3-8 一枚の板<後>
顔を手で覆った。
気温は低いのに、びっしょりと湿っていた。
「……違うんだ。神崎さんのことが嫌だから帰らなかったんじゃなくて」
こめかみが熱を帯びる。
目が溶けてしまいそうだ。
「今日は、先生たちとの歓迎会だったんだよ。それで遅くなったんだ。ごめんね。伝えてなくて……」
「……
「違うよ、僕が言わなかった」
「せんせー……」
小さな吐息とともに神崎さんの声が漏れた。
「奈朋のことが嫌いじゃなくて、よかった」
「……っ!」
僕からこぼれ落ちるそれは何年もずっと見ていなかったものだった。
お酒を飲んだから、過敏になっているのかもしれない。
顔を見られていなくて良かったと、僕は安堵して鼻をすすった。
……のに。
次の瞬間、身体が真後ろに倒れて後頭部を床で打ちつけ、天井を見上げる状態になった。
ぽかんと僕を覗き込む神崎さん。
それをアホ面で見上げている僕。
「なにしてんのせんせー」
「いや……それはこっちのセリフで……」
「ちょっとそこじゃま。トイレ行きたいんだけど」
今しがたの会話はなかったかのように、僕をまたいで廊下に出た神崎さんは、リビング手前のトイレに駆け込んで行った。
「え。天の岩戸は、トイレのために開かれたのー……?」
頭を打ちつけた衝撃で景色がぐわんぐわんと揺れる。
昏睡してしまう前に……と、僕は最後の力を振り絞って這ってリビングに行き、床に丸くなると意識を手放したのだった……。
………………
…………
……
身体がチョー痛い。
目が覚めると、割と元気めな太陽が窓から差し込んでいた。
起き上がってリビングを見渡すと、薄い毛布にタオルを巻いたクッションが転がっている。
なぜか特に後頭部が痛い。
飲みすぎたかな……。シャワー浴びてこよ……。
脱衣所で頭を拭いていると、玄関が開く音がした。
「コンビニで雑炊買ってきたよー!」
「おかえり! 小5にして天才がいる!」
神崎さん、買い物に行ってたのか。
声だけで返事をして、Tシャツの上にグリーンのチャイナシャツを羽織ってリビングへと向かった。
キッチンでレンジがまわる音が聞こえる。
リビングでは神崎さんがテレビ番組をパラパラと流し見ている。
僕はキッチンで洗い物をすることにした。
「昨日、毛布ありがとね」
神崎さんの背中にキッチンから話しかける。
神崎さんは照れくさいのかこちらは見ず、左手をあげてこたえた。
「そういえば髪の毛、いつ切ってくれるの?」
神崎さんは遠慮がちに、ソファの背から目から上だけ出す。
「イヤじゃ……ない?」
「まさか」
「んふふふ。せんせぇ!」
テレビのリモコンをテーブルに放り投げて。走って来た少女が抱きついてくる。
「え、ちょ、なになに!?」
「だーい好きっ! すぐ支度するね!」
「えっ、今からなの!? ごはんはーっ!?」
ぱたぱたと走り回って用意をする少女。
仕方ないなと苦笑しながら、洗い物を続ける僕。
おだやかな朝が始まった。
これからも同居をしていると、ぶつかることもあるかもしれない。
でも彼女とだったら、こうやって話し合いをしていけば、必ずわかりあえるんじゃないだろうか。
そうすれば誰も傷つかずに、同居期限が終わるまで円満に暮らしていけるんだって。
このときの僕は、そう信じて疑わなかった。
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