3-4 社会人の洗礼

 やっと21時。

 スマホを消して喫煙ブースを出る。めちゃくちゃ気を使うわ、新社会人。


 奥のオープンめな座敷から、できあがった先生たちのカオスな声が聞こえてくる。

 会がはじまって2時間。ようやくタバコに立つことができたけど、あそこに戻りたくなさすぎる。あの汚れた大人の海(ルビは“膿”でおねがい)に、のまれたくない。

 もうコース料理も終わってるし、そろそろ解散かな。急いで帰れば22時前には家に着くはずだから、まだギリギリ神崎さんも起きてるはず。


「そこのお兄さん。ご一緒していいですか?」


 背後から声をかけられて身を引くと、片手にグラスを持ち、壁に空いた手をつけて上原先生が立っていた。


「うふー失礼します」

「あ、上原先生」

「なあにー、あたしじゃ嫌ですかー?」

「ち、違いますよ! 上原先生だから安心したんですって」

「ほんとぉーに、思ってますぅ? はー、せんせのせいであついー」


 上原先生は自分の顔の熱を確認するように、頬をぺちぺちと触った。

 なにがおもしろいのかふにゃーと笑うと、潤った瞳から涙がこぼれ落ち……って、なになになに!?


「ど、どうされたんですか??」

「飲みすぎちゃった。えへへー」


 とりあえず近くのカウンター席に座らせて、僕も隣に腰かけた。

 彼女は持っていたお冷グラスの中身を一気に飲み干すと、どんっとカウンターに置いた。

 間接照明が、氷だけになったグラスをオレンジ色に照らす。

 所在なさげに、上原先生は机の水滴に指を這わせた。

 店内に流れるレベッカに、僕らはしばらく耳をすませていた。


「あのぉ。先生に、こんなありきたりのこと聞くのは、恥ずかしいんですけど……」


 カラン、と水のなくなったグラスで氷が踊る。


「長谷川先生って、なぜ教師になられたのれすか?」


 ろ、呂律回ってないね!

 えと、僕が教師になった理由? 別に大それたそれはないけど……。


「小学生のときに憧れの先生がいて、その人みたいになりたかったからですかね。自分も意外と子ども好きだし、楽しいですよ!」

「……」


 あ、あれ。リアクションなし?

 上原先生は自分の手元を見つめていて、顔色をうかがうこともできない。


「えっと、上原先生はどうして?」


 上原先生は空のグラスに口をつけて、しずくで唇を濡らした。


「……私の両親が小学校の教師で、兄も高校教師になりました。だから、私も将来は教師になると思っていたんですよ」


 後ろを歩く店員を呼び、耳元でこっそりと水を頼んだ。

 店員はにっこりと頷き、大声でキッチンに向かってオーダーした。まじか。


「でも私は嫌だった。そんな決まった未来に楽しみなんてないじゃないですか。いろいろ反抗もした。……けど結局、職場はこの通り学校です。ふふっ、意味わかんないですよね。バカなんです、私」

「……上原先生は、後悔しているんですか?」

「どうでしょうねぇ……」


 自虐的に上原先生は笑った。

 胸がちくりと痛む。


「あーあ、僕は教師になって良かったなー! だって、上原先生に会えましたからー!」

「……はい?」

「どんな職場でも人って大事じゃないですか。あ、さらに自分らしく働くことができれば最高ですよね! ……前に言いましたよね、僕は上原先生に癒されてるって。それって誰もができることじゃなくて、先生の魅力ですよ」


 上原先生は重そうだったまぶたを見開いて、僕を見つめた。


「だから、今の仕事は合ってるんじゃないですか。偶然職場が学校だっただけで、別に家柄にとらわれてるわけじゃないんでしょう? それにひとつ確実なことを言わせてもらうと、先生のご家族がどんなに敏腕教師だったとしても、先生の代わりはとてもつとまらないですね」


 事情はよくわからないけど、これは僕の本音だ。こんなに素敵な人なんだから、あまり思い詰めすぎないでくれるといいんだけど。


「ぐす……」


 上原先生は鼻をすすると、手で顔を覆った。そして、僕の肩にことんと頭をのせる。

 僕はそのまま黙って、彼女が落ち着くのを待った。

 水を運んできてくれた店員の女の子が、後ろで気まずそうにしていたのだけは、申し訳なかったけれど。

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