編集済
ここでは「僕」とさせてください。
ただの鈴虫とは違い、僕は差別を是としています。
なぜならそこに芸術が生まれるからです。
もし差別がなかったら。
夕崎さんは全く別の作品を書き、僕はあなたに出逢えなかったかもしれません。あなたの苦しんだその一部が藤猫を生み、企画に参加し、この作品を生み出した。
日本人がそうさせたのなら、僕は喜ばずにはいられません。
僕はこの喜びのために、夕崎さんも、他の同じような思いの方も苦しめといっているのです。最低ですよね。ゴミクズだとはよくいわれます。
そして世の中には平等と謳って差別を差別するだけの人間がいます。
1/4の気持ちはわからないけれど、夕崎さんには日本人を差別する人にはなってほしくない。
僕はともかく「私」ならこう言うと思います。
作者からの返信
こちらの返信では、私は鈴さんと呼ばせて頂きますね。
鈴さんの言葉は遠くから見ると棘があって冷たく、突き放してるように見えるけれど、実際近くで耳を傾けて聞いてみれば、ストンと身体のどこかに溶ける優しさがあって好きです。
最初のコメントだけ見て、考えない人だったらなんだこいつと思うのでしょう。
だけど、鈴さんの言いたいこと伝えたいこと核に触れるほどわかっているのかと言われてしまえば、即答は出来ませんがわかります。
ちょっと人と違う、だけどそれを受け入れて生きている。
どこか私と似ていて、似ていない彼女彼ら。
私の生きている中で感じた思いや、憧れていたものが作品に反映され、それを良いと言ってくれるのであれば、それはとても嬉しいです。
二十年かそこらしか生きてはいませんが、経験が、感じたことが無駄じゃないってことだと思えて誇らしいです。
私は日本人にもなれるし、英国人にもなれる。
だけど、同じように日本人にもなれないし、英国人にもなれない。
なんにでもなれるし、なにでもなれない。
ある意味、自分自身の可能性が無限大みたいなものですよね。
無闇矢鱈にこれはこうだから、少し違うね?ダメ、と張り紙を張るどうしても違うことを認めたくない人たちからしたら、これ以上に悔しいことはないかと思います。
鈴さんはご自分を卑下されますが、芸術を愛して綺麗なものが好きな人は少なからずみな似たようなことを感じるのではないでしょうか?
だって、体験が作品に滲み出るんだから。
音楽だって、絵画だって、書き物だって、その人の感情が体験が生きていた中での経験がなければ無機物なままですから。
私は、以前コメントで残した通り人生の大半を音楽に捧げていました。
そんな当時私の得意だったものは、悲愴溢れるものや激情に任せるものばかり……。
あの時は、そういうものが気持ちが一番乗りやすく、伝えやすかったんですよね。思春期だったってこともあったのかもしれませんが。
だから、そのままで良いんだと思います。
その考えで、その染まっていない、美しいものが好きな鈴さんのままで。
それに最後の一文を見て、やっぱり私は鈴さんの言葉が考えが好きだなと思いました。
伝えたことが多すぎて、あまりにも長くなってしまいすみません。
強い思いが伝わってきました。
全てを理解することはとても出来ません。でも、この作品を読ませていただいて、その思いに触れることができてよかったと思っています。
どうぞ早くおばあさまに会えますように。