猫の被り物を被りながら実験室を出ていく。錵はそれを見送ると、てきぱきと実験道具を片付け始めた。

「見抜、今は何時だい?」

「ええと……二時三十分ですね」

 澄が部屋の時計を見つけて答えると、錵は、ふ、と息を漏らした。

「そうか。昼食を摂るのを忘れていたな……。これが終わったら行こうと思うんだが、君はこれからどうするんだ?」

「そうですね……取り敢えず、交流館の三階に行こうかと」

 澄は、交流館三階の、番号のついていないレクリエーションルームにも行こうと思っているのだ。図書館で見た十年分の構内図には、こちらのレクリエーションルームについては何も記述が無かった。

「そうか。なら、途中までは一緒に行こうか。レクリエーションルームの借り方は分かるかい?」

「いえ、まだ」

「なら、それについても教えようか。もう少し待っていてくれ、すぐに片付けを終わらせるから」

「ありがとうございます。でも、あまり急がなくても大丈夫です」

 ああ、と錵は言う。そのままスピードを緩めることなく片付けを終わらせると、白衣を脱いだ。傍らにある杖を左手に持ち、小さな声で呪文を唱えながら軽く振った。

 すると白衣が、ぱっとどこかへ消えてしまった。移動魔法の呪文だ、と澄はすぐ気付く。

「それじゃあ、行こうか」

「はい」

 澄は薄く笑んでいる。錵の無表情も崩れてはいないが、その眉が少し緩んだのを、澄は見逃さなかった。

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