第一部 第一話 無能な青年と無情な姫 その1

 皇歴1024年 穂積ほづみ家の別荘にて。


「この絵本が……」


 子供向けの小さな絵本を机の上に置き、宗次郎は一人つぶやいた。


 張り替えられたばかりの畳に、ずらりと本が並んだ本棚。窓辺には椿が描かれた掛け軸があり、陽の光を受けてきらめいている。部屋の中央に鎮座している暖房器具は季節の変わり目ということもあって、久しぶりに電源を切られて休暇を満喫していた。


「そうですよ。宗次郎様はこの絵本を読んで欲しいと、母親である麻奈様によくせがんでおりました。覚えていらっしゃいませんか?」


 背後にいる家政婦が宗次郎に優しく語りかける。


 振り返ると、童顔の女性が丸い目を閉じて微笑んだ。


「思い出の品、ということですか。これは重畳」


 家政婦の言葉に合わせ、宗次郎の目の前に座る医者が嬉しそうに笑う。


 机の上に置かれた絵本のタイトルは『初代王の剣』。表紙は腰に刀を携えた青年と王冠をかぶった青年が、朝日を背に拳をくっつけている様子が描かれていた。


「では、宗次郎くん」


 白衣を着た医者が宗次郎の両眼を捉えた。


 思わず宗次郎の体がこわばる。いつもの質問が来る、と確信した。




「何か思い出したかな?」




 毎日行われる定期検診、その最後に必ずやってくる質問がきた。


 宗次郎はゆっくりと息を吐き、目を瞑る。頭に浮かんでいた映像を再度なぞる。

 

 母親と一緒だった寝室。月明かり。読んでもらった絵本。自分の夢。母親の優しい笑顔。


 妄想ではなく、確かな記憶であると宗次郎は確信した。


「はい……思い出しました。母に読んでほしいとお願いをしていました」


「本当ですか、宗次郎様!」


「おお、いい傾向ですね」


 我が子が初めて歩く姿を見た親のように、家政婦と医者の笑顔が炸裂した。


「なんてこと……。先生。このままいけば、宗次郎様の記憶は戻りますよね」


「もちろんです。治療の効果が表れている証拠ですから」


「ああ、本当に素晴らしいことです。当主様にもお伝えしなくては」


 喜びを分かち合う二人。宗次郎はというと、そうでもなかった。

 

 ━━━信じる、か。今の俺はそれ以前の問題だな。


 蘇った記憶の中で母親に言われた言葉を思い出して、宗次郎は内心自嘲気味に笑った。


「では、時間なので私はこれで。宗次郎くん、お元気で」


「ありがとうございます先生。お見送りいたします」


「ありがとうございました、先生」


 立ち上がって医者に一礼。割烹着と白衣が扉の向こうへ消えるまで、頭を下げ続ける。


 心にずっしりとのしかかる疲労が顔に表れていることを、悟られないように。







 穂積宗次郎ほづみそうじろうは今年で二十一歳。大陸全土を収めるすめらぎ王国において貴族の長男として生まれた。長男なので通常であれば家を継いでいるはずなのだが、とある事情で記憶をなくし、家督を妹に譲っていた。 


 今は本家から離れた別荘で暮らしていて、先程のような記憶を取り戻す診療を続けている毎日を送っている。


「……稽古でもするか」


 憂鬱だった定期検診が終わり時刻は午後。ささくれた心を落ち着かせるため、宗次郎は体を動かすことにした。


 別荘は本家と違い剣道場が付随している。宗次郎の面倒を見てくれる家政婦は一人のみであり、めったに道場に来ない。一人になるにはうってつけだった。


 そよ風が木の葉を揺らし、たおやかな音色を奏でる。午後の穏やかな日差しが降り注ぐ庭を抜け、道場の扉を開ける。


 立て掛けてある木刀を掴み、鏡の前に立った。


「━━━ふう」


 等身大の己を前に木刀を構え、目を閉じる。


 深呼吸をすると心が自然と落ち着いてきた。


 永遠に時が経過するような沈黙の中、宗次郎は人の気配がして構えを解いた。


「気づきましたか。穂積宗次郎くん」


かどさん」


 名前を呼ばれた男性は年頃は三十代前半に見える。女性と見間違うほど長い髪、白い肌。とても女性らしいが、細く引き締まった体つきから男だとわかる。穂積家の当主の厚意でこの道場を借りており、子供達に剣術を教えていた。


 宗次郎にとっては、記憶を失った自分に色々と教えてくれる恩師である。


「早いですね。これから練習の準備ですか」


「いいえ、今日は道場はお休みですよ。集中の邪魔をしてすみません」


「そんなことはないですよ」


「おや。かなり落ち込んでいたように見えたので、気配を殺していたのですが」


 常日頃から人に教授しているからか、はたまた宗次郎がわかりやすいのか。門は背中を見ただけで宗次郎の精神状態をピタリと当ててしまった。


「今回は記憶が戻った、というところでしょうか」


「……そんなにわかりやすいですか、俺」


 精神状態がやっと落ち着いてきたところに追い打ちがかかる。


「あなたは不思議な人間ですね。記憶が戻った時の方が、より落ち込んでいるように見える」


「……」


「今日は何を題材にして治療をしたのですか」


 口火を切った途端にぐいぐいと会話をねじ込んでくる門。以前、「師範たるもの、相手が話せる雰囲気を醸し出すべし」なんて言っていたが、例外はあるらしい。


「初代王の剣っていう本です。昔、母によく読んでもらったとか」


「ああ、あの絵本ですか」


「ご存知なんですか?」


「もちろんですとも。大陸で一番有名なお話ですよ。王国の建国史が元になっていますからね。本に出てくるような英雄になるんだ、と意気込んで鍛錬をしている教え子もいるくらいです」


 かくいう私も子供の頃は憧れたものです、と昔を懐かしむ門。


 その様子を見ていて、つい宗次郎も想像してしまう。自分も道場に通う子供のように、英雄を目指して刀を振るっていたのだろうか。


 鏡に映る自分を見ていると、ふと門が意味ありげにこちらを見ていた。


「なんです?」


「せっかく建国の歴史に触れたので、今日の授業は外で行いませんか」


「大丈夫ですよ。どこに行くんです?」


刀預とうよ神社です。宗次郎くんも行ったことありますよね」


「ええ、まあ」


 記憶喪失となった宗次郎が常識を習得するための授業として、門は機会があるごとに別荘の外に連れ出して見聞を広めてくれた。歩き方、人との会話の仕方、お金の使い方、外食の仕方、その他諸々の作法がどうにかできるようになったのは門のおかげである。


 今回もその一環なのだろう。通常では何気ないことも新しい発見になる。憂鬱な気分を晴らすにはちょうどいいだろう。


「あそこには、初代王の剣が使った刀が祀られているんですよ」


 ニッコリと笑う門に、宗次郎は期待に胸をふくらませた。


「行きたいです! ぜひ!」


「ふふ。それでは出かけるとしましょうか」


 こうして午後の予定は決まった。


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