精霊の貴人
あれから、二刻、いや三刻が過ぎるだろうか。
昼を過ぎたばかりだった窓の外はもう、すっかりと夜色に染まっている。
いつもだったら、もうすぐ夕食の時間。
賑やかで楽しい空気に包まれる筈の大広間は、不思議な静寂が支配して針の落ちる音さえ聞こえそうだ。
「マリカ様」「大丈夫?」
「マリカ姉、早く帰って来て」「ねえね。はやくおっきして」
時々、子ども達はマリカの側に近寄り、様子を見て声をかける。
薄い毛布を掛けただけのマリカは、静かに眠っている。
返事は返らない。
目を開ける事も動く事も無い、彫像のような姿に彼らは息を吐き、また部屋の隅に戻っていく。
小さい子達の不安を和らげるようにオルドクスが寄り添う。
彼の暖かい毛皮に顔を埋めながらも、誰もかれも、その表情を失っている。
突然の悲鳴と共に、マリカは意識を失った。
まだ帰って来る様子はない。
自分達の知る「マリカ」が戻って来るか。
正直、今の自分達には確証もないのだけれど。
「リオン、エルフィリーネ」
マリカの右と左、守るように彼女の側に寄り添う獣と守護精霊は、片時もマリカから目を離そうとしない。
彼らもまるで彫像になったかのようだ。
「少し、休みませんか? 交代しますよ?」
「いや、いい。ここにいさせてくれ」
「私も…お構いなく。マリカ様のお側から離れたくないのです」
そういう二人を止める事は出来ない。
なら自分にできるのは、彼らの側にいる事だけだろう。
僕は、リオンの横にペタンと腰を下ろした。
午後の勉強時間。
自分の提案でギフトの能力検証を始めて間もなくのことだ。
マリカが突然、悲鳴をあげたのは。
正直、何がおきたのかは解らない。
「ああああっ!!」
突然声をあげて、崩れ落ちたマリカは
「う、うあああっ! 痛い、痛い! 痛い!!」
その後、悲鳴と共に床をのたうち回った。
誰が触れた訳でもない。何故、そんなことになったのかさっぱり解らない。
おろおろしながらも、必死で身体を押さえていたリオンが、やがて現れたマリカの変化に息を呑んだのが解った。
その場で見ていた全員声も出ない。
ミシミシ、と怖ろしい音を立て手足が伸びていく様、肩や胸が柔らかな丸みを帯び膨らんでいく姿。
肩口までのポニーテールは暴れるうちに、紐が切れ腰のところまで長く伸びていた。
成長と変化の能力を持つミルカのギフトと似ているが、彼女のそれとは比べ物にならない程、マリカの変化は苦痛を伴っているようだった。
「く、くるしい。息…できないよ…」
「リオン兄様! 服を! このままではお姉様の呼吸が止まってしまいます」
「解った!」
そうしている間にも、マリカはバタバタと手足を動かし、悲鳴を上げ続ける。
ミルカの声に腰の短剣でマリカの肌を傷つけないように注意深く、でも最速で素早く、リオンはエプロンを外し、ワンピースを切り裂いた。
白い肌が顕わになるけれど、フッと身体が呼吸が解放されたのが解った。
けれど、安堵する間は一瞬も無く
「あっ、あ、ああああっ!!」
一際大きな悲鳴をあげ、彼女は意識を手放した。
しばらくぴくぴくと動いていた身体が、完全に変化を終え、静まったのはそれから少し後。
その時にはマリカはもう、少女の印象は欠片も無く、美しい成人女性の形に変わっていたのだった。
他の子ども達は、距離を置いてこちらを見ている。
普通に話せば、多分聞こえる事は無いだろう。
僕は、気になっていたことを聞いてみる事にする。
「エルフィリーネ。貴女の言うマリカ様、とは僕らのマリカですか?
それとも、かつてのエルトゥリア女王?」
「今の、マリカ様です。…私があの方を呼ぶ時には主、もしくは陛下とお呼びしていましたから。
主、と呼ぶ時あの方を思い出し、重ねていたことを否定はしませんが」
「リオン。やはり貴方はマリカを、かつての女王の転生だと思うのですか?」
ピン!
返事の代わりに僕に向けて飛んできたのは精霊金貨だ。
それを黙ってキャッチして、見る。
金貨は表には紋章と宝石が、裏には女性の肖像画が描かれていて…。
「なるほど…」
今まで気にしたことも無かったが、確かにこれは言い訳のしようがない。
精霊のように美しい女性の肖像画は、眠る彼女に…大人の姿になったマリカに…瓜二つであった。
「マリカの身体が変化する時、微かにだがあの方の力を感じた。
まさか500年の時を経て、この姿と再会できるとは思わなかったが…」
「心配です。
何がおきているかはとても理解が及ばず、再会を嬉しいと思いながらも、この方が瞳を開けた時、意識が戻られた時。
その時のマリカ様は、果たしてどちらなのか…と」
エルフィリーネの発した恐れは、きっとリオンの抱える怯えと同一のものなのだろう。
何かの理由で、どこか、僕達の手の届かない場所に行ってしまったマリカ。
帰ってくるのだろうか?
帰って来たとしても、それは僕達の知るマリカなのだろうか?
眠る女性を見る。
急成長した身体に子どもの服はどうしても無理があって、呼吸困難に陥る前に胸元と肩口が裂かれて見る影もない。
今は、毛布で隠されているけれども、精霊もかくやと思うほどに美しいプロポーションだ。
顔つきや全体の印象には確かにマリカの面影がある。
健やかに成長すれば、確かにこうなるのだろう。
マリカは可愛らしい顔つきの美少女だったけれど、今の彼女にはその表現は似合わない。
美しい。
陳腐だけれど、そう言い表すしかないのだ。
白い肌、整った鼻梁、紅色の唇。
表情無く、血の気なく、動かない双眸は本当に彫像の様で、完成された美しさを際立たせている。
本当はこんな冷たい床の上に、裸も同然の姿で寝かせておきたくはないが、微かな振動が彼女を形作るバランスを壊してしまいそうで、結局その場から動かさず、見守ることになった。
全員の集合を義務付けている訳ではない。けれど本当にただの一人、誰一人としてこの場から離れない。離れられない。
午睡から目覚めた小さい子達も、騒ぐでなく、暴れるでなく部屋の中にいる。
できることは何も無く、彼女の帰りを信じて、待つしかなくても。
ここでマリカの帰還を待ちたいのだと、解っていた。
だが…この姿が再び動き、目を開けたとしてもこの完璧なまでに美しい、でも氷のような顔で見知らぬものとして、自分を見られ
『貴方は誰ですか?』
などと聞かれたら多分、冷静ではいられない。
取り乱してしまう確証が、僕でさえあった。
小さい子達は泣き出すだろう。
「マリカ…」
横から、本当に囁くような声が聞こえる。
「頼む。マリカ様。どうか、俺達に…マリカを返してくれ…」
それは、祈りにも似た懇願だった。
神ではない誰かに向けた。魂の叫び…。
「! アルフィリーガ!! マリカ様が!」
エルフリーネが声を上げる。
マリカの身体が動いた。
まるで、石像のように動かなかった身体が、ぴく、と。
ゆっくりとその瞼を開き、驚くような熱を発し立ち上がる。
「マリカ様!」「マリカ姉!」
皆が駆け寄ろうとするが、紫紺の瞳に射抜かれ、身体が動かない。
「マリカ…」
夢にうかされ、立ち上がった彼女の身体にかけられた毛布が、はためく。
まるで彼女の肌を守るローブのように。
ただの毛布がシルクのように煌めいて見えた。
ここは室内。風などないというのに。
風に靡く夜色の髪には星が明星の如く輝く。
それが切れた髪飾りの宝石だと気付けたのは後のことだ。
僕は、息を呑む。
魅入られていた。
風を光を従えて立つどんな精霊よりも美しい、その横顔に。
「精霊の
真っ直ぐに伸ばされた手と共に彼女の身体から、何かが立ち上った。
金と黒。二匹のそれは獣だった。
彼らは主の前に伏せると掲げられた手と共に空を駈け上る。
獣達が周囲で渦を巻き、彼女の身体に吸い込まれて行くその姿は本当に夢の様で…彼らを抱きしめる彼女は儚げで…
皆が彼女を見つめていた。
全てが彼女の中に消えると、凛と立っていた身体が力を失い、崩れる。
「マリカ!!」
リオンが身体を支え、直撃を防いだと同時、圧力が消えて身体が自由になった。
やがてリオンの腕の中で、彼女の身体が音を立てて縮んで行く。
かつてのミルカの時とほぼ同じ。
今度は苦痛はないらしい。
あっと言う間に気が付けば、元の大きさに戻った僕達の良く知るマリカがリオンの腕の中で静かな息を立てていた。
「あ…、うん……、わっっ!!!」
ゆっくりと瞼が開き、紫水晶のキラキラとした瞳が輝いた。
さっきの人を寄せ付けぬ精霊の輝きではない。
「マリカ姉!!」「姉様!?」
エリセとミルカが、抱きつき、縋りつき泣き出した。
「エ、エリセ。ミルカ? みんなも?」
「マリカ、ですね?」
キョトンとした表情、柔らかい眼差し。
安堵する。
暖かで優しい、僕達がよく知る少女のそれだ。
「聞きたいことはたくさんありますが、説明は後で良いです。とにかく、君が帰って来てくれて、良かった…」
縋りつき、泣き出す二人を宥めながら身体を起こすマリカの視線は僕の横。
本当に、泣き出しそうな顔の二人に注がれていた。
「リオン…、エルフィリーネ…」
「マリカ様、でいらっしゃいますか?」
震える声で問うエルフィリーネにうん、と彼女は頷く。
「…私。帰って来たの、帰って来れた…。リオンの『マリカ様』のおかげだけど…。
ごめんね。リオン、マリカ様は連れてこれな…」
少女達が身を避け開いた場所、マリカの隣に膝をついたリオンは
ぎゅう、と
無言でマリカを抱きしめた。
「リオン」
マリカに肩に顔を埋め、抱きしめるリオン。
「お前が…マリカが、戻ってきてくれて…本当に良かった」
吐息のように零れた言葉は、紛れもない真実の思いだと解る。
「うん。私も戻って来れて、良かった…。
みんなの所に。帰って来れて良かった」
ポンポンとリオンの背中を撫でるように叩いたマリカは、やがて、目元を拭いながら離れたリオンと笑みを交し、そして告げた。
「ただいま。みんな」
「おかえりなさい」
僕達の良く知る、マリカの笑顔で。
魂を奪われる、ということがある。
恋でもなく、愛でもなく。
ただ、全てを捧げてもいいと思う、絶対の存在。
それを僕は見た。
今も眼を閉じればはっきりと思い出せる。
闇色の髪、紫水晶の瞳。
星に祝福された『精霊の
誓おう。
誰に告げるでもない、自分の心に。
我が命運は『精霊の
我が魂は『精霊の
あの二人を、害をなす全てのものから、絶対に守って見せると。
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