第4話 松方正義のプロフィール
(※『松方正義逸話』という本作りました。松方さんのいろんなエピソードを載せてますので、良かったら検索してみてください。)
名前:松方正義
誕生日:1835年3月23日(天保6年2月25日)
身長体重:170㎝くらい、75kg以上。
どこ生まれ:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村。今の鹿児島県鹿児島市。薩摩出身。
何した人?:日本銀行を作った人。
学歴:薩摩藩士の子が通う藩校「造士館」出身。若い頃は弓と馬が得意だった。
好きな食べ物:餅菓子。おはぎ、お汁粉、甘酒大好き。果物だと柿、枇杷、桃、ポンカン、文旦が好き。食後のデザートに毎回、果物がつくほど。朝は毎朝お味噌汁。パンにジャムをつけて食べるのが好き。飲み物は紅茶派。
趣味:書道。本格的に始めたのは60代の頃。70歳の頃に免許皆伝。趣味には淡白だったものの、芸術に深い理解があり、それは松方の三男・幸次郎に繋がる。東京国立博物館、国立西洋美術館に所蔵される『松方コレクション』は、この幸次郎の集めたものである。
家族構成:父は大島貿易で財を成したが、弟の借金を背負い、苦労する。母は松方家が借財を抱えた翌年に病没。兄が三人と姉が一人おり、兄の一人は黒田・山縣が指揮官となった長岡の戦いで戦死している。
奥さんは同じ薩摩の女性。松方は十三男六女の十九人の子がおり、早世した子まで含めると二十人以上の子がいて、二十六人とも言われている。奥さんが産んだのは四男一女の五人だが、他の女性が産んだ子たちも松方家で育てている。なお、松方の末子はあまりに年を取ってから出来た子であるため、松方がそれを恥じ、長男・巌にお前の子ということにして届け出してくれと頼んだという新聞記事もある。
松方の子供について「お前は子だくさんだと聞くが、子どもは何人いるのか」と明治天皇陛下が問われ、あまりに子どもの数が多くて松方が覚えていなかったのか「後日調査の上ご報告申し上げます」と答えたという話は、尾崎行雄の話が元だと思われるが、明治天皇陛下が松方の家に行幸された際、松方の子女を召して御菓子を賜った時に、子女の数の多さをご覧になって「子女の数、合計幾人である」と笑顔を浮かべられた話が元かと思われる。
松方の子供については明治の三大新聞記者の一人・朝比奈知泉が「ただ子福長者なるのみならず、侯の福徳は更にその家門の繁栄に現れている。嗣子巖氏は言わずもがな、曰く幸次郎、曰く正作、何れも皆当世の逸材である」と言う通り、どの子たちも優秀で、政官界、財界など様々な場所で活躍している。
松方正義のご子孫は、『海東会』(松方の号が海東のため)を結成して集まっているが、六百人を超える数がいるという。
特徴:温和な性格。「後入斎」とあだ名されるように、人の後に付いていくタイプで、あまり喋らないし、弁舌は苦手。ただ、公的には公爵などの地位を極め、家庭的にも幸福という幸運の人である。
爵位:公爵
人間関係:
五代友厚……五代とは同郷であり、維新前からもっとも仲が良かった。五代が大阪で病に伏したときにはお見舞いに行き、東京に戻った後、わざわざ後に海軍軍医総監となる高木兼寛に頼んで五代の診察に行ってもらっている。また、五代が東京築地の家で亡くなると、松方は五代が愛した大阪に連れて行ってやろうと思ったのか、五代の遺体を大阪に運び、大阪で葬儀を行っている。なお、五代は亡くなる少し前、黒田清隆と飲み歩いていたらしい。五代は大正時代になって正五位を贈られるが、誰も活動しなければこういうものは贈られるわけではないので、松方が動いたのかもしれない。
西郷隆盛……松方は能吏であり、武人タイプの人間ではない。そのため、西郷のような豪傑タイプには好かれていなかった。松方を評価してくれたのは大久保利通だった。そのため、松方は「西郷どん大好き鹿児島人」タイプからは離れた人間である。
九鬼隆一……松方正義の性格の悪い部下。パリ万国博覧会の時に松方と出会い、深く交流するようになる。十年以上の付き合いがあり、松方が総理大臣の時には選挙運動に尽力し、民権派の大物・大井憲太郎を落選に追い込むなど活躍を見せるが、松方が大臣にしてくれなかったことに怒り、袂を分かつ。しかし、九鬼は尊大で、慶応出身でありながら福澤諭吉にも酷評されており、芸術の庇護者であったが芸術家らからは評判が悪く、女性関係も酷く妻は岡倉天心と不倫するなどあったため、松方が悪かったというより、九鬼が悪かったのではと思われる。
明治天皇……松方はわりとうっかりとした性格で、御倍食(陛下とご飯を食べる)の際、陛下に対し、薩摩弁で「オマンサー」と言ってしまうことがあった。「お前さん」という意味である。話に熱が入ると薩摩弁が出てしまったそうだ。明治天皇陛下は微笑を浮かべるだけで怒ることはなかったそうだが、松方は後から人に聞いて恐縮していたという。明治天皇は松方のやることを信用しており、愛されていた。
女性関係:二十人以上の子が産まれているものの、その内、妻との子供は五人ということは、松方正義にはかなりの数の妾がいたはずである。ただ、松方の妾はどんな人だったのか資料が見当たらず、新聞の伝聞らしいもので「妾の数は二十数人、子の数は一説では八十六人」というものがあるが、さすがにそこまではいないはずである。ただ、女好きと言われる伊藤でも子供が六人なので、相当な数の女性がいたのかもしれないが、意外に隠すのが巧妙だったのかもしれない。
各大臣との関係
伊藤博文……松方は薩摩出身だが、伊藤に近い人間である。薩摩といっても西郷派ではなく、大久保利通に近かった松方は、大久保の後継者である伊藤のほうが馴染みやすかったのかもしれない。伊藤は自分の直属の部下である井上毅・伊東巳代治を松方のサポートに回しており、松方の内閣は「黒幕内閣」と呼ばれるようになる。伊藤と仲が良かった陸奥からは「松方程度の人間は地方の村役場に行くと一人や二人はきっといる」と言われており、伊藤の部下からも軽んじられていた様子が見られる。もっとも松方が薩摩閥として薩摩と長州の争いが起きずに済んだともいえる。
黒田清隆……黒田のところで書いたように、明治16年まではあまり交流がなかったらしい。黒田は軍人であり、松方は能吏だったからだろう。ただ、生麦事件ではふたりとも抜刀するほうではなく、周りを止める方だったと言われており、そのあたりでは一緒に行動しているはずである。明治16年以後は結構な交流があったのか、黒田から松方宛の手紙は200通を超えている。黒田が1900年に亡くなったことを考えると、かなりの数である。
山縣有朋……松方が「黒幕内閣」と言われたのは、伊藤だけが理由ではなく、山縣も理由である。第一次松方内閣の閣僚の品川弥二郎や芳川顕正など山縣派の人間が入っており、また、内務大臣の品川とこれまた山縣の子分である白根専一内務次官が選挙干渉(お金で選挙人を買収したり、銃剣をもって脅したりして、民権派が議員になるのを阻止すること)するのをさせるがままにしていたり、山縣派が他の大臣を辞めさせるのを止められなかったり、山縣の部下にされるがままになっている。総理も順番に押し付けられた感があり、可哀想ではある。
大隈重信……第二次松方内閣は「松隈内閣」と言われ、大隈と松方が連携した内閣なのだが、大隈は「我輩こそは!!」というタイプなので大変だった。
松方内閣が組織されることになり、大臣を誰にするか等の打合せ会議から、平大臣にもなっていない大隈が、まるで自分が総理かのような顔で列席者に内政外交全ての方針を述べ始めたのである。
「総理大臣がこちらに居りますぞ」と他の人が注意するほどだったが、薩摩の樺山大将が「政界の大先輩たる大隈侯の意見に対して、とやかく言うことは心得違いである」と注意した人間を叱ったのでその場は収まった。もっとも年齢的に言えば松方のほうが大隈より年上、かつ、明治天皇陛下から拝命してるのだから、大隈のやりすぎである。だが、大隈は嫌気がさして帰ってしまい、周囲がなんとか宥めて内閣に入れた。第一次が伊藤の部下なら、第二次は大隈の部下たちが内閣書記官長、法制局長官となって松方を見張ったのだが「もう駄目だ」と辞表を出してしまったため、内閣は短命に終わる。「松方公はなんでも後から持ってくる意見に同調する。始末に負えない」と匙を投げたようだ。
桂太郎……桂は軍人であり、あまり接点が内容に思われるが、対ロシア強硬派だった桂に松方が同調していた記録がある。また、桂が二代目校長をしていた獨逸學協會(今の獨協学園)の名誉会員にもなっているので、案外、関係は良好なのかもしれない。
西園寺公望……西園寺と松方は最後まで残った元老である。西園寺は静岡の興津に別荘があるのだが、松方も晩年、興津にやって来る。それは、関東大震災で松方の鎌倉の別邸『鶴陽荘』が大破し、興津の川崎男爵興津別邸に静養に入ったためである。西園寺はその時に松方を見舞っている。
最期は?:松方は関東大震災に遭い、怪我をするが生き残る。鎌倉の別荘が大破し、今もある那須の千本松農場に移って静養、興津でも静養し、小康状態を取り戻して東京の三田邸に戻るものの家族に看取られて死去。享年89歳。国葬となる。葬儀委員長は第一次、第二次松方内閣で書記官長を勤めた平山成信。平山は薩摩ではなく、幕臣の子である。
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