1. 逢空と桜花(5)
僕は教室に入ると、そそくさと教壇の近くにいた集団をかき分けて窓側の席に移動した。
教室内は、新学年ということもあって、今年も一緒のクラスやん!とか、え、その漫画面白いよね!とかそういう声が飛び交っている。
倉峰も、1年から友達だったらしい生徒と談笑していた。
別に、友達を求めていない僕としたらこの状況はいつものことなのだが、無性に虚しくなって視線を外にずらした。外を見ると、桃色の
解錠して、窓を開けると申し訳程度に入ってくる春風が、煩わしくも気持ちいい。東京は馬鹿みたいに高いビル群ばかりであったからか、とても新鮮な感じがした。
日本の春の匂いってこんな感じだったんだな。
「ふぅぁぁ」
僕はそう、春の匂いを吐き出すようにあくびを漏らした。やはり窓側という席は昼寝に関してはこれ以上ない特等席なのだろう。
そんなことを思いながら、目を閉じようとした時だった。
「おーい、冬田君」
倉峰がそう、こちらに声をかけてきた。
僕は、ん?と思いながら首を振り向かせる。彼は、一番後ろのおんぼろの、言い方を変えればレトロな掃除用具入れの前で立っていた。
その前は、観音開きになっている扉を開けるためにそれ相応のスペースがあるらしい。
どうやら誰かと話していたようだけど風にあおられたカーテンに隠れているのか見えなかった。
「ちょっとこっち来てくれない?」
彼は僕を見つめてくる。
……
「ふぅ、分かったよ。行けばいいんでしょ」
僕はそんなこと言いながら立ち上がった。彼が急に呼ぶあたり嫌な予感が薄ら薄らしていたのだけれども、このまま暇をつぶすのもなんだか
別に呼ばれたことが嬉しかった、とか、そういう訳では断じてない。
ギ―っと嫌な音を放たせながら椅子を机の中にしまい込む。
開けられた窓から入ってきた春風につられて、教卓に置いてあったプリントが吹き飛んでいった。風は吹きやまない。カーテンの裏をまだ知らない。
等間隔に、整然と並べられた机の間を通り抜けながら僕は進んだ。そして、彼がいるところまであと机二個分という所だった。
唐突に、それこそ予想だにもしないタイミングで長風が止んだのは。
ベージュのベールと化したカーテンが徐々に萎んでいく。消えかけていた風に揺られるダークブラウンの髪が見える。カーテンはどんどん萎んでいった。
「えっ」
僕は少し驚いてしまった。
その、他の人に比べて少し明るみのある髪にはなんとなく見覚えがあったのだけれども、そんな予想だにしない反応でこちらを見つめられると、どうにも同一人物だとは思えなかった。
そこには、朝に見た快活そうな顔でもなく、ついさっき見た
そんな顔をしているから僕はなおさら、どうしたんだろうと少し動揺してしまう。すると、倉峰が机二個分こちらのほうに向かって来た。
「なんか、二人が光茉に聞きたいことがあるんだってさ。さっき演奏中見ていたのバレてるぞ」
ぼそっと、ニヤッと、僕だけに聞こえるように言った。それを聞いて僕はなぜか焦ってしまう。
「え、なんか嫌な予感がするんだけど」
いや、予感ではなくて確信だった。なぜなら、本人に知られている時点で既に嫌だったから。
「さっきそれで、夏音から質問されたんだからな。『冬田君、ずっと由那のこと見てたような気がするんだけど知ってる?』って。あまりに直球ストレートでドストライクすぎる」
「マジかよ。で、夏音って今桜原さんの隣にいる人?」
「あ、そそ。一応知らないけど、とは言っておいたけどまだ疑っているからもう託すわ」
さっきの僕のことを言わなかったのか。決して倉峰のことを信用していなかったとかそういう訳ではないのだが、てっきり言ってしまったとばかり思っていた。
「……分かったよ。後、さっきのこと言わないでくれてありがと」
「おうよ。さすがに本人がいないところでいうのはルール違反っていうか、言えないわ」
「なになに~?何が言えないの?」
そう、夏音さんがこちらの会話に首を突っ込ませてくる。その隣には桜原さんもいた。
「いやいや、なんでもないよ。で、どうかしたの?」
僕はいつのまにか隣にいたことにびっくりしながら、これ以上深堀されないように質問を質問で返した。倉峰は、あくびを吐きながらこれで僕の役目は終わっただろ、と自分の席に引き返していく。
「なんか、由那が聞きたいことあるんだってさ。ね?」
夏音さんに急に話を振られた桜原さんは驚いたようだったけれど、「うん……」と、こちらを見てくる。
やっぱり、朝に話した時の彼女とは違いすぎて少し照れてしまう。だけど、彼女もいっぱいいっぱいなのか僕の顔を見ないように下に向けていた。
僕もいっぱいいっぱいで、それに気付かれないように隣の空いていた席に目を逸らす。
そこには、風の力を失った桜の花びらが、花冠から離れた一人ぼっちの花びらが机の上にはらりと落ちていた。
僕は、視線を感じてもう一度彼女に向き直る。桜原さんはまだ恥ずかしがっていたけれどもこちらをじっと見ている。
「あの……。こんなこと聞くのもなんだけどさ。さっき演奏中に私のほう見ていたのって冬田君?」
彼女は少しためらうように、上目遣いで聞いてくる。
「え、そうだけど……」
僕はやっぱり目を逸らしながら、真面目に返すのはなんだか恥ずかしかったけれど正直に返した。どうも、今の状態の彼女に対して、嘘を吐くのはなんだか申し訳ないような気持ちになってしまう。
「あのさ、私の演奏を聞いてどう思った?ど、どうだった?」
どうしてそんなことが気になるんだと不思議でたまらなかったが、彼女の顔は本当に真剣だった。僕に対して真剣に問うていた。
だから僕も真剣に返さないといけないような、そんな気がした。
彼女は、こんな僕の返答をそれだけ待っていてくれているのだから。
「えっと、なんていうか、そうだな」
照れているのを隠すように、頭を掻いた。
「僕の勘違いかもしれないけど、桜原さんの演奏は表現力が凄くて、でも伝えているのが自分の感性が鈍いのか伝わらなくて……。ただ、なんとなく暗い印象を与えるような。そんな演奏だったかな。めちゃくちゃうまくて感動したよ」
僕は、彼女のあの演奏を思い出す。彼女の演奏は、美しくも儚くて、綺麗でも壊れそうな、そんな演奏だった。
「そっか、そっかぁ。感動したって言ってくれてありがとう」
彼女は朝に見たあの笑顔で謝意を伝えてきた。まぁ、要件はこれで終わりかなと「じゃ、」とこの場から引こうとする。なぜだか分からないけれど心臓が破裂しそうなほど脈打っていた。
自分の席に引き返そうとぐるっと目線を移動させるとき、夏音さんは何かを手でぐいっと押しているのを見た。
すると、直ぐに何かが当たった。肩の上に、何か温かいような、確かな感触があった。振り返ると、慌てたような桜原さんの顔がすぐ横にある。
僕は慌てて身体を逸らした。
また、ドクンと脈打つ。
赤い顔の桜原さんはまた俯いていた。僕はどうしたんだろう、と不審に思ったのも束の間、彼女は小さな声で大丈夫、と小さく呟く。
彼女は急に顔を上げた。
「あ、あのさっ!」
彼女は肩に手が当たっていることなんて気にせずに僕に話しかけた。その手は少しだけ震えているのか、緊張がひしひしと伝わってくる。
「良かったら……私と友達になってくれませんか」
その時、もう一度びゅうぅと強い風が吹いた。
春の匂いにさらされながら、僕は思わず片目を閉じる。カーテンがバタバタと音を立てる。せっかく教卓に置きなおしたプリントの束が散らばっていっていた。
机の上に留まっていた一人ぼっちの花びらが再び空に舞っていく。別の所に留まっていた花びらと共に。
僕は、私は、そんな春風に吹かれたんだ。何かが変わる、はっきりとしないそんな予感を滲ませながら。
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