誘惑

第24話

 誰も居ない廊下が続く。蛍光灯の光では足りず、先の見えぬ暗闇が行く手を阻む。指先は赤くかじかんで、赤く染まり痛痒い。固く握った両の手を、ミツキはパーカーのポケットに突っ込む。

 彼女一人の足音と、風音が混ざり鼓膜に届く。左右の窓から見える景色は黒一辺倒に染めあげられて、窓の外に虚像がミツキの姿を映しだす。それは合わせ鏡のように、虚像が虚像を結び、ありもしない世界ごと無際限に作りだしていた。

 何度も通り慣れている。校舎の五階へ続く道、終着点は最も高い屋上だ。鍵で常に閉ざされて、一度も入ったこと無いが今は開いているらしい。危険だからと封印された扉の奥で、自分を待ってる人がいる。

 振り返ることはしなかった。正確にはできなかった。

 背後から闇が迫るようで怖かった。それに自分の背後を知っていても、知らなくとも、いずれにしても戻るつもりは無く、知った所で全く無意味な事だった。

 一歩、歩くたびに髪が揺れ、蛍光灯がまたたいた。

 表情一つ変える事無く、まだ見えぬ先の扉を見つめる。蛍光灯と窓だけの、代わり映え無いその道を淡々とした調子で前に進む。

 短い階段を登り始める。ほんのわずか数段を、一段毎に踏みしめていく。最終段に足をかけた時、金属製の白い扉がぼんやりと闇に現れた。

 銀の取っ手に下げられた、立ち入り禁止の看板が斜めに傾き掛けられている。暖かなポケットから冷たい空気に諸手を晒し、冷える扉に手で触れる。

 金属製の扉は厚くて重い。ミツキは両手に力を籠めると、軋みを上げて開き始めた。

 少しずつ扉が開く。隙間からは冷風がすり抜け雪が舞う。

 夜の空を厚く覆った雲の奥から、月の光が透過している。雪は薄く降り積もり、少しばかり光を放つ。

 半球状に空ごと包む安全柵はペンキが剥がれ、赤く黒く、ざらついたサビが包み込む。幅広の柵の合間から、雪が雨より遅く降る。

 新雪に初めての足跡を残しつつ、目的の人物を探す。

 唯一、闇に浮かぶ学校は、乏しい光でありながら、明瞭でかつ鮮明に、それでいて闇と雪が視界を阻み曇らせている。人工の光はどこにもない。建物や車のライトは当然のこと、蝋燭やランタンの火でさえも、学校の他は全て闇に沈み切って、月を除けば光をもたらすものは何もなかった。

 柵の外で人影が浮かぶ。

 屋上の縁の上に座る見慣れた少女が、ミツキに背を向け髪を風になびかせている。柵を握り締めたとき、赤黒い鉄のサビが手に着いた。

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