第5話 大隈重信のプロフィール
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名前:大隈重信
誕生日:1838年3月11日(天保9年2月16日)
身長体重:175㎝くらい。本人が「我輩も五尺八寸餘あるんである」と言ったと早稲田大学野球部史にあるが、この頃、大隈はもう84歳であり、かつ、条約改正に反対する人物に爆弾テロに遭って片足を失った後なので、青年期はもう少し高かったのではと思われる。(実際、老年期より前の他の人たちと並んだ写真を見ると明らかに飛びぬけて高い)
どこ生まれ:佐賀城下会所小路(今の佐賀県佐賀市水ヶ江)
何した人?:早稲田の創設。立憲改進党を結党。日本初の政党内閣を組織。初の始球式。
学歴:7歳で藩校弘道館に入校。藩校改革を唱え、騒動をきっかけに退学。枝吉神陽の「義祭同盟」に参加。後に長崎の佐賀藩校英学塾「致遠館」でフルベッキから英学を学ぶ。この頃、新約聖書やアメリカ独立宣言のことも知る。
好きな食べ物:メロン。煎茶(番茶は好まない)。佐賀銘菓丸ぼうろ。塩辛い料理が好きで、夜の9時~10時くらいに素麺や寿司などの間食をする。高級料理店的な料理より、お惣菜的なものが好きで、旅行先で高級料理ばかり何日も出されるともてなしに感謝しつつも「大根と鰹節を持ってくれば良かった」とぼやくなどしている。
趣味:園芸。大隈は政治家たちに多い書画骨董などの趣味は持たず、自然を愛し、温室で花を育てるのが好きだった。大隈は紅白の薔薇を何鉢も二階の部屋に並べていて、それには人のような名前の札がつけていた。「俺は芸者遊びをする代わりに花を愛するのだ」と大隈は薔薇に名前をつけていたのである。
演劇や義太夫は嫌いだったが、演劇は早稲田四尊の一人である坪内逍遥のものだけは見に行った。
人と会うこと。大隈は人に会うのが好きで、自分の邸宅を修学旅行や観光旅行に開放しており、その人たちの前で演説もした。地方から東京に遊びに来た人は「大隈伯の邸宅に行ってきた」というのが一種ステータスとなった。大正時代には年に2万人以上が大隈邸に訪れており、朝9時から15時まで来客対応をしていた大隈は、雨などで来る人が少ないと今日は来客が少ないと寂しがった。明治初期も大隈の家は「築地梁山泊」と呼ばれ、たくさんの若者が集まっていた。
家族構成:佐賀藩士の長男として生まれる。父は大隈が12歳の時に亡くなり、母が苦労しながら大隈と弟を育てる。弟・岡本欽次郎はあまり表舞台に出て来ることがなく、存在自体があまり知られていない。大隈の家は母三井子と妻・綾子と先妻との間の娘・熊子と女中との間の子・光子がいた。なお、大隈家のご飯は美味しいとのこと。
特徴:日本人離れした高身長と立派な体格。話が長い。爆弾テロに遭い、片足を切り落としたため右足が義足。
爵位:侯爵
人間関係:
小野梓……大隈の親友。小野の兄の紹介で知り合い、月のうち29日には一緒にいるというほど濃密な関係を結ぶ。政治的な参謀としてのみならず、二人で観劇に行ったり、私的にも仲が良かった。早稲田の「建学の父」が大隈なら「建学の母」は梓である。大隈といえば早稲田だが、早稲田の運営を支えた高田早苗ら早稲田の四尊は、元々、梓に憧れて梓に付いていき、梓が大隈の親友兼参謀となったために、結果として大隈についたのである。「もし小野先生と交わらなければ大隈公とは他人であったかもしれない」と四尊側が語っており、明治19年、33歳の若さで亡くなった梓をみんなが追慕している。現在でも早稲田には小野梓記念館、小野梓奨学金など、小野梓の名前が多く残る。小野梓の本には「政治家としての生涯は恰も大隈伯と同心同躰の如し」とある。
福澤諭吉……慶應義塾の福澤は大隈の友人である。会う前は互いに嫌っていたが、会って話すとたちまち意気投合し、様々な面で助け合う。大隈の部下たちは多くが慶應義塾出身者である。福澤と大隈の間の子と言えるのが矢野龍渓であり、その矢野が大隈と引き合わせたのが犬養毅、尾崎行雄ら歴史に名が残る人々である。福澤の死後、福澤家では「供花は一切受け取らない」と決めていたが、大隈が手塩にかけて温室で育てた花を涙ながらに切って作ったものだと聞かされ、大隈の花だけは受け取っている。
佐賀の人々……大隈は副島種臣や江藤新平ら佐賀の人々から見ると後輩である。肥前佐賀というのはあまりまとまって行動していないように見受けられるが、佐野常民が大隈を心配して長い手紙を出したり、江藤新平が大隈の母が具合が悪いのを心配してカステラを贈ったり、個々には仲のいい点が見られる。
後援した人たち……大隈は様々な人たちを後援している。例えば、南極探検家の白瀬矗中尉。白瀬中尉の探検資金は大隈が大いに動いたのである。他にも救世軍に好意的だったり、大隈の支援は多岐に渡る。
女性関係:大隈と言えば、なによりも妻の綾子である。大隈とは再婚同士だがとても仲が良かった。大隈には女中との間に子供がいたが、これは子供が出来なかった綾子が了解の上で子供を作らせ、子供は綾子が引き取り、女中に暇を出したという話もあるらしい。
全大臣の中でも妻の存在がひときわ強く、他の総理大臣たちと違い、大隈の部下たちは「奥さんに気に入られていたか」が話題になる。
大隈は来客が多いのが好きで、部下たちもよく呼んだが、その人たちの食事を作っていたのは大隈家の女中の陣頭に立った綾子である。大隈の母は大隈が十代の頃から大隈の友達がたくさん来ると、たくさんの料理を作ってもてなしており、大隈は無意識にそれが普通と思っていたようで、綾子だけでなく、娘・熊子も結婚後まで夫と朝食を食べた後はずっと大隈の家の台所に立っていた。政治面でも大隈が了解せずに部下たちが困っているとき「ちょっとお待ち下さい」と綾子が説得に行って了解を取り付けるなど、大隈への影響力が強い。
大隈にも立憲改進党にも早稲田にも大きな影響を与えた賢夫人である。
各大臣との関係
伊藤博文:伊藤と大隈は明治十四年の政変で一度袂を分かつが、伊藤はその後も大隈のことを気にしている。憲法調査に旅立つ際、自分の随員の一人を見送りに来た、大隈の親友・小野梓を自分のほうにスカウトしようとしたり、欧州でも大隈に手紙を書こうとしてやめている。伊藤と大隈は大磯に共に別荘がありながら、行き来がなかったと書かれている本もあるが、大隈が伊藤の『滄浪閣』を訪ねた時の写真もあり、伊藤の部下が大隈とご飯を食べに行くこともあり、密かに縁があった。伊藤が暗殺された時、大隈は「畳の上で死ぬより、満州の野で刺客にやられたのは死栄であったと思う」と言っているが続けて「伊藤は実に華々しい死を遂げたと僅かに自分を慰めている」と言っているあたりに大隈の心情が見て取れる。
黒田清隆:黒田は竹を割ったようなさっぱりとした性格で、明治2年に大隈が外債を募集するときは反対したが、欧米視察をして戻ると「大隈さん、私はあんたにお詫びせんといけん」と欧米視察前の自分は見識がなかった、あなたにお詫びする、と多くの人々がいる前で過ちを認めたことがあった。黒田は養鶏が趣味なのだが、大隈が足を切断した後、自分の鶏が産んだ卵を持って、徒歩で大隈の見舞いに行ったりしている。大隈の黒田評は「黒田と云う男は極めて豪放で率直な男」。ちなみに黒田は嫌いなものは遠慮なく素直に嫌いというタイプだったらしい。
山縣有朋:山縣のプロフィールで大隈の部下たちが山縣を嫌っていたと書いたが、部下たちだけなく、早稲田の生徒たちも山縣が嫌いだった。それは山縣が民権や政党を嫌っていただけでなく、民権の政治家を育てる早稲田のような私学を嫌っていたからである。早稲田と椿山荘は現在の地図を見てもわかる通り、距離が近く、早稲田の学生たちは椿山荘の前に行って藩閥政治批判の演説もしている。もちろん巡査などが止めに入るのだが、早稲田の学生はやめない。山縣は激怒して槍を手にして出ようとしたという話もあるが、どこまで本当かはわからない。ただ、言えることは早稲田は上は大隈から下は学生まで山縣のことが嫌いということである。早稲田大学百年史でも山県の評価は「軍人の山県も戦いは拙劣なことで有名」「根っからの藩閥根性」等々ガッツリ評価が低い。
松方正義:松方と大隈の付き合いは実は長い。幕末に長崎で顔を合わせている。しかし、大隈は年下でありながら、常に松方に先んじている。明治政府が出来た頃も、同じく財政を担当しつつ、大隈の方が立場が上だった。明治十四年の政変で一番得をしたのは実は松方かも知れない。政変で大隈が下野したことにより、松方が大蔵大臣・総理大臣になるまで上に行く道が開ける。松方を「大隈財政の否定者」と見る考え方もあり、普段は気が弱いが財政に関しては一言物申すほうだったようだ。「松方と大隈では人物の格が違う」とよく言われるが、ただ、私交がなかったのではないらしい。松方の三男・幸次郎氏と会った時、大隈は「君が我輩の所に来た時分は腕白小僧だったが、近頃は大分えらくなった」と言っているということは、松方が子供を連れて大隈の所に遊びに行くこともあったのかもしれない。
桂太郎:桂園時代、大隈の部下たちは桂太郎に近づいていく。実際、島田三郎など大隈の部下の一部は桂新党と通称される党に加わっている。
西園寺公望:薩長がメインの総理大臣の中で、例外が大隈と西園寺である。西園寺は大隈が編纂した『開国五十年史』に教育史で寄稿もしており、そこそこ交流があったと思われる。
最期は?:大隈の臨終の時には、急報によって集められた少数のものが枕元に集まり、見送っている。ごく安らかな顔をしており、四十年以上、大隈の傍にいた市島謙吉は筆に水をつけて大隈の唇を潤し、沈痛な感慨に打たれている。
「四十餘年間、侯に随従して、侯の赴かるる所へは、影の身に添うが如く、陪侍したのであるが、侯の唇に触れるのは今度が初めである」涙が頬を濡らし、市島は我を忘れて慟哭している。
大隈の国民葬を演出したのも葬儀委員長となった市島である。早稲田・大隈に近い新聞は、国葬になるように求めたが、政府側はそれに応じず、市島らは政府が冷淡であると非難しつつ『国民葬』という名にして、階級に関わらず、どんな人でも同じように礼拝できる葬儀にした。
大隈自身は「何分、一家の私事であるから、極つつましやかに葬儀を営みたい」と言っており、「大隈を送るなら早稲田で校葬にするのが一番良かったのではないか」と外部の意見もあったが、大隈の人生の後半にもっとも寄り添った市島が選んだ葬儀なので、これで良かった気もする。参加した人の言葉だと、礼服を着た高官と近所の魚屋が混じり、盛装した貴婦人と子供を背負った主婦が同じく並ぶなど、人を愛した大隈らしい、老若男女どの身分の人もやってくる葬儀になったとのことであった。
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