第2話 黒田清隆のプロフィール
名前:黒田清隆
誕生日:1840年11月9日(旧暦:天保11年10月16日)子年。
どこ生まれ:薩摩国鹿児島城下。今の鹿児島県鹿児島市。
何した人?:戊辰戦争で軍人として活躍。箱館戦争で敵であった旧幕府軍の榎本武揚らの助命を嘆願し、黒田のおかげで榎本・大鳥圭介ら幹部は助かる。明治初期の北海道開拓の中心となり、樺太・千島交換条約に大きく関わり、江華島事件では全権弁理大臣になる。西南戦争でも活躍。開拓使官有物払下げ事件で非難を浴びるも、明治憲法発布時には第二代内閣総理大臣となる。議会や政党に反対する超然主義者。
学歴:薩摩示現流の使い手で、後に免許皆伝。幕末には江戸で砲術を学び、同じく皆伝を受けている。
好きな食べ物:酒
趣味:養鶏
家族構成:両親と姉2人(長姉は早世)妹が3人。母は早くに亡くなった模様。奥さんは清さんと瀧子さん。前妻・清さんは泥酔した黒田に日本刀で斬り殺されたという話があるが確証がない話である。瀧子との間の娘・梅子は榎本武揚の息子と結婚している。
特徴:義に篤い大久保亡き後の薩摩閥トップ。
爵位:伯爵
人間関係:
榎本武揚……黒田は箱館戦争で敵である榎本助命のため丸坊主にまでした。その後、共に北海道開拓を行い、黒田は榎本を外交使節に推薦したり、出獄後の榎本の面倒を見ているが、明治十年代はそれほど親しくなかったようで、黒田が開拓使官有物払下げ事件で追い込まれているとき、榎本が庇った様子はない。
また、黒田は酒の席で明治天皇陛下に「陛下、この席に賊がおります」と言って榎本を指さし「賊がおる、賊がおる」と煽ったと、これは新聞醜聞などではなく『明治天皇記』の談話記録にあるらしい。
ただ、黒田は薩摩閥のトップでありながら、薩摩の人々とは疎遠であり、旧幕臣たちと縁が深く、中でも榎本とは子供同士を結婚させるほど付き合いが深かった。榎本が放免後、外交の場で活躍できるよう推薦したのも黒田である。黒田とセットの人間を上げるならばやはり榎本で、終生、二人の関係は続く。
五代友厚……開拓使官有物払下げ事件で黒田が官有物を民間に安値・無利子で払い下げをすると問題になった、その政商が同じ薩摩の五代友厚である。
実際のところ、五代が払い下げを受けるものは数が少なかったとか大して金になるものではなかったという研究もあるが、民権派からすれば、薩長政府の攻撃材料として非常に有効な材料であり、民権派が中心の新聞は盛んに攻撃した。
木戸孝允……黒田と酒の話は数あれど、有名なのが木戸孝允に取り押さえられた話である。
酒を飲んで暴れていた黒田をっ木戸が取り押さえ、毛布で包んで紐で縛り、簀巻きにして自宅に送り返したという。自分はこの元ネタとなる本を未見なのだが、それ以来「木戸が来た」というと大人しくなったというのが面白いので載せておく。
クラーク博士……「Boys, be ambitious」で有名なクラーク博士は北海道開拓を担当した黒田清隆が札幌農学校に招聘したといわれている。クラーク博士と黒田は気が合ったらしい。
なお、黒田の酒乱の話で、クラーク博士と口論になり、鬱憤晴らしに船から大砲をぶっ放していたら、照準がズレて民家に当たり、人が死んでしまったという話があるが、これは示談金を払って解決した記録があるらしい。
東郷平八郎……東郷は戊辰戦争の宮古湾海戦の際、春日という船に乗っていた。春日は黒田の助言を聞き、艦長・赤塚源六が唯一警戒に当たっていた為、土方歳三たち旧幕府軍の奇襲に応戦できた。赤塚は黒田の軍事的才能を評価していたが、明治初期に亡くなる。赤塚だけでなく、黒田を理解する薩摩の人々は早世する人が多く、それが黒田の薩摩からの孤立に繋がっているような気もする。
女性関係:
黒田は総理大臣の中でも、女性関係が非常に綺麗なほうである。
ある芸妓が黒田の妾と言われていたが、恋愛関係ではなく、金銭の上での付き合いだったようだ。
各大臣との関係
伊藤博文:黒田が伊藤の次の総理大臣になったのは薩摩の人間だったからである。伊藤が憲法作りに集中したいので総理を誰かに渡したいという面もあった。明治憲法発布時の総理は黒田であるが、黒田は何の関与もしていないため面白くもなかっただろうという評もある。お飾りのように言われることもあるが、黒田は人と顔を合わせてきちんと話し、人の心をとらえる力があり、また情報を漏らさないため、伊藤側は黒田の情報を手に入れるのに苦労した。
黒田の酒の上での失敗は不確かなものも多いが、大事な組閣会議に黒田が酒を飲んでいて出席せず、怒った伊藤が退席してしまい、慌てた三条実美が井上馨に黒田の家に行ってもらうが、黒田は拳銃を持ち出して馨を威嚇し、その詫び状を伊藤に送っているので、多分これは本当。
山縣有朋:山縣とは北越戦争で共に戦った。北越戦争の前からの知人であるが、仲違いし、共に参謀でありながら、戦地で会見もしなくなる。立場で呼び方を変える山縣は「黒田さん」と読んでいたのが、黒田が藩内で無役と知ると「黒田君」と呼び方を変えたという話もあるが、定かではない。黒田は本来ならば軍人であり、その後、陸軍に入る可能性もあったとは思うのだが、陸軍は長州に占められており、また、黒田も北海道開拓の方に動いたため、その後は別の道を辿る。
松方正義:黒田は同郷の薩摩の人たちと折り合いが悪く、松方正義とは明治以後、近くに住んではいたものの疎遠だった。しかし、明治16年に松方の家が火事になり、黒田は松方の家に駆けつけ、消火に協力。それから少しずつ交流が始まる。
大隈重信:黒田と薩摩閥が長州閥に後れを取るキッカケとなった開拓使官有物払下げ事件は、大隈をきっかけに始まっている。開拓使の所有する官有物を、格安で払い下げることを、まず大隈が反対した。大隈はこの時、前大蔵卿であり、かつ参議の筆頭であったため、その発言力は大きく、他にも政府内で反対があったため、反対派は大隈を後押しした。
しかし、黒田は明治天皇陛下の裁許を強引に得て払い下げを決定。この事が民間に漏れ、民権派が主に運営している新聞は政府を叩き、新聞を運営する面々は大隈の部下であったり関わりのある人が多かったため、この情報を漏らしたのが大隈ではないかと言われていた。開拓使官有物払い下げ事件は明治十四年の政変に発展し、大隈は背後の福澤諭吉を含めた大隈派ごとまとめて政府から追い出される。
そうなると、因縁の相手なのだが、黒田は自分の内閣の外務大臣に大隈を留任し、共に外国との不平等条約改正に奔走する。条約改正案が原因で、大隈が爆弾テロに遭い、右足を切断したときには大隈を見舞い「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」と述べている。
桂太郎:桂太郎は黒田より8歳年下で、同じく戊辰戦争に参加しているが、手紙などが残っているものの、交流がそれほどあった様子はない。桂太郎が第一次桂内閣を組閣した明治34年にはすでに黒田は亡くなっており、交わることは少なかったかと思われる。
西園寺公望:西園寺は黒田より9歳下。戊辰戦争では北陸道鎮撫総督をしているため、この頃に黒田と会っているかもしれない。
最期は?:1893年頃から黒田は体の不調が増えて、仕事もなかなかうまくいかなくなった。1900年に脳出血で死去。19世紀に亡くなった唯一の総理大臣である。享年も59歳と若い。葬儀委員長は黒田の希望により、榎本武揚が行った。
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