第3話 山縣有朋のプロフィール
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名前:山縣有朋
誕生日:1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉戌年。
身長体重:175㎝くらい、体重は50kgくらい。52kg以上にはなったことがない。胃腸虚弱のために太れなかったとも言われている。
どこ生まれ:山口県萩市。
何した人?:徴兵令の施行、軍人勅諭・教育勅語の作成と発布、地方制度の確立、治安警察法の制定。
学歴:松下村塾。山縣は村塾への思いが強く、明治以後もよく村塾の話をしていた。
好きな食べ物:筍。筍のある時期は毎日食べていた。
趣味:築庭。豪華な邸宅などに興味がなかった伊藤とは真逆に、山縣の邸宅は今に残る椿山荘をはじめ、どれも見事なものである。山縣は明治初期の山城屋事件をはじめ、賄賂の噂が付きまとったため彼の豪華な庭の数々の資金はどこからだと言われがちだが、椿山荘の一万八千坪に及ぶ土地は西南戦争の賞典禄で購入したものである。ただ、山縣のような上の人間だけが高い賞典禄を素早くもらって高い買い物をしていることが兵士たちの反感を買い、後の竹橋事件に繋がったという意見もある。山縣の築庭趣味は岩本勝五郎ら庭師に活躍の場を与えており、椿山荘以外にも小田原の古稀庵や皆春荘など多数の邸宅がある。
家族構成:山縣の家族関係は非常に寂しい。3、4歳の時に母親が病死。22歳のときに父も病没。厳格な祖母に育てられるが、27歳のとき祖母は山縣が贈った京ちりめんで新調した着物を纏って、川に身を投げて自殺。
山縣は祖母が「足手まといになってはならぬと考えて自殺したのであろう」と推測しているが、足手まといになる人間は自決するという概念が山縣に植え付けられたのだとしたら少々怖くはある。また、山縣が一人っ子ならば「足手まといになっては……」と思うかもしれないが、山縣には姉がおり、姉には子供がいた。両親がなく子育てをする孫娘を置いて自決するのかという疑問が残る。
山縣は七人の子をもうけているが、次女以外の六人は早世している。長男は生後三ヶ月、長女は3、4歳、他の子たちも当日や5歳で亡くなっており、山縣の墓は立派だが、小さい子のためのお墓がそばに多数並び、そのときのことを思うと物悲しさを感じる。
特徴:細身の高身長と軍服。軍服を肩掛けにしている写真もある。また、山縣は馬車ではなく、馬で人を訪問することも。
爵位:公爵
人間関係:
時山直八……山縣有朋の親友。同じ松下村塾の生徒であり、時山は山縣率いる奇兵隊の参謀をしていた。北越戦争で山縣が前線を離れた間に幕府側と戦闘になり、時山は顔面を撃ち抜かれて即死。時山は陣頭に立っており、奇兵隊士はなんとか首だけ斬り落として持ち帰り、山縣は時山の死に涙を流したという。後年、同じ松下村塾門下の品川弥二郎に「時山を殺したのはお前だ」と非難されるが、山縣自身も後悔しており、後年になっても時山の墓を詣でている。弥二郎の非難に反論しなかったのは、山縣の応援部隊が遅れたために時山が死んでいて、本当に山縣の責任なためであろうと思われる。
三浦梧楼……陸軍には反主流派の四将軍がおり、また伊藤博文らがそちらに好意的だったため、陸軍を支配したい山縣を悩ませていた。陸軍の中には山縣よりも戦争がうまい人間が何人もおり、三浦や鳥尾小弥太は幕末以来の同輩であり、私的には山縣にいたずらを仕掛けたり、公的には山縣の方針に遠慮なく反対したりした。「山縣さんの応対は親切なのに、伊藤さんはそうじゃない」という客人に「伊藤の泣く折は本当の涙を出すが、目白(山県)の涙はあてにならんぜ」と言っており、両者の違いを表す名評と言われている。しかし、三浦は山縣を完全に嫌いなわけではなく、私的にはむしろ仲が良く、晩年には病床の山縣を見舞っており、山縣も三浦に後事を託している。
大正天皇……明治天皇陛下は伊藤ほどではないものの山縣を信頼していた。しかし、大正天皇陛下は山縣を嫌っており、山縣が参内すると「何か山縣にくれてやるのはないか」と言った。これは何かあげたいという好意ではなく、何か適当に物をくれてやって帰したいということである。山縣が枢密院議長の辞意を内奏したときには、あくまで政治的なパフォーマンスなのだが、大正天皇陛下は辞意を認めただけでなく「いつ辞めるんだ」と辞表の提出を求めたほどだった。山縣は(本人は誠意とか国を思ってと言うであろうが)大正天皇陛下が皇太子時代より上からあれこれ諫言したため嫌われた面もあるだろうと思う。
山縣閥……山縣は陸軍の人間として見られがちだが、山縣閥は陸軍、内務省、地方行政など多岐に渡っている。「長州閥」と言われるが、伊藤の子分とハッキリ言えるのは伊東巳代治(長崎)、金子堅太郎(福岡)くらいで、他にも幕臣を取りたてたりと、伊藤には藩閥らしさがない。逆に山縣は桂太郎や寺内正毅など長州人を陸軍で重用し、長州の周布政之助の子・周布公平を第一次内閣の書記官長にしたり、廣澤眞臣の子・金次郎を総理大臣秘書官にしたり、軍事・内政共に多くの長州人を登用している。
ただ、逆に言えば、山縣はとても面倒見がいいと言える。伊藤は頼って来てもその人間に能力なしと見れば登用しない。使用価値がなくなれば部下に見向きもしない。しかし、山縣はずっと面倒を見続けるし、部下にしてみたものの使えなそうな者でも、どこか中央以外の仕事や民間の仕事を世話してくれる。山縣閥はいわばこういった山縣の面倒みの良さから出来たものであるといえる。
また、陸軍は長州でがっちり固められているものの、内政に於いて山縣の四天王と言われたのは、平田東助・清浦奎吾・大浦兼武・白根専一であり、この中で長州なのは選挙干渉を行った白根だけであり、大事な部分には他県人も登用している。
女性関係:29歳の時、14、5歳くらいの友子さんを妻にもらう。その前に付き合っていた女性がいたようだが、相手が長女ということで結婚できなかった。友子夫人は明治26年には亡くなってしまう。その後、吉田貞子さんという女性を事実上の妻にするが、入籍はしなかった。入籍しなかった理由は不明。また、堀貞子という女性を妾として後援し、京都で茶屋を経営させている。
各大臣との関係
伊藤博文……伊藤が陽なら山縣が陰である。明るく人に好かれる性格で、友人も信奉者も多い伊藤に対し、融通の利かない真面目さと猜疑心が強く少し暗め性格の山縣。政治面でも伊藤だけ見ていると明治の明るい面しか見えないため、山縣のやったことを見なければ明治というものが理解出来ない。
また、山縣は伊藤と違い、人の弱い面が理解できる人である。伊藤は開明的で前向きなのはいいのだが、その分、時代に置いていかれた人の気持ちが理解できていない。細やかな気配りという点では山縣のほうが勝る。二人は対立する面があるものの、伊藤は憲法調査の際、内政の仕事を山縣に任せた。山縣が政治の世界に顔を出すようになったのは、まさに伊藤がキッカケである。また、ライバルではあるが、頼みにしている面も多かった。
三浦梧楼は山縣と近しい人が「山県さんという人は、百の謀があって、一の率直のない人」評していたというが、まさに謀という面では山縣のほうが上である。
二人の違いを表すならば「板垣退助などの民権派の演説会にスパイを送り込み、その状況を聞いて対策を考える」のが伊藤。「民権派の演説会にスパイを送り込み、スパイにわざと過激な発言をさせて民権派を先導し、暴動を起こさせて逮捕する」のが山縣である。
黒田清隆……黒田と山縣の関係の悪さは、明治になっても続く。西南戦争時、山縣は政府側陸軍の実質的な司令官だったが、政府軍は西郷軍との戦いに苦戦していた。そのため、政府は黒田清隆を司令官とした別部隊を編成させ、送り込む。
陸軍のトップであり、装備・物量・兵力で勝りながら西郷軍に苦戦していた山縣からすれば、勝てない山縣が悪いとはいえ、なかなかに屈辱である。黒田は海軍と協力し、熊本南部に強襲上陸。西郷軍を撃破し、孤立していた熊本城を救う。西郷軍に囲まれて飢え死にしそうだった熊本城の政府側陸軍にとっても、膠着状態の中で死者ばかりが増えた山縣配下の政府軍にとっても、黒田たちの別部隊はまさに救世主となったのだが、山縣からすれば面白くない。黒田はその後、山縣の言うことを聞かず、指揮系統を乱したという意見もあるが、部下が死んでもいいから上のダメな作戦命令を聞くのがいいのかという問題があり(それを良しとしたから後の陸軍があんなになった可能性もある)、そもそも黒田からすれば山縣の下ではないという意識もあっただろう。その後、明治十四年の政変では、山縣は大隈を排除するだけでなく、黒田にも批判的な姿勢を取り、黒田を参議・開拓使長官から辞任させる。
松方正義……山縣にとって松方の重要性が増すのは明治より大正以後のことである。多くの元老が亡くなり、松方も政治の第一線からは退いていたが、次代の首相を決める会議には松方も出ていた。堅実実直だが気が弱く、軍事ではなく財政の人であった松方は、山縣にとっては相性の悪くない相手だったのではと思われる。松方は山縣の亡くなる二日前にも見舞いに訪れている。
大隈重信……政党とか議会とかいう言葉が大嫌いな山縣にとって、その政党の親玉である大隈は敵である。18000坪の目白の山縣の大庭園を誰かが褒めると、山縣は「本当は金があれば、早稲田一帯を買い取って、これを池にしてしまいたい」言っていたので、大隈だけでなく、民権派を育てる早稲田大学も山縣にとっては目の敵であった。大隈側もそれをよく承知していて、大隈の部下たちは伊藤には好意的だが、山縣の評判はすこぶる悪い。「狡猾で陰気な策謀家」「自由と民衆の敵」と敵視しており「大隈さんが内閣に入らなかったのは山縣のせいだ」と何かにつけて(仮に伊藤が決めたことでも)山縣のせいになっている。
山縣の後の評判が悪いのは、新聞の多くが民権派の新聞であり、大隈の盟友である福澤諭吉の慶応義塾出身で大隈の部下という人間が多く、それゆえに自由民権運動を弾圧する山縣の評価が低かったのでは……と、ここまで書いておいてなんだが、比較的、長州閥をよく書く伊藤痴遊も「後世に伝わるほどの事はしておらぬが、それでも元帥・陸軍の首脳になったのは不思議」と書いており(痴遊はその後は褒めてる)、また、自分が気に入らない軍人は予備役に回してチクチクと辞めるよう嫌がらせをするなどあったので、政府側からも評判が悪かったから、民権派のせいだけでもないかもしれない。なお、山縣も大隈が嫌いだし、大隈も山縣が好きではないと思うので、ある意味、気が合っている。
桂太郎……桂は明治中期までは山縣の片腕といっていい存在である。山縣は軍政の人である。同時に桂も軍政の人である。前線で戦うより、軍事に関わる政治をやっているほうが向いていた。桂は陸軍に参謀本部が出来るとき、山縣の右腕としてその創設に尽力した。日露戦争のあたりから桂の独立傾向が見られ、山縣と桂の間に亀裂が生じ始める。また、桂太郎の自伝を山縣は嘘ばかりだと非難したという話もあるそうで、後述するが、桂太郎が国葬にならなかったのも山縣の意志では言われている。
西園寺公望……西園寺と山縣の付き合いは長い。北越戦争の際、西園寺が北陸道鎮撫総督として来ており、山縣と共に河合継之助らの長岡藩から奪った長岡城に入ったのだが、なんと新政府軍は一度取った長岡城を旧幕府側の同盟軍に奪いかえされてしまう。旧幕軍が攻めてきた時、寝衣のまま西園寺や山縣は城から逃げた。明治の西園寺は伊藤の部下であり、山縣と関係を持つことはあまり無いが、大正時代になると山縣は西園寺も元老会議に加えるよう天皇に進言。山縣と西園寺はよく相談をし合うようになる。山縣は自分の私設秘書の松本剛吉に自分の死後は西園寺に仕えるよう命じている。山縣は西園寺を自分の後継者と考えており、西園寺側もそういう意識があったようだ。桂園時代は「伊藤・西園寺」「山縣・桂太郎」と目されていたが、大正時代を通じて変化が起きたというわけである。
最期は?:大正11年、病気のため眠るように亡くなる。享年83歳。その1ヶ月前に亡くなった大隈重信と比較され「大隈候は国民葬。昨日(山縣の葬儀)は〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と東京日日新聞が報じた話は有名だが、大阪朝日新聞は「沿道に溢るる群衆の波」と書いており、雨にもかかわらず早朝から民衆が集まり、警官が整理していたとも報じている。「群集は刻々(国葬の行われる)日比谷を取り囲んでぎっしり詰寄せて押すな押すなの混雑」ともある。確かに一万の参列者を入れるために設けた場所には千も入らずがら空きとか、一般参列者も入場券を七千枚配ったが来たのは七百人ということはあったようだが、たくさんの民衆が集まっており「民抜き」とは言えない気もする。大隈と山縣を比較し、大隈のほうがいかに民衆に人気があるかというパフォーマンスのために民抜きと言われたのかもしれない。
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