1. 逢空と桜花(3)
* * * * * *
「ふぅ……」
私は、演奏前のこの時間が好きだ。
心臓の鼓動が少し早まる。今も生きてるって、私は何かを伝えることが出来るって、そう実感出来るこの刹那の時間。
目の前にはスポットライトが反射し、黄金色に煌く大海が私たちを待っている。
ただひたすらに眩しいそこに今から私たちは飛び込むんだ。
「さぁ行こう」
そうして私は、相棒を抱え大海に身を委ねる。
……後から思えばきっとこの日からだろう。
ー私もまた春風に吹かれるー
* * * * * *
体育館には静寂が訪れていた。
白髪の、いかにも中世の作曲家のような顧問がゆっくりと指揮棒を振り上げる。生徒から観客と為った僕たちは部員から指揮棒へ、そしてゆったりと荘厳に音色が響き始め、次第に全体に注目が移されていく。
曲は確か……どこかで聞いた覚えのあるものであった。頭の中から出そうで出ないものは何故か無性に答えを知りたくなってしまう。
「この曲なんだっけ」
思わず声が零れてしまった。
「ん?この曲はホルストの木星と思うけど。CMとかでも時々聞かない?」
意外なことに隣から言葉が返ってきた。横を見ると彼はやはり前を、誰かを、じっと見ている。
「あ~、聞いたことあるかもしれない。どっかの車のCMとかで流れてたやつか」
僕もまた、ステージを見ながらあの有名なフレーズを聞いたところで思い出した。彼ともう少し話そうかとも思ったが、他の迷惑になるかと会話を打ち切る。
それに、この場で話すのは吹奏楽部に対しても失礼極まりない行為だ。
そのうち聴きなじみのあるフレーズが終わり、打って変わって静かな主題に変わっていく。その時、僕はハッとして急に頭を上にあげた。
そこには、朝に話したトロンボーンを吹いている桜原さんの姿があった。
あの時に見た、快活そうな彼女とは思えないほど、物憂げな顔を携えながら。
その時彼女の出している音色は金管楽器の出すそれ、ではなかった。いや、音は金管楽器なのかもしれない。……少しだけ誇張しすぎたかも。
ただ、他の生徒が出している色よりもずっと深い色を奏でていた。
要は、表現力が他の生徒とは比べ物にならなかったのだ。
でもそれは、例えば鳥の
そこに在った色は黒一色だった。それもただの黒ではなく、様々な色が極限まで混ぜ合わさったような、そんな深みのある黒。黒。黒。
そいつにどんどん沈んでいく。圧倒的で暴力的なその表現力に溺れていく。
それはまるで、色の混じりあう油にまみれもがき苦しんでいるような、そのような印象を与えるものだった。
きっと彼女には、伝えたいことが多すぎるのだろう。感情を持て余しすぎている、そんな気がした。
楽しさ、喜び、悲しみ、そして何より苦しさ。そんな理路整然としない感情が色となり、波打ち反射して届いてくる。
だから、それが僕の胸を打ったのだ。僕には、物事を表現するのがどうも苦手だったから、
演奏会が終わるまで、僕は彼女を一心に眺めていた。
そして全ての演奏が終わって興奮が収まりきらない喧騒の中、彼女をもっと知りたいと、そう思ってしまった。
「桜原さんのことでも気になるの?」
その言葉に驚いて隣を見ると、彼が少しだけニヤニヤしながらこちらを見ている。
「いや、別に。なんとなく見ていただけ」
僕は少しそっぽを向いた。別に嘘を言っているわけではないし、実際になんとなく見ていただけなのだ。彼が思っているであろう”それ”という感情は持っていない。
「それにしては顔が赤いと思うんだけど。それに、あんなに一心にみるってなかなかだよ」
「顔が赤いのは吹奏楽部の演奏に興奮したからだよ。他の人もそうだったし。それを言うなら倉峰くんも誰かを見てたじゃん」
コンサートに興奮した。これは嘘。正直、顔が赤いなんて全く感じなかったのだけれども、僕はなぜこうなってしまっているのだろうか。
自問しても何も分からないから、こちらから質問してみた。
「あ~、それは……。そうだな、今度機会があったら少し話すよ。今言うのはなんか恥ずかしいわ」
彼は少しためらいながら、頭を掻いていた。
僕は、彼の言葉に若干の違和感と嫌な予感をさせながら、ステージのほうを向いたのだった。
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