3-7 一枚の板<前>

 0時20分。

 パーカのフードをかぶったまま帰宅すると、家の中は間接照明だけがついていた。

 リビングに人気ひとけはなく、きれいに片付いて静まり返っている。神崎さんは……もう寝てるか。

 棚からグラスを取り出して水道水を注ぎ込む。イッタラの赤いグラスに入った水は、緋色に揺らめいた。

 グラスを持つ手が目に入る。柔らかい小さな手の感触がかすかに残っていて、脳を痺れさせる。


「おかえり」


 ふいに声をかけられて、顔を向ける。

 リビングの入り口にパジャマ姿の神崎さんが立っていた。


「うん、ただいま……」


 後ろめたくて、思わず視線をグラスに向ける。


「あ、神崎さん。そういえば今日の晩ごはんって……」


 肘にパシッと、なにかが投げつけられた。

 神崎さんは走ってリビングを出て行き、遅れて自室の扉を閉める音が聞こえた。

 床に落ちて形が崩れたそれを拾い上げる。


 潰れて中身がはみ出したコッペパンの袋に、『せんせいのごはん』とマジックで書かれていた。


ドクン。


「――っ」


 後ろから不意に打たれたように胸の奥が弾け、頭が熱くなる。

 これ、僕のために……。


 ……ああああ。なにが『ただの同居人だから』だよ……。

 マジックで丁寧に書かれた文字を指で撫でる。


 僕は神崎さんの気持ちを踏みにじった。

 甘えて、のぼせて。都合のいいほうへ逃げただけじゃないか。


 くそ!


 足は自然と動いた。


 トントントン!


 神崎さんの部屋の扉を叩く。


「神崎さん?」


 トントントン!


「神崎さん」


 トントントン!


「ごめんね、話したいんだ」


 トントントン!


「神崎さん!」


 ドアに耳を当てる。

 部屋の奥からかすかに音が聞こえた。

 そして。


「無理! 無理! あっちいって!」


 それは完全な拒絶だった。

 パーカの上から自分の胸を押さえるように握りしめる。

 それでも僕はドアを叩くのをやめなかった。


「ごめんなさい。ごめん。ごめんね。ごめん……っ!」


 額をドアにつけたままその場にへたり込む。


「神崎さんの気持ちを全然考えていなかった。神崎さんが僕の話を聞いてくれないせいにして、向き合うことを放棄してたんだ」


 中でわっと泣く声が聞こえた。

 きっと彼女は布か何かで口元を押さえているのだろう。

 くぐもったその声は、こんな僕にもまだ泣き声を聞かせないように配慮しようとする、彼女の優しさそのものだった。


「ごめん……」


 頭の中はとうの昔に真っ白で、罪悪感だけが僕の胸の中を占める。


 それから何分くらい経ったのだろうか。

 扉の前でうつむいていると、扉がわずかに揺れた。


「せんせ……」


 声が近くなっていた。

 扉一枚向こうに、彼女がいる。

 だけどドアは開かなかった。

 それが僕たちの距離だった。


「わたし、パパが大好きで、パパ以外の人はどうでもいいって思ってる」


 静かに語り出すその声に、僕は耳を澄ませた。

 ゆっくりと向きを変えて扉に背中をつけ、フローリングに座り込む。


「パパは特別。パパと暮らせるなら、私は一生お嫁さんに行かなくてもいいって思ってたの……」


 ときたましゃくりあげる声。

 布をこする音。

 背中に感じる振動。

 少女の活動をこぼさないように拾い上げる。

 いつもの明るい彼女とは違う、別の顔の彼女がそこにいる。


「……」


 二人の息づかいは夜の闇に吸い込まれる。

 沈黙は恐怖ではなかった。

 相手が扉の向こうにいるのをしっかりと感じられていたから。


「でも、せんせーに出会って……。わたし、せんせーには興味を持ってるよ」

「……うん」

「だから、だからね。拒絶されるのが、こわかったっ!」


 語尾が悲鳴のように上がるのを、一生懸命少女は隠そうとしていた。

 嗚咽を飲み込み、耐えているのが伝わってくる。

 つらそうな呼吸を正してからでも良かったのに。少女は言葉を切ることはなかった。


「せんせ。わたし、パパの髪の毛を切ってあげたらほめられたの。『ナホありがとう。ナホは器用だね。僕の専属スタイリストさんだ』って。すごくうれしかった。だから、絶対、パパ以外の人の髪の毛は触らないって決めてた。だってわたしは、大好きなパパの専属だから……」


 しゃっくりのように継続的に起きる嗚咽に合わせて、苦しそうに息を吸う。

 ひく、ひく、という声の間をぬって、彼女は感情を吐き出す。


「でもせんせーはいいかなって。だってひとりになったわたしを守ってくれた。せんせーが拒否するはずないって、そんなことしないって。ずっと言い聞かせてたよ」


 なんてことをしてしまったんだ。

 僕は彼女の大切に想うものを踏みつけて。

 無下に扱ってしまった。


「だけど、せんせは帰ってこなくて、どうしようって思って。事故かなって外の音をずっと気にしてた。大丈夫、大丈夫って500回くらい言った。またひとりになるのが、こわいと思った」


 悲痛な声は、何度も消えそうになりながら燃え上がる、ろうそくの炎のように頼りない。


「せんせーが帰ってきたら、なんだかむかついた。無事だったのに。それで、ほんとは良かったはずなのに。おかえりって笑いたかったけどできなかった」


 頭が急激に冷えていく。


「せんせー。奈朋はわがままですか」

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