第7話 西園寺公望のプロフィール
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名前:西園寺公望
誕生日:1849年12月7日(嘉永2年10月23日)
身長体重:169㎝、60.75kg。
どこ生まれ:京都府京都市
何した人?:立命館の創始。最後の元老として、昭和まで首相推薦。パリ講和会議首席全権。
学歴:孝明天皇が設置した学習院で学び、その後、フランス留学。桂太郎が仮病を使ってでも軍人になりたくなかったのとは逆に、西園寺は軍人を希望していたが、大村益次郎の勧めで法について学ぶようになる。フランスではソルボンヌ大学で政治学者アコラスから法を学ぶ。
好きな食べ物:羊のステーキ、鮭のバター焼き、秋刀魚。
朝はお味噌汁、炒り卵(炒り方もうるさい)、ほうれんそうのお浸しと納豆。
糖尿病になってからはパンにして、オートミールなども食べるように。
西園寺は食べ物にうるさい、とにかくうるさい。
同じ献立だと気に入らない。なだ万の料理人が料理を作っていたが、気に入らないと箸もつけなかった。
北大路魯山人にゆかりのある星ヶ岡茶寮の料理人だけは4年勤めたが、それ以外は1年たらずで交代した。
料理に砂糖を使わせないなど色々とうるさい。
北大路魯山人にまで「食べ物にはなかなかやかましい人」と言われている。
酒も良いものでないと口に合わないのか、人の家に行く時でも持参している。
趣味:風流才子と言われた西園寺は趣味が多い。印譜、筆史、硯など多数の趣味があり、どこかに印譜に関する名著があると聞けば、見なければ気が済まないほどだった。印譜というのは、超平たく乱暴に言えば、綺麗に彫られた印鑑(篆刻)のスタンプ帳である。また、盆栽が好きで、特に蘭が好き。
家族構成:父は清廉強直と言われた徳大寺公純。公純はなぜか正式な結婚をせず、公望たちはみんな庶子として扱われている。父に倣ったのか、西園寺も四人の妻がいるものの正式な結婚はしていない。
謹厳実直な兄・徳大寺実則がおり、周囲の公家の親は「実則さんを見習いなさい。公望さんのようになってはいけません」と云うほど兄は人格者だった。素行の悪い弟・末弘威麿がいるが、西園寺はこれを立命館学園理事とし、それからは学校運営に尽力したようである。一番下の弟・住友友純は出来た弟で、住むところが無くなっても「助けて」と人に言えない公望のために、空いてる別荘を世話したり、金銭的支援をしたり、何かと面倒見がいい。
西園寺の後を継いだ八郎は毛利家の子。西園寺の娘・新子と結婚するが新子が正月に病気なのに客応対していて具合が悪くなり亡くなってしまうと、西園寺と仲の良かった牧野伸顕を排斥しようとしたりして、関係が悪化する。悪化はしたが西園寺家を継ぐには継いだ。
八郎の長男・公一は尾崎ゾルゲ事件でソビエトのスパイとして逮捕され、廃嫡。八郎の三男・不二男が跡を継ぎ、不二男の長男・公友が今の西園寺家の当主である。
特徴:五摂家に次ぐ清華家・徳大寺家に産まれ、同族の西園寺家の養子になるという生まれながらの貴族。フランス趣味で自由主義者で遊び好きの風流才子。花柳界では「お寺さん」と呼ばれる。
爵位:公爵。他の人たちが維新の功労などで伯爵などから始まる中、高い位の公家であった西園寺は最初から侯爵であった。
人間関係:
光明寺三郎……西園寺の悪友。フランス留学時代に知り合い、二人で女遊びしまくった。フランス帰りの華やかさを持っていた光明寺だが、晩年は不遇で、明治26年に肺結核で死亡。光明寺と芸者の間に生まれた遺児・三三郎は西園寺が引き取って育て、俳優となった。
「おじい様は誰よりも僕が一番可愛いんだ」と三三郎が豪語したように、血の繋がりのない親友の子を西園寺は非常に可愛がった。
中江兆民……西園寺と同じくフランスに留学し、共に『東洋自由新聞』を始めた自由主義者。兆民は優秀な頭脳を持つと共に奇行が目立ったが、西園寺はその野人ぶりを許し、自分の家に住ませていたこともあった。兆民の遺児・中江丑吉は後に中国学者となり、西園寺はその支援をしている。友達の子の面倒はよく見る西園寺。
陸奥宗光……西園寺の親友。陸奥は西園寺を「天下第一等の高人」と評し、西園寺は陸奥を「眞に天下の奇才であった」とその死を悼んでいる。
原敬……原はそもそもは陸奥の腹心である。それが後に西園寺の下で実権を握る位置に立つが、西園寺は原を認めてはいるものの好意的かというとまた別であり、原も原で西園寺を「権力の執着に乏しく、手腕に欠けている」と評するなど確執があった。
近衛文麿……五摂家筆頭の家である近衛には早くから目をかけ、パリ講和会議にも連れて行っている。期待をかけていたものの、近衛は軍部に近づき、それでも西園寺は「なんとか近衛を地道に導く方法はないだろうか」と考え続けたが、近衛が日独伊三国軍事同盟を成立させると、さすがにもうあきらめたようだ。
女性関係:
西園寺の女性関係は複雑である。四人の妻がおり、芸者だったり、女中だったりするのだが、それが一緒に暮らしていたり、追放されたり、忙しい。
西園寺の妻の一人は新橋の芸者だった菊子。西園寺の娘・新子を産んでいるが、西園寺とは西園寺が死の床につくまでの数十年会うことがなかった。
同じく新橋の芸者であった房子は、園子を産み、西園寺本邸に暮らしていた。西園寺曰く「妻に似たもの」。
奥村花子は西園寺家の女中頭でパリ講和会議にも同伴させたが、花子が産んだ娘・加代子を西園寺は自分の子供とは認めず、自分の籍にも入れさせなかった。その後、西園寺の家に出入りしていた銀行員の子を宿したとして執事や他の西園寺の娘らに共同で追放を勧告され、西園寺家から追い出される。
綾子はその花子と確執のあった女中で、花子の跡を継いだ悦子とも揉め、西園寺が悦子だけやめさせて綾子を残したため、西園寺家はゴタゴタする。
各大臣との関係
伊藤博文……伊藤と西園寺が初めて会ったのは明治四年。巴里でのことである。もっともその時は黙礼しただけで、本格的に関わりを持つのは憲法調査の時に随行し、そこで雑談するようになってから親しくなった。ここで初めて西園寺は伊藤を「これだけの話の出来る人はそう多くはあるまい」と感心する。西園寺の別荘というと興津だが、実は元々は大磯の伊藤博文の別荘の隣にあった。伊藤に勧められて『有隣庵』という別荘を建てたのである。「聡明すぎて、人を使うことを知らない人」「誰でも口では忠義忠義というけれど、実行に至っては中々難しいが伊藤は自ら皇室中心主義という行動をした人」など公人としての伊藤を評価する一方、個人としての付き合いでは伊藤を鈍根(生まれつき頭が鈍い)と評し、碁や詩や琵琶歌がうまくなかった、ライスカレーが私も伊藤も伊藤も好きだったなどの私的な面白い話も残しているが、ただ伊藤と思想上ずっと対立していた元田永孚を「大変仲が良かった」というなど、あるいは深い部分は話さなかったのかなと思える面もある。
ただ、やはり伊藤の後継者と言えば西園寺であり、伊藤は民法制定などでは西園寺を買っているため、政友会総裁の座も西園寺に譲っている。
また、私的にもよく遊びに行っており、二人で一緒に相撲を見に出かけることもあれば、常盤屋で呑むこともあった。
黒田清隆……黒田と西園寺は戊辰戦争で共に行動をしている。西園寺は黒田のことを越後時代から知つていると話しているが、どんな人だったかはわからないとも言っている。言葉づかいなども丁寧で、酔うと乱暴だが、普段はおとなしい人だつたと語っている。
その後は黒田は北海道の開拓に尽力し、西園寺はフランスに留学してしまっているので、あまり交流はなかったように思える。
山縣有朋……西園寺と山縣はそもそも合わないタイプである。自由主義的で社会主義にも寛容で議会主義の擁護者と見られていた西園寺と、政党と議会の嫌いな山縣ではまったく合わない。しかし、戊辰戦争の頃からそうだったわけではなく、山縣はお飾りの総督であった西園寺にも丁寧に接した。また、西園寺が駐ドイツ帝国公使兼ベルギー公使の頃には、山縣は西園寺の所に遊びに行き、しばらく滞在していたようである。
また、大正時代になると、山縣は西園寺も元老にするよう奏上し、西園寺は小田原にいる山縣と色々と相談をするようになる。山縣の死後は松方も高齢ということもあり、自分が元老として全責任を負う意識を持ったようである。
松方正義……明治の頃の二人はそれほど関係はない。尊王攘夷派公家であった東久世通禧が「松方正義は薩摩人で大きいところがある人物だからと会ってみろ」と勧めるので、東久世と一緒に会いに行ったが「なんだ、このボンクラ」というのが西園寺の感想だったようである。
ただ、大正時代になり、互いだけが残り二人の元老になり、仲間意識を持つようになったようである。
大隈重信……大隈と西園寺というより、西園寺の親友である陸奥が大隈が大嫌いだった。そのため、外交など職務上必要なことがあっても、陸奥は「大隈はおしゃべりだから」と話に行くのを嫌がることがあり、その背中を西園寺が押したりしていた。
西園寺は早稲田の二十五周年式典に祝辞を寄せている。短い文章であるが、早稲田から多くの卒業生が羽ばたき、国の貢献するところ大なりと評しており、京大、明治大学、日本女子大の創立援助もしていた西園寺からすると、教育者として大隈を評価している面があったのかもしれない。
桂太郎……桂と西園寺は仲が良い。西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」と言っており、大正時代になって、桂が大正政変で追い込まれた際も、西園寺は桂に味方している。また、桂太郎のことを自分たちと同じ自由主義者だったら、きっと原敬と並ぶ実力者になっていたはずと、その能力を評価している。ただ、二人が衝突しなかったのは、桂が短命だったからという説もあり、公爵となり、自分の地盤を固めた桂太郎は、本当は西園寺との協力関係を破棄するつもりだったのではないかと言われており、あるいは本当に親しみを感じていたのは西園寺だけだったのかもしれない。
最期は?:西園寺は「俺は死んでも坊主や神主の世話にはならぬ」として、国葬も辞退したがっていたが、最後の元老である西園寺は壮大な国葬となった。数万人が参加し、三越百貨店では「西園寺公を偲ぶ展覧会」が開催されるほどの人気だった。遺言により西園寺に関わる多くの書簡、資料類が焼かれてしまったのは、日本近代史にとって本当に大きな損失である。
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