私の名前はフーマリエ

鏡水たまり

私の名前はフーマリエ

 ペットショップの小さなゲージの中で、私は自慢の毛を丁寧に手入れしていた。毛のお手入れは二番目に大切なこと。一番はもちろん身嗜みを整えること。そうして、いつか迎えにくる素敵な飼い主にアピールしなくちゃ。

 一通り毛繕いを終えて、確認する。ふさふさ毛皮にキュートな尻尾、きゅるんと飛び出すお耳に誰もがメロメロ間違いなし! 今日もバッチリ、世界で一番可愛いチンチラだわ! これで今日も準備万端! 早く私に相応しい素敵な飼い主が現れないかなぁ。と意気込んだところに、来たのがデロンデロンの服を着たパッとしない人間。人混みに紛れたら絶対見失ってしまうような、印象のなさ。この人間は私の飼い主に相応しくないわ。私は、今日二度目の毛繕いをすることにした。

 毛繕いに集中していると、ゲージが開けられる音がした。びっくりして私はとっさに巣箱に隠れようとするけど、店員の手が伸びてきて呆気なく私の体は宙に浮いた。気づけば、私はあのデロンデロンの男に抱かれていた。

「ふわっふわ」

 そうでしょうとも。私は胸を張った。

 飼い主には相応しくないけど、自慢のふわふわの毛を特別に触らせてあげるわ。私は、デロンデロンの男に身を任せた。

「この子にします」

 男が、思わず聞き逃してしまうような声で言った。店員も一瞬耳を素通りしたのか

「あ、あっ。かしこまりました」

 と、答えた。

 私は、私は……ありえない!! 世界で一番可愛い私が、こんなパッとしない人間に飼われるなんて!!! ぷんぷんしながら、この男の腕から脱出しようと淑女らしくなくバタバタと暴れた。

「わ、落ちる」

 男は少しあたふたしつつ、私を落ちるかせるように背を撫でた。

 そんなもので落ち着いてやるものか! と、辞めずにバタバタしていると

「普段はとても大人しい子なんですけどね~」

 と店員は少し早口で、そそくさと私をゲージに戻した。


 抵抗も虚しく、私は箱に入れられ男の家まで運ばれて行った。

 まっさらなゲージに入れられた私は、この現実を受け入れられず、とにかく逃げるように巣箱に隠れた。

「きみの名前はフーマリエ。シンハラ語で姫だよ」

 私の背に向けて、男が声をかけた。姫、という名前は確かに私にふさわしいわ。どん底だった気分が少し上向く。

「よろしくね。僕のフーマリエ」

 私は巣箱の中で丸くなりながら、ふんっと鼻を鳴らした。

 この男が飼い主になってしまったのは仕方ない。こうなったらやけ食いよ! と、淑女らしくなく餌の前に陣取った。そしたらびっくり! ペットショップで食べていたのと別物のように美味しいフード。これなら、なんとか暮らしていけそうね。

「尻尾、振ってる」

 男は、静かに揺れる尻尾を目敏く見つけていたようだった。


 それからは、驚きの連続だった。

「ずっとゲージだと狭いだろ」

 突然男がゲージの檻を開け放ち、そう言った。私は意味も分からず後ろ足で立ち、固まる。ペットショップにいた時よりもよっぽど大きなゲージなのに。

「ほら、出ておいで」

 優しい声がしたので、私は初めて檻の外に出てみた。

 伺うように男を見るが、見つめ返してくるだけなので、私は気になっていた男の住処をくまなくチェックした。部屋の隅々まで移動する私を、男はずっと付いて見守っていた。

 その日から、毎日一時間以上部屋を自由に散歩させてくれた。男は変わらず、ひとときも私から目を離さない。そこまでして、私を広い部屋で散歩させたいのね。私の尻尾は自然と揺れていた。

 驚きと言ったら、おやつ! あんな美味しいもの、初めて食べたわ。男がゲージを開けたから、散歩かゲージの掃除だと思ったのに、見たことのないものを私の口元に持ってきた。

 ほんと、この男は言葉が少ない。まぁお喋りな男もそれはそれで、うざいかもしれないけど……

「食べない?」

 と、男が言うので、これは食べ物なのねと機転をきかせた。私は賢いチンチラなのよ。両手で受け取り、一口齧ってみる。

 そしたら、これまでに食べたことのない甘い味がして、ほっぺがとろけそうになった。夢中で齧っていると、あっという間になくなってしまった。しばらくの間、食べたままの姿勢で放心する。でも、尻尾が雄弁に美味しさを物語っていた。

 その日から、毎日一欠片だけおやつをくれるけど、どれだけ催促をしてもそれ以上はくれなかった。私は男の姫なのに! わがままくらい聞きなさいよ! と足をトントンしてみるけど

「おやつばかり食べると体に悪いからな」

 と譲ってくれなかった。

 私はこれまで人間が毛を整えてくれるなんて知らなかった。男がペットショップで買ってきたブラシで私をブラッシングしてくれた時、本当に気持ちよかった。ブラシを警戒して逃げ回ってた時間がもったいなくてしょうがない。こんなに気持ち良くて、毛並みもつやつやになるなんて! なんて素敵なの。

 マメな男は毎日十分以上、気付いたら三十分ほどブラッシングしている時もある。ブラッシングの最後には、ふわふわになった私の背をひと撫でする。自分で仕上がりを確認したいんでしょうね。私は、しょうがないなと思いながらも、撫でやすいようにそのままじっとしている。


 服のセンスだけはデロデロ一択のありえない男だけど、姫の名の私に尽くす姿は、私の飼い主と言ってもいいかもね。

「尻尾揺れてるよ、ご機嫌なんだね。フーマリエ」

 もう、わざわざ言わなくてもいいじゃない。無粋なんだから。

 それでも、尻尾は止まることなく揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の名前はフーマリエ 鏡水たまり @n1811th

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ