第6話 桂太郎のプロフィール

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名前:桂太郎

誕生日:1848年1月4日(弘化4年11月28日)


身長体重:身長156㎝?くらい、体重86kg以上。若い頃は中肉中背の紅顔の美少年といわれたが、その後、太る。大病した時は50kg台まで落ちてるので、増減の激しいタイプなのかもしれない。足が短かったため、馬に乗るときは馬を高い台の方に連れてきて、高い台から乗っていた。(足をかけて乗るということが出来なかった)(すみません、体重は桂太郎の伝記にあるから合ってると思うのですが、身長はどこで五尺二寸とどこかで見た気がするのですが忘れてしまったので?付きで)


どこ生まれ:長門国阿武郡萩町萩城下。(今の山口県萩市)

何した人?:ドイツを模範とした陸軍の軍制改革・整備、教育総監部(監軍部・陸軍教育管轄機関)等の創設、日英同盟・日露戦争開戦を主導、社会主義弾圧、南北朝正閏問題の介入、拓殖大学の創立、軍の災害派遣活動(桂太郎が名古屋の第三師団長だった時に濃尾地震が起き、桂は師団司令部条例を災害にまで適用して、負傷者救助・消火などに軍人を当たらせる。これが現在の自衛隊災害派遣にも繋がっているという説がある)


学歴:藩校明倫館に学ぶ。桂の叔父は松下村塾の最年長者・中谷正亮であり、桂は松下村塾とも縁がある。明治3年に洋行。桂がドイツで学んだことが、後に日本陸軍をドイツ式に変える要因となる。桂は3度洋行していて、明治8年にはドイツに留学し、軍事行政・軍制を学ぶだけでなく、ベルリン大学で法律・経済などの講義も聞く。西南戦争などには参加せず、海外で軍事研究に邁進していたが、大久保利通の死去後、日本に戻る。その後、桂は側図や報告など様式がまちまちだったものを、同一方式に改善するなど軍の制度を整える。桂は荒っぽいタイプの軍人ではなく、能吏といえるタイプの人物だった。優秀な官僚がたまたま軍服を着ているといっても良い。3度目の洋行は「軍政府は行政に比べて改革が遅れている」ということが憂慮され、大山巌陸軍卿自らが欧州兵制視察をすることになり、桂太郎は川上操六、三浦梧楼らと共に14名で視察に向かった時である。明治15年に伊藤博文が憲法調査に欧州に行くが、それの陸軍版といって良い。

「軍制の桂、兵術の川上」と言われるように、桂はやはり軍政の人である。

ちなみに若い時の勉強という意味で3度の洋行と書いたが、実際には総理を歴任後の明治45年にも欧州・満州シベリア・ロシアを巡る洋行してる。


好きな食べ物:スイカ

趣味:太郎は骨董も囲碁将棋もビリヤードもしない。「桂には趣味がない、政治や経済が趣味だ、あるいは店に上がって酒を置いて美人と戯れるのは好きだろうが文芸美術の趣味もなく殺風景である」と評されている。


家族構成:桂太郎の父は毛利家の江戸藩邸に勤めていたので、江戸と長州を行き来していて不在がちだった。太郎は主に凛々しい母に育てられる。父は維新後57歳で病没。母も明治7年に病没。太郎には二郎というと弟がおり、兄弟仲は悪くなかったようだが、桂は弟にしばしば悩まされる。事業に失敗した弟が桂の家を勝手に抵当に入れたりして、軽井沢にせっかく作った別荘を売りに出すことになったり大変だった。

もっと大変なのが妹のこま子で、こま子自身の問題ではなく、妹婿の吉村少佐が問題だった。吉村は時代に乗れなかった人間である。吉村は長州藩士・坪井九右衛門の子で坪井は後に岸信介・佐藤栄作という総理を生み出す佐藤家の生まれである。坪井自身は長州藩の過激な尊王攘夷派によって、萩城下の野山獄で処刑されてしまった。しかし、遺児である吉村は軍将校として長州軍人の花と言われ、颯爽たる軍人となった……はずだった。だが、吉村は精神を病み、家に火をつけ、座敷牢で厳しく監禁される。桂はこの吉村に追い出された妹を二郎と共に面倒見たり大変だった。

桂の爵位を継いだのは孫の桂廣太郎だが、廣太郎はとても優秀な人物で、大正時代になると華族の堕落や赤化が問題となったが、廣太郎はただ爵位を受け継いで怠けて生きる華族の子弟たちとは違い、東京帝国大学薬学部を卒業し、薬学博士号を取得。現在の桂化学株式会社を設立し、日本の薬学発展に貢献した。


特徴:大きな頭が桂の特徴である。『巨頭公』と呼ばれた。これは外見のあだ名で、内面のあだ名は当時「ニコポン主義」という言葉があり、ニコニコ近づいてポンと肩を叩く、それは親しみであったり「言わなくてもわかってるよな」という意味であるなどから、それをよくやった桂は『ニコポン』と言われる。また、伊藤博文の腹心である伊東巳代治が言った『サーベルをさげた幇間』もよく使われる。


爵位:公爵

桂の陞爵(爵位が上がること)は仲間同士で推薦しあっているとか、前線に行った将校などもっと讃えられるべき人がいるのにそれを押しのけて栄典しているなど評判が悪かった。

それは戊辰戦争の時からそうで「なんで桂がこれほどもらうのに、もっともらうべき人がもらえないんだ」という不満があり、公爵陞爵の時も何の功績があってといった非難があった。

もっとも子爵などを得た時は、日清戦争の功であり、どの爵位も理由がないわけでもない。


人間関係:

徳富蘇峰……桂太郎の友人。ただ、友人というだけでなく、桂の伝記は蘇峰が書いている。また、桂新党こと立憲同志会創立趣旨草案も蘇峰が書いており、蘇峰は桂の推薦で勅撰議員にもなっている。蘇峰は国民新聞で伊藤博文や山縣有朋らの薩長藩閥政治を批判したと言われているが、『国民新聞』は桂政権擁護の立場を取っており、薩長閥に批判的だったかは疑問である。実際、蘇峰の新聞は「御用新聞」と言われ、護憲派の民衆にも襲撃されている。徳富蘇峰の弟・徳冨蘆花は、大逆事件の際に幸徳秋水らの死刑を阻止しようと、蘇峰を通じて桂太郎に願い出ようとしており、関係の深さが伺える。


木越安綱……木越は長州閥の軍人であるが、長州人ではなく、石川金沢藩士の子である。しかし、山縣、桂、寺内正毅に次ぐ存在として扱われた。「現今多数の陸軍将官中桂の睾丸を緊握しているのは木越だ」と言われていた。政治肌の軍人で、桂と同じく、ドイツに留学してモルトケの元で学び、日本の陸軍をフランス式からドイツ式に変えるのに桂と共に尽力した。木越は桂が第三師団長だった頃、参謀長であり、付き合いも長かったが、軍部の勢力拡大に熱心だった桂と違い、木越は陸軍の猛反対を受けながら、山本権兵衛内閣の陸軍大臣として軍部大臣現役武官制改正案に同意し、現役でない軍人でも軍部大臣に就任できるように改正した。これにより軍が内閣と対立したとき、軍部大臣を出さないことで、合法的に内閣を倒閣できたのが、出来なくなった。木越は軍部の台頭を防いだのであるが、陸軍では冷遇され、大将にも昇進出来ず、定年前に予備役にされた。


寺内正毅……桂と同じ山縣閥の長州軍人であり、後に首相にもなり、ビリケン宰相と呼ばれる。ビリケンさんと非立憲を掛けたものである。寺内や児玉源太郎は桂とは近い関係にあった。


荒畑寒村……荒畑寒村は明治41年の赤旗事件で検挙され、禁固1年の刑を受けた。赤旗事件とは荒畑たちが仲間の制止も聞かず「無政府主義万歳」を叫び、革命歌を歌って『社会革命』と書かれた旗を振って宴会をしていた場所から飛び出し、警察官と揉めた事件である。その禁固1年の間に、寒村の妻が幸徳秋水とダブル不倫をし、それに怒った寒村は妻を殺そうとするがうまくいかず、代わりに桂太郎の暗殺を企てる。桂は社会主義協会を解散させるなど厳しい措置を取った面はあったが、寒村の妻を奪ったのは幸徳秋水であり、桂はなかなかにとばっちりと言える。


女性関係:桂太郎の女性関係は華やからしい。「女が桂公か、桂公が女か」という文もあり、有名なお鯉というお妾さんや子供をもうけたウラ子という女性をはじめ、名古屋でも花柳界で多くの関係があり、陸奥宗光がぞっこんだった芸者に横からちょっかいを出す手紙が残っていたり、いろいろあったようだが、それはこの時代の政治家なので珍しい事ではない。桂が珍しいのは正妻をどんどん変えていくことだ。明治3年に結婚した妻も、明治7年に木戸孝允の媒酌で結婚した妻も、少しすると別れてしまった。三番目のキリスト教だった妻は病没だが、次はその妻の兄嫁を妻にしている。五番目の妻は井上馨の養女にしてもらって結婚したが、これを正式な結婚と認めるか随分揉めたらしい。


各大臣との関係

伊藤博文……伊藤は八方美人と言われることがあったが、桂はそれを上回る十六方美人だと言われた。桂太郎が初めて大臣になったのは第三次伊藤内閣のときである。また、桂の五番目の妻との媒酌人になったのも伊藤である。

大正昭和の本だと桂太郎の日露戦争断行・日韓併合を讃えて、桂の指導力の高さを褒める論調があり、逆に元老たちは指導力に欠けたと言われるが、それは伊藤たちが戦争にならないよう、和平の道を探っていたからである。

「さあ、戦争だ!」と拳を上げるより、暴力で解決せずに、粘り強く交渉して、戦いにならない方を探るほうがずっと難しいのだ。

戦前の日本ではしばしばこういう和平のために努力していたり、戦争がうまくいくよう丁寧に準備していると「腰抜け」「決断力がない」「慎重居士」と叩かれることがあった。

桂は伊藤にも死んだら脳を解剖されて欲しかったらしいが、伊藤が暗殺されたのでそれを言い出せなかったとの事。

また、桂太郎の五女と伊藤博文の時間は結婚しているので親戚でもある。


黒田清隆……黒田はフランス式陸軍を推していたという話もあり、ドイツ式を推し進める桂にあまりいい印象はなかったかもしれないが、関わりを持った様子はほぼない。


山縣有朋……留学後、桂は大尉となり、山縣の下につく。同じ世代で維新活動をしていた人はすでに佐官であり、山縣は桂にしばらく辛抱してくれというが、桂に不満はなく、むしろ帰国して山縣が徴兵制を敷いたことを賛美した。ここから山縣の信頼を得る。

通信の無い時代なので、桂はたびたび山縣の元を訪れており、「目白の親分の大番頭」と桂は呼ばれていた。それくらい密接な関係だった。

しかし、明治後半に桂が自立をし始めてから、二人の間に亀裂が入り始める。

桂が山縣の嫌いな政党を始めようとしたもの気に入らなかったのかもしれない。

桂は大正元年、突然、大正天皇から元帥任命を打診される。しかし、元帥になれば政党の党首に出来ないのでお断りする。これは山縣の策謀だったかもしれない。山縣はそれであきらめず、桂を内大臣兼侍従長として宮中に押し込めて政治からの引退を計ろうとするが失敗した。

山縣からすると、自立が嫌だとか政党をやるなんて言語道断というだけでなく、桂の日露戦争強硬や、日露戦争の褒賞・授爵を自分の仲間たちだけに有利にしているのではという懸念もあったのかもしれない。

もっとも、桂からしても「学者の説は自由にさせておけばいいよ」と放っておこうとした『南北朝正閏問題』(南朝と北朝、どっちの天皇家が正統か等々のお話)に政府が介入しろと山縣に命じられたり、割と迷惑だったことだろう。

日清戦争の際、第三師団を率いた桂は75日間も籠城することになり、その原因を作った山縣を怨んでいたのではという話もある。


松方正義……桂は松方の内閣で陸軍大臣として迎えられる予定であった。薩摩肥前の提携と言われる松隈内閣で、その調整として桂が入れられる予定であったが、行き違いから薩摩の高島鞆之助将軍が拓殖務大臣兼陸軍大臣となった。そのあたりでいい印象がないかもしれない。


大隈重信……大隈の部下・尾崎行雄が行った『桂首相弾劾演説』はとても有名である。「彼らは常に口を開けば直ちに忠愛を唱え、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱えておりますが、そのなす所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである」と、口では忠君を唱えながら、天皇陛下を盾にして政敵を攻撃してるじゃないかと弾劾している。犬養毅も同じく桂を弾劾しており、大正政変が描かれる場合、白薔薇を胸につけた尾崎たちが桂を弾劾するシーンがよく描かれる。大隈の子飼いだった犬養たちが桂の敵に回っているので、あまり仲は良くないかもしれない。


西園寺公望……二人が政権を担った明治後半から大正初期の10年を『桂園時代』という。水面下で対立・抗争をしながら、表面上は妥協・情意投合したと言われたり、桂は西園寺の政権を倒すために密かに毒饅頭を仕込んだとか、西園寺はお飾りで実権者は原敬だなど色々な意見もあるが、表面上は安定した時代であり、そして、桂と西園寺は仲が良かった。大枠で言うと、桂は山縣の後継者であり、西園寺は伊藤の後継者であるため、その対立の構図が二人にも適用されることになるわけだが、個人としては仲が良かった。お互いのお妾さんを連れて会談をすることもあり、また、西園寺の養子・八郎は桂太郎の内閣総理大臣秘書官にもなっている。もっとも、その仲の良さを原や政友会の人間は苦々しく思っていたようだ。


最期は?:桂太郎の最期は悲しい。

桂には與一という長男がいたが、桂が具合が悪くなった頃、同じく與一も病気になってしまう。本来なら桂家の家督を継ぐ長男だったが、桂が亡くなる前に先に病死してしまう。桂はまだ60代であり、元老世代の次の世代のリーダーたらんという目標を持っていたように見え、新党などにもやる気を見せていたが、息子の死に桂は落胆した。

10月8日に山縣有朋、後藤新平、加藤高明らと最後の面会をし、10月10日に死去。

三回も総理大臣になり、長州閥のトップにいる人物でありながら、桂は国葬にならなかった。早くに亡くなった黒田、薩長ではない大隈は国葬ではないが、他の伊藤、山縣、松方、西園寺は国葬になったのに、桂だけはならなかった。

桂太郎が国葬にならなかったことについては山縣有朋の策略とする意見もあるが、原敬は山本権兵衛首相に「支持される人物でなければ国葬は難しい」と意見しており、山本もそれを採用している。

実際、桂は不人気だった。ニコポンと言われ、それで付いた人間もいたが、政権が長かったのも条約改正の功を自分のものにしたいためとか、国家に何も貢献せず学識のない者でも自己の利益のために貴族院議員にしたなど評判が悪かった。評判の悪さ=その人物が本当に悪かったというわけではない。

ただ、桂がニコポンで仲間がたくさんいたのなら、仮に原や山本が難色を示そうと、三度も総理大臣になったのだから国葬にして当然と押し切ることも出来たはずである。

しかし、そのような動きがあったようには見えず、長州派もあるいは山縣を憚って動かなかったのだとしたら結局は真に思ってくれる仲間はおらず「気の毒ながら不適当」という原敬の言葉は正しかったのかもしれない。

なお、桂の体は生前の本人の希望により解剖されている。桂の解剖は太郎の家で、奥様やご家族、北里柴三郎博士、後藤新平男爵立ち合いの元で行われている。後藤は政治家としての付き合いだけでなく、そもそも医者であるから大丈夫だとしても、頭を切って脳漿を出したり、内臓を出したりして瓶に入れてるのを見させられて、平静を保っていた奥様は胆力があると称賛したい。

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