3-1 背に腹のタクシー登校

「てんてーあぼなんぶー(あと何分)?」


 ……まずい。大変まずい。

 いや落ち着け。落ち着け長谷川誠。

 タクシー、そうタクシーだ。タクシーで時間が買える!


「てんてってばああああぶわあああ、ああ!! ああーーーんーーー!!」

「ちょー! 神崎さんなに歯磨き粉こぼしてんのー!?」

「だってだってぇ。せんせーが、せんせーがぁぁああ、うわあーーん!!」

「わかった、ごめん! 僕の目覚ましが鳴らなかったせいだもんね! とりあえず顔洗って着替えて?」

「りょうかい」


 たたたたっと、小気味よいリズムで走って洗面所に行く神崎さん。

 やはり大人ぶってても彼女は子どもで、僕はやはり子守りに追われることになっていた。

 ……彼女もいないのに。

 それで今朝の慌ただしさはというと、携帯のアラームをセットし忘れて寝坊したことにより、僕たちは遅刻の危機にひんしていたのだった。


「神崎女史に告ぐ。これよりタイムスケジュールを発表する。あと5分で下に降り、我々はタクシーに乗って学校へ行く。以上!」

「えー! 女子になんて無茶なことを。せんせーモテないでしょ」

「い、今それ関係なくない!?」

「うるさいな、したくの邪魔しないでよ」

「むぐ……」


 神崎さんはなんだかんだいって空気を読んでくれる。

 しゃくだけど……助かってます!


 5分後、僕らはエレベーターに乗ってマンションの下に降りた。

 なぜか神崎さんは、エレベーターのモニターを見上げながらニヤついていた。


「? 機嫌良さそうだね」

「だってせんせーと、タクシー登校なんてなんかリッチ♪」

「あーしまった!! きみ、途中で降りてね!」

「えーーー!!」


 ブーイングを無視してタクシーに乗り込んだ。神崎さんも隣に座る。


「かもめ第二小まで!」


 運転手は僕らに一瞥いちべつをくれると、無言で車を走らせた。


「せんせー冷たい……」


 神崎さんが悲しげに俯く。

 胸が痛むけど、こればかりはしょうがないよ。


「まだ僕らが同居してること、ほかの先生に言ってないからね。今日ちゃんと事情を話すから」

「うん……」


 バックミラー越しに運転手と目が合い、すぐ逸らされた。

 あれ……僕らのやり取りって……。


『いつアタシたちの関係を公にできるのよ!』

『今はまずいよ。僕、まだ離婚してないし。けれどいずれ妻に言うから、な? もう少し待っててくれないか。僕を信じて? 愛しているI love you

『うん……』


 って、本妻と別れる気もないのに女遊びをしているクソ男! みたいじゃん!?


「違う! 断じて、違うからね!?」


 僕は身を乗り出して、運転手さんに身の潔白をアピールした。


「なにが違うの?」


 神崎さんは目をぱちくりさせている。

 ごめん、これはオトナの話だから子どもには言えないっ!

 僕と運転手さんはバックミラー越しにアイコンタクトを交わした!


「てかせんせー、髪の毛伸びすぎじゃないー?」


 神崎さんが僕の襟足を引っ張る。

 前のめりになってた僕は、後ろのシートに尻もちをつくように背中をつけた。

 そこに神崎さんがすかさずくっついてくる。


「あう。そういえば、こっち来てから切ってないかも……」

「不良じゃん!」


 いや髪の毛よりも。このくっついてる状況がまずいって!

 腕に絡む手を振りほどこうとすると、目で威嚇されてしまった。途中でタクシー降ろされるからって、そんな根に持たなくとも〜。


「髪の毛長いけど!」

「あーはいはい、切りますから!」


 しかたなく腕は諦めた。

 けどやっぱり後ろめたくて目を逸らすと、またバックミラー越しに運転手と目がバチコーンッ!

 ああ絶対ゴカイされてる。


「ね、コレ奈朋なほが切ってあげよっか?」


 はい?

 この子今、怖いこと言いましたよ?


「へ~すご~い。神崎さんって美容師免許持ってるんだぁ(棒読み)」

「んなわけないじゃん!!」

「いで! 髪を引っ張るのはやめで!」


 将来のために蝶よ花よと甘やかして育ててきた僕の頭皮御仁ごじんに、なんたる無礼な振る舞いをっ!?

 しかし髪の毛を掴んだ手は離れてくれない。

 くっ……うおおおっ。僕のは今、神崎女史危険人物の手中だ。迂闊うかつなことが言えぬっ!


「奈朋、こういうの得意だから、パパの髪の毛も染めたり切ってあげたりしてた……の……」


 僕の腕からするりと小さな手が落ちた。

 神崎さんはタクシーの外へ目を向けて、そのまま口を閉ざした。

 パパね……。

 この子はなぜか両親と離れて僕と生活しているけど、寂しくないわけはないんだよな。

 だってまだ10歳だ。自立できる年じゃない。


「わー。散髪代が浮くのは、悪くないなー」

「!」


 神崎さんと目が合う。


「はあ……。教師らしく、切ってくれる?」


 僕の言葉に、彼女はみるみるうちに会心の笑顔へと変わる。


「『切ってください』だろこのやろう!!」


 そしてなぜか僕にパンチが飛ぶ! それは意味わかんない!!


「じゃあ今日の夜ね、やくそく! しょーがなしだよ?」


 神崎さんは僕に背を向けると、また窓に寄り掛かって外を眺めた。

 窓に反射した彼女の顔が呆れるほどにやけていたから。殴られたことは許すかなと、僕も笑みをこぼしてしまう。


 タクシーが小さくブレーキをかけて、カーブを曲がった。


「あ、運転手さん。わたしここで降りますっ!」


 神崎さんの弾む声に運転手が反応し、ゆっくりと停車した。


「もう学校近いし間に合うからっ。じゃあねー、せんせ!」


 彼女は自動で開いたドアから軽やかに身を滑らせると、大きく手を振って。黒いランドセルを背負い直し、走って行ってしまった。


「……出してください」

「お客さんたち兄妹? 仲良いですね」

「あぁ、ははは……」


 ……そうだあの子は小学生だったよ。どうしたって不倫カップルに見えるわけないわ。

 僕は脱力してシートに体をうずめた。


「嵐が去った……」


 苦笑しながらひとりごちてみる。

 ちょうどメーターがひとつ上がったのが見えた。

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