2-1 はじめてのほーむるーむ
ふたつの軽快な足音が背後から迫って来た。
「おはようこざいまーす!」
「あたらしい先生だー、おはようございます! なんさーい?」
「えっ? お、おは」
「もうHRはじまるからあとでだ! それから廊下は走らない!」
隣を歩いていた教頭先生が僕の代わりに答える。
「はーい! アハハハ先生と話しちゃったあ」
「きゃー!」
僕はビクビクしながら「すみません」と小さく頭を下げた。
顔を上げるとき、具合が悪くなりそうなほど派手なシャツが視界を遮る。
ウッと顔を上げればさらに地獄。
鼻下にたくわえたチョビヒゲに色付きのオーバル型メガネ、細眉、そしてスキンヘッド……の、どこから見てもカタギには見えない教頭の目を、結果1秒たりと見つめることはできなかった。
つか子どもたち、よく普通に話せてるよなぁ。
もしかしたら顔は怖いけど、本当は優しくていい人なのかもしれない。だったら僕も早く慣れたい。
じゃないと、職員室で顔を合わせるたびに感じる天国へのカウントダウンが、0を迎える日まではそう遠くないだろう。
ワックスがかけられたばかりのピカピカな廊下を歩いて教室に向かう。
新任教師のクラスには一度だけ教頭先生が付き添うことになっていて、僕が最初の付き添いに選ばれた。
職員室を出る前、他の新任の先生たちに泣きながら握手を求められた。
そんな大役に軽いめまいを覚えつつ、なんとか教室に到着した。
教頭先生は後方のドアへ移動した。HRは後ろから見学するようだ。
僕はドアの上に掲げられたクラスのプレートを見上げ、胸に手を当てて深呼吸する。
中からはにぎやかな笑い声が聞こえる。
今日からここが僕のクラスで、ここにいる子たちと1年間の付き合うんだ。そう考えるだけで口元が震えながらも緩んでしまう。
はやる胸のうちをおさえて、ドアを一気に開けて教室に入った。一斉にクラスが静まりかえり、僕に視線が集まる。
『最初だけだけどね~、教室が静かなのは。いつもそうならどれだけ楽か』
って、同じ学年を受け持つ鈴村先生が言ってたっけ。なるほど。
開いた窓からの新鮮な風が入り、それらが部屋中に入り混じる。
誰かが花瓶にさしてくれたチューリップの花弁が気まぐれに踊る。
黒板のチョークの匂い。木の机の匂い。そして制服の柔軟剤の匂い。
すべてからの祝福を大切に受け取るような心持ちで、教壇まで僕は背筋を伸ばして歩いた。
教壇に手をつき、ふうっと息を吐いてからクラスを見渡す。僕だけじゃなく、生徒からもピリッとした空気を感じる。
さあ、初めてのHRだ。
「おはようございます! 今年大学を卒業して、5年1組のみんなの担任になりました、長谷川誠です。趣味はコーヒー屋巡りです。みんなよろしくね!」
さて笑顔でまずはあいさつクリア。次は……っと。
僕は出席簿に目を落とす。
そうそう、春からの転校生の紹介をしなきゃいけないんだった。
顔をゆっくり上げると、転校生はいちばん後ろの席で僕にウインクした。
……はぁ。
「今日は転校生がいるので紹介します。きみ、前に出て自己紹介する?」
「ここで大丈夫です」
転校生は椅子から立ち上がり、にっこりと微笑んだ。
「
一体どういう星の巡り合わせだ。
まさかウチのシェアメイトが同じ学校で僕のクラスの生徒になるなんて。
どうして家だけでなく、学校でも顔を合わせなきゃならんのだ。ほんとまいった。
「超かわいー!」
「友だちになりたーい!」
げんなりしている僕の心境とは裏腹に、あちこちから好意的な野次が飛んでいる。
うっわあ、ニヤニヤしちゃって。
神崎さん、顔だけはかわいいからなぁ。ハッ、顔だけはねぇ……。
ん?
神崎さん、笑顔で周りの子には対応しているくせに、僕には笑っていないように見えるんだが。
ってかむしろ、怒ってない?
え? か、お?
げ、思考が顔に出てたのか。
……まてよ。
でもそこからじゃ、さすがの神崎さんでもなにも手出しできないだろう?
はっはっは、残念だったなこの小悪魔め。存分に自己を顧みるといい。
え? 今なんでニヤリとしたの?
頬に手をあてて……ああ、恥じらってるつもり?
で? それでどうするの?
「……好きなタイプは、はせがわ先生みたいな人……カナ☆」
「ぶぶふーーーー!!」
顔を隠した出席簿に盛大に吹き出す。
ってコラアアアアアア!!
なにそれ反則でしょ!
うっわ、あざと!! ほんとに10歳かよこの子は!
気づけば、教室中の視線が僕に集中している。
あ、教頭先生の怖い顔がすっごい怖い。
アハハ……。
「あ、ありがとう神崎さん。1年間よろしくね……」
顔が引きつる。
むしろ痙攣してますけど。
ねえ僕、かなりがんばってるよね……?
「しつもーん」
男子生徒が挙手をする。
名前は……え、えっと……。
「水口です、ヨロ!」
お、しっかりしてる。モテそうだなこの子。
「ありがとう水口くん。なにかな?」
「どうも! あのさ先生ってカノジョいんのー?」
「……えっ」
そんな色気のある話、初日でするの?
「いや俺さー、オンナいんだけど。神崎さんのこともいいなって思ってー」
シューシューと、外野から鳴らない指笛が飛び交う。うん、おまえらもっとがんばれよー。
「せんせーあたしも質問! せんせーの知能指数は??」
えっなにそれむずかしい!
「せんせー」
「せんせー」
「せんせー」
「せんせー」
あ、あ、あれ?
急にくらくらと目の前の世界が回り始めた。
どうしたんだろう。生徒たちの声にエコーがかかって聞こえるし、目の前はかすんでいく。
何これ、なんで急にキマってんの?
ま、まさか教頭、僕に何か変なクスリを————?
テレビの電源が切れるように、僕の記憶はそこでぶつりと途切れたのだった。
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